『慶長之掟書』を考察する☆其の三!
第一条だけは本物か?四つの根拠を探る!
『慶長之掟書』に関しては、尺八の研究者に散々不審点を挙げられ、偽書であるとの判が押されてしまっているわけですが、石綱清圃氏によると、第一条だけは、そうではないのでは?という考察がされています。
『慶長之掟書』についてはこちらをご参照下さい↓
その第一条とは、
訳は、
虚無僧に関しては、勇士である浪人にとって一時の隠家であり、警察も入る事の出来ない宗門である。よって武家の身分である事を理解すべきである。
今回は、その第一条の、虚無僧は武士なんだから同格に扱え!との掟書きは一体どんな理由で生じたのか?!深堀りして参ります!
其の一 『難波戦記』における感状に、あの三名の連名あり!
見出しの絵は国会図書館蔵『絵本難波戦記』の挿絵です。
家康公に、本多親子、本多正信と本多上野介正純(息子)がいますね。
(日本史知識浅いものですから、絵に描かれてると分かりやすい…)
難波戦記(又は、なんばせんき)とは…
大坂の陣についての軍記物。
成立年代は不明で、まず12巻12冊本が成立し、次第に増補されていく。このうち増補版で最も流布したのが、寛文12年(1672年)の三宅可参(衝雪斎)の序跋をもつもの。この序跋によると、萬年頼方、二階堂行憲の共著とのことだが、詳細は不明。
末尾に「享保十一年丙午暦四月七日」(1726年)とあるのでその頃に脱稿したものと思われる。
主に大阪冬夏二大戦役の原因、変遷、結果を詳述してあるが、家康が大阪陣の口実とした方広寺鐘銘について起草者たる南禅寺清韓和尚と、難詰者たる林道春(羅山)と二人の言い分を同等にあつかっているなど、比較的公平な見方で筆をすすめているので、このようなところが幕府に忌まれ開版を禁止されたという。明治になって日の目をみることに。
家康の戦略…汗。難癖をつけて戦争を始めるというのが、何時の時代も変わらないということをひしひしと感じます。
こちらも『絵本難波戦記』より徳川家康と本多上野介正純です。
『難波戦記』の説明が長くなりましたが、それに書かれている「感状」にあの『慶長之掟書』にサインされているあの三人の連名があるのです。
1615年4月、夏の陣。この頃家康は京都二条城にあり戦機を熟するのを睨んでいたとき、本多佐渡、同じく上野、京都所司代板倉伊賀も家康の麾下(旗本)にあり、ともに軍議に携わっていた。この時、紀州の守護は但馬守浅野長晟。彼は先に興国寺を再建した浅野 幸長の弟。慶長十八年、幸長が嗣子(跡取り)なく病死したため、家督を相続して紀伊和歌山藩(紀州藩)主となった。この長晟が泉州樫井に出陣して、大阪方大野治房二万余騎と対陣していた留守中に、大阪に内通していた紀州の土豪三千余騎が一揆をおこす騒動が勃発。急を知った長晟はただちに家康の命をうけ樫井と紀州と両面作戦を展開し、自らは紀州に帰り忽ち一揆を鎮定。首謀者21名の首を討取り、多数処刑。あわせて樫井の戦いでも、塙直之らを討つという功績を挙げた。
大阪夏の陣の際の感状に、家康の意志に従って三人連署、
本多上野、板垣伊賀、本多佐渡の三名連名による下賜がある。
下賜とは、身分の高い人から身分の低い人に与えるもののこと。
この功によって下賜されたのが以下の感状。
浅野長晟本人には家康墨印付きの感状を下賜、使者の者には連署の感状を出している。
使者に馬まで賜り、感状の宛名には主君の名前をだすなど、まことに抜け目の無いやり方であるが、どんな些細なことでも与力したものに対しては、細大漏らさず褒美の品を与えたということは、家康成功の一因であったかもしれない。
もし何れかの戦場において、虚無僧群が家康のために一働きしたとするならば、かれらが感状をもらったとしても不思議はない。しかも武浪者あがりの虚無僧であるから、その可能性は十分にあり、またその著名は家康本人ではなく、本多上野以下二名の者であったであろう。(石綱清圃)
虚無僧群にも感状は送られていたかも知れないが、捨ててしまったのかも知れない。それを掟書に利用したのでは、という憶測。
要は、この感状があるのを良いことに、虚無僧達が『慶長之掟書』を創り上げてしまったということですが、んんー、「家康がくれた賞状、もういらないから捨てちゃったのかも」なんてかなりの憶測が入っている気もしますねぇ・・・。時が経てば必要性も無くなり、実際の褒美が手に入ったら賞状など捨ててしまうかもしれない、とのこと。
其の二 越後明暗寺の創建者が家康に貢献した?!
室町時代の終わり頃、加賀藩の武将菅原吉輝は訳あって武門を捨て、京に出て、文遊庵主(京都明暗寺の者といわれているが不明)に就いて尺八を学んで、的翁文仲という虚無僧になり諸国を遍歴した。後、江戸駒込に住んだが、偶々尺八愛好家の堀丹後守直寄の知遇を得て懇意となり、家康へ推挙され、御側役の下の諸国道案内人役となり、五騎百二十五卒を率いることになり、元和元年大阪夏の陣に功を建てて旗本並の格式にされ、五騎二十五卒の軍役寺として普化寺建立を許されたという。この辺までは普化宗神話と云うべきであろう。間もなく、堀丹後守は越後村上藩に任命されたので、文仲は直寄に随身し、堀の字を賜り堀田と姓を改めて代々堀田姓を名乗ることになった。文仲は元和四年、中名沢に龍耕寺を菩提寺にして、明暗寺を建立した。二十二年後に直寄の子、丹後守直時が村松藩主となって、この寺はその後永く村松藩主の庇護を受けた。(値賀笋童『伝統古典尺八覚え書』より)
虚無僧が家康から感状をもらった可能性のある実例として記憶すべき…。
ということで、またもやこちらも憶測ですが、越後明暗寺は普化寺の中でも極めて特異な規程を持っており、妻帯、肉食を許し、又帯刀もしていた。そして住職は代々文仲の子孫が跡を継ぐ世襲制、そして受戒得度、剃髪をしなかった。村松藩の軍役寺として、いざという時戦場の道案内や隠密を命ぜられたのであろうとのことです。
其の三 大阪夏の陣で虚無僧たちが真田幸村をやっつけた?!
三世宝井馬琴の講談の中に、慶長十九年霜月九日、京都正月院虚無僧が、真田の焼討ちにあった家康を救ったという一節がある。(雑誌『三曲』誌上に昭和2年発表)勿論これは講談であるから史実ではない。この頃の家康はまだ二条城にあり、関東大阪両軍の尖兵 が天王寺で戦端をくり展げた当初である、だから家康はほうほうの態で正月院に逃げ込んだという話はあたらない。しかし、その後の戦いの推移のなかで、それに類するような危険にさらされたことは事実である。
慶長二十年(1615)夏の陣の最後の激戦のあった日。茶臼山に布陣した真田幸村は、手兵三千を率いて家康の本陣に突入した。勇猛果敢な幸村の奮戦は、ついに家康の馬印をも倒したのである。一書に依ると、幸村の襲撃は三度 におよび、最後には御陣衆まで追い散らされて側にのこっていたものは、本多正重と金地院崇伝ぐらいのもので、家康自身、覚悟をきめて自刃しようとしたというのだから、その惨絶の様がしのばれる。
宝井馬琴のいう京都正月院事件も、このような史実を背景として脚色したものに外ならない。すなわち家康危機一発のところを救った功績によって、虚無僧の身分が保証され、やがて一月寺の創建がゆるされるという筋書きが完成する。(石綱清圃)
家康の馬印、色々あって面白いですね〜🚩
<一月寺の創建時期の考察>
普化宗の記録に依る、1258年一月寺創建の時期が全面的に信用できない。これは宝伏を筆頭とする四居士および金先の実績など、全てが後世の附会にすぎない。ということで、一月寺創建は1600年代であろうということ。
本多上野以下三名の署名にかかる感状の謎が説きあかされている。馬琴の言う京都正月院事件が慶長19年10月9日、掟書は同年正月。家康の危機一発を救ったのではないにしても、越後明暗寺の例にもあるように、正月院の虚無僧が東軍に見方して何らかの功績を表したのではないか。その見返りが身分保障の感状であろう。
一月寺創建の時期について。換え地を頂いて京都から下総の小金井に移ったのが三代家光公ご他界の間際であったという。馬琴ほどの人が一月寺創建の縁起書を知らなかったとは思えない。京都正月院については不明。下総には古くからキンゼン派が存在していたと見られるので、その集団が大阪陣に際して一軍を結成し、東軍に従って出陣した。そして何等かの縁故によって正月院に屯所を構え、のち、時宜を得て下総小金井に一寺を創建した。一月寺という名前にも何かしら相関がありそう。
と、いうことで、講談に書かれているように虚無僧群が家康に加担したから、その後の身分の保障があったのかも?!と、いう一例。
それにしても、わざわざ千葉から大阪まで?家康に何の恩義があったのでしょう?虚無僧も褒美目当なのかしら…。
其の四 『延宝五年法度』『慶長之掟書』に並ぶ三大重要書類の一つ『申伝』にあり?!
またまた重要書類がでてきた!笑
今度は何?
なんと、中尾都山邸にあったとのこと!
申伝とは、明暗寺十四世淵月了源(?-1695)が書いたとされる申し伝え書。
大阪府枚方の中尾邸道場にあったもので中尾都山が扁額に仕立てた。中塚竹禅が同邸にて筆写。竹禅曰く、普化宗及び虚無僧の存在意義を最も明瞭に、具体的に説明した文書。
<訳>
かつて浪人とは二君に仕えず、その為世間を渡るのが困難な者がいる。そういう者が大勢集まり、山賊や盗みをする。一国の重大事に働くのも難しい。中には忠誠を尽くす武士もいるのに不憫だ。普化宗虚竹を慕い、尺八によって托鉢修行し、禅学に心を寄せたならば自然と心も良くなり、心得違いも無いであろう。武浪の身であるから、非公式で軍役で働くとお知らせ申す。彼らは武士と同じである。よって平民の登用よりもさらに、ご入用がかなうと申すべく旨、申し上げる。君主を賛美の上、よろしく取り計らえとのご命令あり。これによって武浪の隠家の宗門、顔を隠す僧、尺八によって修行し長らく宗風を守り、後世の者まで文字通りにいたすべき職業の者なり。右の宗風を定め。右周防守殿より仰せ聞かされ、謹んで拝聴、誠に宗旨の手本、当山の名誉とし、後世に記し置く也。
(意味不明な部分もあり簡単に訳しました)
周防守とは、
石綱清圃の見解
→本物。板倉重宗は切支丹に対しても寛大であった。当時三条白川橋付近に借住居していた淵月一派の虚無僧たちにのぞむところの土地を斡旋して、明暗寺を創建させている。世は懐柔、文治へと大きく転換しよ うとしているときである。知略術数に長じた一月寺の虚無僧たちが、機に乗じて理解ある幕府要人と密議を凝らした結果が『慶長之掟書』となって世に現れたのでは。
中塚竹禅の見解
→偽物。第一、「慶長之掟書」についての記載が無い。十四世淵月了源の時に初めて出来たものの様に思われる。第二、「右周防守殿ヨリ被仰聞謹而拜聴仕」だけでは甚だ不穏当。ただ聞いたというだけでは済まされないはず。幕府から出た公文書があるはずだがそれが無い。第三、「宗旨の規矩、当山の名誉」当山の名誉は明暗寺だけに関する事柄となり、これほどの重大な宗旨の規矩であれば一月鈴法両寺が寺社奉行に呼ばれるか通達を受けるはず。
確かに、中塚竹禅の言い分が正しいようにも思えます。そこで、板倉重宗は切支丹に対しても寛大であったのか、調べてみましたが…、
当時の牢人取締は寛大か?
んんー、とても寛大とは思えない。。。
大阪方の残党の捜索されている頃に、『慶長之掟書』が出されていることはさすがに有り得ないとは思いますが、石綱清圃氏の言うように、もう少し後になってから、機に乗じて理解ある幕府要人と密議を凝らしたのかもしれません。牢人(浪人)というと、下っ端の方の荒くれ者というイメージですが、そりゃ知識教養を身に付けた人も大勢いたでしょうからね。それが『申伝』に色濃く表れている気がします。
もともと、薦僧たちは日本国中あちこちにいたわけですから、そこに武士の身分の人たちが逃げ込んで来て、一体どんなことになっていたのでしょうね。とても気になります。三谷幸喜さんが虚無僧たちが主役の時代劇でも書いてくれませんかねぇ。笑
長くなりましたが、『慶長之掟書』を考察する☆其の三!
終わります〜。
最後までおつきあいありがとうございました♪
実は、次回もまだ『慶長之掟書』が続きます!!!笑
この御掟書、どんどん書き加えられていくのですが、一体どんなことが書き加えられていくのか?!
実物を見ながら、読み解いていきたいと思います!
なんと実物がある?!
其の四はこちら↓
古典尺八楽愛好会のミニ講座もご参加くださった皆さま、ありがとうございました〜🙏