キャスリン・ストック 『マテリアル・ガールズ フェミニズムにとって現実はなぜ重要か』 : 低レベルの「学術書」もどき
書評:キャスリン・ストック『マテリアル・ガールズ フェミニズムにとって現実はなぜ重要か』(慶應義塾大学出版会)
(※ 本稿内の、確認不足による誤記述について、本稿末尾に【お詫びと訂正】を付したので、ここであらかじめ注意を促しておく。ぜひ最後まで読んで、ご確認いただきたい〔2024年11月11日〕)
本書は、先日レビューを書いた、斉藤佳苗著『LGBT問題を考える 基礎知識から海外情勢まで』(以下、「斉藤本」または『LGBT問題を考える』と略記)の「タネ本」のひとつだ。
より正確には、本書を薄めて読みやすくし、資料を増補したのが、前記の「斉藤本」だと言えるだろう。
そんなわけで、本書を通読するのは、なかなか面倒だった。
なぜなら、基本的には、目新しいことは書かれていなかったからで、「斉藤本」との違いは、さすがに元教授の書いた「タネ本」だけあって、持論を展開するための根拠の提示は、「斉藤本」とは比較にならないほど徹底的だったからだ。一一「綿密だ」とは言わないが。
つまり、本書の根本的な問題は、「これだけ読みました」「この人はこう言っています」「あの人はああ言っています」という部分は盛り沢山なものの、そうした参照情報を支える基本構造としての、肝心の「思考・思弁」は「二流」でしかない、という点である。
つまり「三流」の「斉藤本」のようなことはないが、根本的なところで本書は、所詮「二流の学者が書いた二流の本」なのである。
もちろん、その地位を「キャンセル」されたという事情は同情に値するが、それと「学者としての力量」に対する評価は、別問題なのである。
いくつかの、たぶんイギリスの新聞が、
『読みやすく説明している』イブニング・スタンダード紙
『重要な1冊』サンデー・タイムズ紙
『勇敢かつ啓蒙的で、綿密に論じた本』デイリー・テレグラフ紙
『非常に読みやすく、説得力がある』タイムズ紙
といった具合に誉めていたとしても、こうした評価の中身とは、実質的に「よく書けている」の域を出ないもの(優れた内容とまでは言えないもの)でしかないというのは、文章を「読める人」なら、簡単に気づけるはずだ。
また、著者自身が大学の哲学教授だと言っても、
とあるとおりで、もともとの専門は『美学、フィクションの哲学』であって、「哲学」そのものではなく、あくまでも『美学、フィクション』を「哲学しました」ということである。
そのあとで、ジェンダー絡みの発言などで、ジャーナリスティックに「目立った」という人なのだ。
例えば、日本においても、「武蔵大学の教授」で「映画評論家」でもある北村紗衣が、本業は「シェイクスピアの研究家」と名乗りながら、「シェイクスピア文学」の研究家でもなければ、「シェイクスピアその人(人物)」の研究家でもなく、単に「シェイクスピアファンについての研究家」でしかなかったのと、似たようなことだと言えるだろう。
素人は、「哲学」の教授だと聞けば、著名な哲学者の「哲学」に詳しく、「哲学史」にも詳しく、「現代哲学」にもそれなりに詳しいのではないかと、そんな「イメージ」を、なんとなく持ってしまうだろう。だが、「哲学と肩書き」の付く世界は、そんなに狭くはない。
本書著者のキャスリン・ストックは、哲学者や哲学史よりも、まず間違いなく、美学、美術史、フィクション論(つまり、フィクションの哲学)の専門家であって、それらの分析に、せいぜい「哲学者」たちの知見を「援用する」というのが、本来の仕事であると見て、まず間違いない。
そして、そのように看做し得る証拠は、本書のポイントでもあるはずの、哲学者ジュディス・バトラーの思想を、著者ストックが、まったく理解できていないという点に、明らかなのだ。
もちろん、当人は、理解しているつもりで、バトラーを批判しているのだが、そのバトラー批判が、哲学の素人である私から見ても、全然なっていない。
この人は、本書の中で、バトラーを含めた、言うなれば「本流」の哲学研究者たちを、さかんに批判している(実際には、悪口を書いているだけな)のだが、これはたぶん、本人の自供にもあるとおりで、彼女自身が「本流の哲学研究者」たちから、相手にされていなかったからであろう。
実際、著者の「序章」の言葉と「結語」は、次のように、見苦しい「恨み節」が見られる。
つまり、「バトラーの説は、閉鎖的な専門家共同体の中で、単に気を衒って世間受けしただけの逆張り論文にすぎないが、自分のは現実に即した議論なのだ」と、そういう手前味噌でもあれば、バトラーへの無理解を露呈する「心からの嘆き」でしかない。
そんな、専門家からは相手にされていないストックだからこそ、読者に媚びるかのように、次のようにも書いている。
これは、正しくおっしゃるとおりである。
一一だからこそ、私のような「肩書きなき一般の読書人」でも、大学の「(元)哲学教授」をつかまえて、「哲学がわかってない」などと、正しく批判することもできるのだ。
実際、おいおい説明していくが、本書著者のようなバトラー理解(無理解)で満足しているようでは、まともな哲学研究者から、相手にされないのは、むしろ当然のことなのである。
だが、その程度の人(著者ストック)が、そんな「現実」については無自覚なまま、それでも本書において「一応ごもっとも」な意見を表明し得ているのは、単に、「論敵のレベルが、低すぎるから」にすぎない。
もちろん、その「論敵」とは、バトラーのことではなく、本書の主題である「トランス運動家」たちのことだ。つまり、あまり頭の良くない「市民運動家」レベルを批判しているだけだから、その部分では、いかにもごもっともな話にはなっているだけのである。
そんなわけで、本書で著者が批判しているのは、「ジェンダー・アイデンティティ(性自認)」というイデオロギーを広めて、急進的な社会改造を目論む(哲学者でも思想家でもない、単なる)「運動家」である「トランス運動家」たちなのだ。
だから、そりゃあ、「トランス運動家」の「政治的な主張」の、「無理」や「強引さ」を指摘することくらいなら、別に大学教授ではなくとも、さほど難しいことではなかったのである。
要は、バトラーの「ジェンダー理論」をよくわからないまま援用した「トランス運動家」たちの理論のデタラメさを指摘することで、著者のキャスリン・ストックは、なんとなくバトラーの理論まで「批判し得たつもりになっているだけ」の馬鹿なのである。
だが、もちろん、それとこれとは「大違い」。いうまでもなく、バトラーと「トランス運動家」とは、まったくの別物なのである。
例えば、日本のアニメ『ポケモン』のキャラクターである「ピカチュウ」と、それをパクった、中国製の「パチモン」とは、「似ている」と言えば似ているが、その区別もつかないようでは、「美学」研究者の名も泣くだろうというのと、同じような話なのである。
くり返すが、「ポケモン」と「パチモン」は、似てはいるものの「同じ」ではない。
そもそも「哲学の研究者」でも何でもない「運動家」たちが、バトラーの哲学を正しく理解した上で利用していると思う方が、哲学教授の推察にしては「おかしい」のだ。
したがって、ストックが、「トランス運動家たちは、バトラーの理論を正しく理解した上で援用しているわけではない」と、そう正しく理解しているのであれば、「ポケモン」と「パチモン」は、とうぜん区別して語らなければならない。
ところが、本書著者のストックには、それがほとんど出来ていないのだ。
もちろん一部には、その違いについての指摘もあるにはあるが、そういう部分の記述は実に薄く、両者を混同させるような記述は、故意としか思えないほどに厚い。
これでは、哲学の素人が「騙され」ても、致し方のないところだろう。
一一こう言われたくなければ、専門家ぶるばかりではなく、専門家らしく、ちゃんと区別して書け、ということである。
だが、なぜ、そうした基本的なことが出来ていないのかといえば、それはたぶん、もともと「主流の哲学者」たちからは「二流」扱いにしかされていなかったという「ルサンチマン(恨みつらみ)」が、本書著者にはあったからであろう。
だからこそ、そうした恨みつらみを、哲学界のスターであるバトラーに向け、いかにも程度の低い「トランス運動家」たちに、バトラーの理論が利用されているという現実を捉えて、両者をひとまとめに「あいつらはダメだ」と、そう否定しようとしたのであろう。
学者だって人間だから、こういうこともよくあるのだ。
例えば、「武蔵大学の教授」であるポンコツ評論家の北村紗衣なんかは、その極端かつわかりやすい実例だと言えるだろう。
なにしろ、自分が好きな男性以外は、全員「男性」として、女性に対する「ミソジニー」まみれの、差別者扱いなのだから。
ともあれ、本書には、こんな記述がある。
要は「私は、読んでいるぞ」と言いたいのだ。
さて、私も、ジュディス・バトラーの『ジェンダー・トラブル』は読んでいるのだが、『一九七〇年代のラディカル・フェミニズムの文献』の方は読んだことがない。
だが、そんな私でも、本書著者のキャスリン・ストックよりは、バトラーの思想を理解できているという自信がある。だからこそ、読んだにも関わらずわかっていないストックを、「二流」だと断じるのだ。
もちろん、「読む」ことは必要だが、「理解」していなければ、それも意味はないのである。
それに、バトラーを「読んでいないのに、わかったつもりになっている人々」というのは、なにも『「トランス女性は女性」、トランス男性は男性」という同じ題目を熱心に繰り返す』『政治家、著名人、ジャーナリスト、主要な運動団体やNGOの職員、警察や司法の幹部、そして多くの一般市民』だけではない。
本書を読んで、ストックの立場に賛同し、本書を「タネ本」にして本まで書いた、前記の『「LGBT問題」を考える』の著者である「斉藤佳苗」だってバトラーを読まずに同書を書いたし、その「斉藤書」を読んで、ストック言うところの「トランス運動家はケシカラン!」と言っている人たちの大半もまた、まったく同じなのである。
と言うのも、私は前記に『「LGBT問題」を考える』のレビューで、まさにその点を批判していたからである。
「読みもしないで、わかったつもりで批判なんかするな」と。
ここで言及されている、『30ページほど』で『バトラーの理論と一緒に数百年分の哲学の知識も身に付く』説明とは、驚くなかれ、著者である斉藤佳苗が、ネット上で見つけてきた「世界一わかりやすい説明」とやらを、そのまま転載したものなのだ。
なにしろ、斉藤自身は、バトラーの一節を引用して、『…うん、意味がわからない。』などと、バトラーは無論、自分の読者まで舐めたようなことを平然と書くような馬鹿なのだから、そもそもバトラーを読もうという気もなく、『30ページほど』で『バトラーの理論と一緒に数百年分の哲学の知識も身に付く』説明とやらで、バトラーを理解したつもりになり、その上、自分でもバトラーを批判できたつもりになっているような、そんな正真正銘の馬鹿なのである。
また、だからこそ私は、ストック言うところの「トランス運動家」、斉藤佳苗言うところの「LGBT運動家」も馬鹿なら、それを批判している、ストックや斉藤を含む「反LGBT運動家」も馬鹿であり、所詮両者の小競り合いは「馬鹿と阿呆の絡み合い」でしかないと、そう「斉藤書」のレビューで断じたのである。
つまり、斉藤佳苗やその周辺の、日本の「反LGBT運動家」というのは、キャスリン・ストックが指摘したところの「読みもしないで知ったかぶりしている人々」のうち、なのだが、ストックもそこまでは想像できなかった。馬鹿は、敵も味方も同じことで、所詮はお互い様なのだということに。
だがまた、こういう人というのは、必ず「被害者アピール」をして、そこから相手に「悪役」を割り振ろうとする。
要は、理屈ではなく、論敵を「悪魔化」する印象操作で、世間を味方につけようとするのだ。
その代表選手が、やはり「武蔵大学の教授」である、北村紗衣なのだ。
どうして、この人は、こうもあちこちに顔を出すのかといえば、それは北村紗衣が、こうした「テクニック」をフルに使っている業師だからである。
つまり、私がイヤガラセで、名前を出しているというわけではない。「ノーディベート」の北村紗衣がお得意の言葉でいえば、単に「詰め」ているだけなのだ
ともあれ、いちおうは「バトラーを読んだ」という点では、ストックは斉藤佳苗よりは「マシ」なのだが、しかし、読んだにも関わらず、結局は『その(※「反LGBT運動家」が主張する)程度のことをバトラーがわかっていなかったかのように「誤解」』したストック自身『頭の悪い「LGBT運動家」』『と同レベルの、本書著者(※ 斉藤佳苗)のような「反LGBT運動家」に他ならない』のである。
ある意味では、読んでもわからなかったのだから、ストックは、斉藤佳苗ほどタチは悪くなくても、「救いがない」とも評しうる。
したがって、こんな人が「哲学研究者」たちから、まともに評価されないのは、理の当然なのだ。当人が、いかに不満であろうとも、能力が無いのでは、そうした評価もやむを得ない。
「反LGBT運動家」の言う「ペニスの無いトランス男性は、男性ではない」というの同様、「哲学のできない哲学教師は、哲学者ではない」ということなのである。
さて、本書著者キャスリン・ストックも、『「LGBT」問題を考える』の著者である斉藤佳苗も「わかっていなかった」、ジュディス・バトラーのジェンダー理論を、私なりに、わかりやすく説明するしたいと思う。
ただし、そのためには、少し遠回りになるけれども、先に「哲学的な、物の考え方」というものから説明しておきたい。
この部分を理解できていないから、キャスリン・ストックは、ジュディス・バトラーの思想が理解できなかったのである。
○ ○ ○
典型的な「哲学的な提題」として、「なぜ人は人を殺してはいけないのか?」という設問がある。
例えば、私は読んでいないが、昔、哲学者の永井均と小泉義之の共著に『なぜ人を殺してはいけないのか?』というのがあったのだが、まさにそれだ。
この「なぜ人は人を殺してはいけないのか?」という設問に対して、「そりゃあ、いいわけがないでしょう」と言って否定するだけでは、無論ダメだ。
なぜ「ダメ」なのか、その根拠の提示が無いからである。
では、「警察に捕まって罰せられるよ」とか「殺された人や、その家族が悲しむでしょ。あなただって、大切な人が殺されたら悲しいでしょ」といった説明でも、不十分だ。
なぜなら「警察に捕まってもいいよ。死刑になってもかまわない」とか「殺されて困るほど、大切な人なんていないよ。むしろ、殺された方が清々する人の方が多い」と言われると、それ以上は反論できないからだ。
で、「どうして、どうして?」と追求されると、最後は「どうしても!」とか「そう決まっているからそうなの。みんなで決めたことは守らなくてはならないの。そうしないと、社会が無茶苦茶になるでしょ」みたいな、無理やりな決めつけで誤魔化すことしかできなくなりがちなのである。
では、どうして、「なぜ人は人を殺してはいけないのか?」という設問に対して、論理的に筋の通った説明が困難なのだろうか? 単に、質問された人が、頭が悪いとか無知だから、なのだろうか?
そうではない。正解は、「別に、人が人を殺してもかまわない」というのが「正解」だからである。
その「正解」を避けて誤魔化そうとするから、論理的な説明にならないのだ。
現に、戦争になったら、見も知らぬ敵国人を殺してもかまわないということになっているし、犯罪者なら死刑にして殺してもかまわないということになっている。
少なくとも、今の日本は死刑制度を存置しているし、死刑制度を廃止した国の人でも、戦争になったら、敵を殺してもいいと考えている人が大半だろう。本稿の読者の大半だってそうだろうし、私自身もそうだ。
つまり、基本的には、人が人を殺すという行為は「絶対的にいけないこと」つまり「悪」なのではない、ということなのだ。
ただし、それはまた「無闇に殺すのは良くない」とか「理由もなく殺すのは良くない」ということでしかなく、言い換えれば「理由があれば、殺しても良い」ということなのである。
では、その「理由」とは何かといえば、「人間社会の利益のため」ならば「殺しても良い」と、そういうことなのだ。
つまり「殺してはいけない」理由とは、それが「(無条件に自明の)悪」だからではなく、あくまでも「人間(社会)」にとっての「損得勘定」の問題でしかなく、「善悪(倫理)」の問題ではないのである。
だが、では、どうして、「人間社会の利益のためならば、人を殺しても良いんだよ」と、そう「正直に」言わないのかというと、それは、そう言ってしまうと、各人が勝手な判断で「殺人」を犯してしまい、「社会規範」が無茶苦茶になってしまって、その結果「人間社会のため(利益)にならない」から、その「殺して良い場合の基準」というのは、通常「権力者」や「国家」が、独占的に「制定する」ものなのである。その方が、各人が勝手に判断するよりは、「よりマシ」だということなのだ。だから、それは「有無を言わさず、守らせなくてはならない」こととなるのだ。
しかしまた、「権力者」や「国家」の判断が、必ずしも正しいわけではないというのは、歴史を見れば明らかだろう。つまり、「権力者」や「国家」の判断が優先される「合理的な理由」など、実は存在しない。
では、どうして、多くの人は「権力者」や「国家」の判断を尊重するのかといえば、それは、「権力者」や「国家」が、「権力(暴力)」を独占的に持っているからである。
つまり、逆らっても勝てないから、しかたなく「権力者」や「国家」の判断に従っているだけで、それが「客観的に正しいから」ではないのだ。
したがって、「なぜ人は人を殺してはいけないのか?」という設問に対する正解は、「権力者の統治上の都合」ということでしかなく、それが「正しいことだから」ということではないのである。
要は、一一これが「哲学」的な、物の考え方なのだ。
「哲学」とは、このように突き詰めて考えていって、物事の本質や本性に至ろうとする、思考努力なのである。
では、なぜ、哲学者ですら、「なぜ人は人を殺してはいけないのか?」という質問に対して、端的に「いや、殺してもいいんだよ、君に権力さえあれば」と、そう正直に言わないのかといえば、前後の説明もなく、ただ単にそんな結論だけ言ってしまうと、多くの人は、その結論が意味するところの、この世の「殺伐とした現実」に耐えられないからである。
その証拠に「宗教」がある。
多くの人たちは、この世界には「(善き)意味がある」と、そう思いたいものだ。
「私が生まれてきたことには意味がある」
「私の苦労にも意味がある」
「私が妻を愛し、子供をなしたことにも意味がある」
「善行をなすことには意味がある」
というふうに考えるわけだが、その「根拠」が「どこかにある」と、そう考えなければ、すべてが虚しいものと思えてしまう。
だから、多くの人は「宗教」を始めとした「超越的な価値」を求めずにはいられない。
「この世界には、意味なんてない。ただなるようになっているだけ。当然、そこには、もともと善悪なんてないし、善悪の制定者なんてものも存在しないんだよ」などと言われて、その言葉の重みに耐えられる人など、一人もいないのだ。
だから人は、「生きる意味」という「フィクション」をでっち上げるし、それが是非とも必要なのだ。
つまり、人間が「よりよく生きるための意味」とは「すべてフィクション」なのである。
それが無くては、「人類という種」が、他の生物にうち勝って生き延びていくことができないからこそ、人間は、人間に都合の良い「物語(フィクション)」をでっち上げて、その中で安んじて生き、勝ち抜いているだけなのだ。
そのわかりやすい例として、「人間の命とゴキブリの命は、どっちが重いか?」といった問題がある。
これはもう言うまでもなく、「客観的」には「どっちも同じ命であり同等」だというのが正解だ。
これに対して「人間の方が、高度な知能を持っているから、人間の命の方が大切だ」という人もあるだろうが、無論これは「人間の都合」に過ぎず、客観的には「勝手なこと言うな」で一蹴されるしかない、独りよがりな意見でしかない。
たとえば、その判断基準を「悪意の有無」ということにすれば、人間には度し難い「悪意」があるけれど、ゴキブリにはそれが無いから、まだ「マシ」だとも考え得るのだ。
また、たとえば、人間よりも何億倍も「知能の優れた異星人」からすれば、「人間もゴキブリも似たようなもの」にしか見えないだろう。
普通の人には見分けのつかない「チンパンジーとボノボの違い」と大差ないものだと言えば、わかりやすいだろうか。
どっちにしろ、どっちかを殺さなければならないとしたら、どっちだって「大差ない」ということにしかならないのだ。私たちだって、2匹のゴキブリを見た時に、どっちの命が重いかなんて考えない。人間の場合なら考えるのに、だ。
しかし、だからと言って、そんな「異星人」がやってきて「お前ら、どっちにしろ、話にならない原生生物なんだから、適当に食わせてもらうよ」と言われて、「はい、おっしゃるとおりです」と納得できるだろうか? 「彼ら(異星人)よりもはるかに劣った生物だというのは事実だから、仕方がない」と受け入れられるだろうか?
普通は受け入れられない。人間は「他の生物とは違う」と思いたいからこそ、『聖書』には「神が人間に、他のすべての動物を統べよと命じた」などという「手前勝手なフィクション」を作り上げて、他の生き物なら「食いたいときに食い、殺したければ殺してもいい」ということにしたのである。
しかし、そんな、人間に都合のいい「超越的な判定者(権力制定者)」としての「神」など、存在しないのだ。すべては「人類という種」が、他の生物を制して生き延びるために発達させた「知能」による「作り話(フィクション)」に過ぎないのである。
そう。すべては「力ある者にとって都合の良い、作り話」なのだ。
したがって、権力関係を伴う「男女区別(ジェンダー)」だって、当然「フィクション」であり、この場合は、比較的「腕力のある方」によって作られた「フィクション」に過ぎない。
要は「強い奴は正しく、弱い奴は間違っている(弱肉強食)」したがって「強い方を男とし、弱い方を女として、女は男に従うものなのだ」という「物語」を作り、それを「女とされる人間」にも信じ込ませたのである。
ならば、なぜ、ここで「解剖学的な差異」を持って、人間を「男女の2つ」に分けたのかと言えば、外見による「二元論」的区別が、いちばん「わかりやすいから」である。
人間の「思考様式」の基本は「二元論」なのだ。なぜそうなのかと言えば、それがいちばんシンプルでわかりやすいから「その線で、物語(フィクション)を作る方が、最も安定的だから」である。
言い換えれば、「男女」に対する「中間的な存在」としての「両性具有」が現に存在したとしても、それを「男女」と同等の存在だと認めてしまうと「話が難しくなる(権力者と服従者の二元論で片付かなくなる)」。
だから、そんなもんは無い、どっちかの「亜種」だと無理やり二分するために、さまざまな「科学的根拠」を「発見」するのだが、それらは所詮、二分論ありきの「ためにする理屈」でしかないのだ。
本書の『マテリアル・ガールズ』での、著者の説明も、当然その程度のものでしかない。
例えば、
専門用語と数字で、読者を脅しつけているが、ここでストックが言っているのは、「両性具有だとされる人は、トランス運動家が言うほど多くはなく、誤差の範囲内であり、要は、男女二元論を揺るがすような数字ではない」ということである。
言い換えれば、「両性具有」もいるだろうが、気にすることはないほどの「マイノリティ」にすぎない、ということなのである。
たしかに、数の問題であれば、「雌雄二元論」が、優勢ではあろう。
だが現実には、すべての生物において、少数派ではあれ「両性具有的な中間的な存在」は存在するし、さらに言えば、そもそも、すべての生物において「完全に同じ個体は存在しない」のだから、それでも「便宜的な区別」をしたいのであれば、それは「二元論」ではなく、「三元論」でも「百元論」でも、べつにかまわない。
だが、そうすると、現実には「権力者を中心とした、人間社会が回らない」のである。
人間は、この「世界」を、その「二元論」において、分割して理解してきた。
「男と女」だけではなく「敵と味方」、「国民と外国人」「善人と悪人」「適法と違法」などなど。
現実には、その「中間例」が山ほどあるにも関わらず、しかし、基本的な立てつけは「二元論」にしておかないと、「人間社会はうまく回らない」。
だから、「例外は認めるが、基本は二元論だ」という理屈に、固執せざるを得ないのだ。
だが、この「二元論」というのが、そもそも「権力関係」を安定させるためのフィクションでなのだから、それがある限り、人間社会は決して「平等」にはならない。
「男女平等」になったとしても、ではそこから外れる「例外」としての「第三項」は、「男女とその他」という「二元論」における「権力関係」の下の「劣者」の位置に置かれざるを得ないのだ。
つまり、いくら人間を「現実に促して分割」してみても、そこにはやはり「二元論における権力関係」が生き続けてしまう。
「三元論」も「百元論」も、所詮は「二元論の累積パターン」でしかないのである。
一つの集団を、まず2つに分けて、上位集団と下位集団とし、それぞれの中で、また2つに分割して、それぞれの中での、上位集団と下位集団を作る。
これが、人間という生物の、自然な発想なのだ。「正しいも間違っているもない、自然な発想」なのである。
ただし、これは「人間にとっては自然な発想」ではあっても「客観的事実」ではない。
つまり、「男女区別(ジェンダー)」も「生物学的二元論」も、すべて、人間の発想に合わせて発見された「後付けの根拠」であって、それが「唯一の真実」などではないのである。
したがって、ジュディス・バトラーが言った「ジェンダーは制度的なフィクション」でしかなく「行為遂行的には存在しても、実態など無い(客観的に存在するものではない)」とは、そういう意味なのだ。
無論、バトラーは、これを言うことによって、人間(社会)の「制度的な思い込み」に、ささやかなりとも認識のくさびを打ち込むことで「今の当たり前が、当たり前の絶対ではないんだよ。当たり前なんてものは、そもそもないんだ。ただ、その方が都合が良い人がいるというだけなんだ。だから希望を持て」と、そういう趣旨で、あのように語ったのだ。
言い換えれば、ここが重要な点なのだが、「人間的な二元論」はすべて「人間的な思い込み」なのだから、そんなものは「すぐにでも捨てられる」と、バトラーは、言っているのではない、のだ。
人間は、それを捨てられはしないのだけれども、しかし、別のかたちには「変えられる」という希望を語ったのである。
したがって、当然のことながら、「男女なんてフィクションです。だから、明日から、男女区別はなくしましょう」なんてことが「出来る」などとは、バトラーは毛ほども思ってもいないし、そんなことを主張してもいないのだ。
だが、本書著者であるキャスリン・ストックには、それは理解できなかった。だから、単に「非現実的なことを言ってる」としか思えなかった。
ストックにとっては、目の前にある「現実社会」や「男女二元論」が、「物理的な自然」だとしか考えられなかったから、ジュディス・バトラーの言ったことが、「アナーキーな絵空事」だとしか思えなかったのである。
だから、次の文章では、偉そうに『哲学と実学を実りあるかたちで結びつけ、人間が世界から発見したものと、人間が世界に付与したものとの間に適切なニュアンスの区別をつけることに熱心な私のようなアカデミックな哲学者』には『バトラーの世界観は青臭く、簡略化されすぎて単調に見える。』などと書いている。
まさに、自意識過剰で、自分が見えなくなっている、馬鹿そのものだ。
ここで、ストックは、わかったような顔で、
と書いているが、すでに説明したとおり、バトラーの文章が理解できた「哲学」に理解のある人なら、「哲学的思考」と「現実問題に関する検討」とは、次元の違った問題だから、一見つながらなくても、論理的には矛盾せず、併記が可能だというくらいのことは、わざわざ説明されなくても、「わかりきった話」でしかないのである。
つまり、ストックは、
などと書いているが、まんま「わからなかっただけ」なのを、見栄と意地を張って、こう書いているだけなのだ。
ちなみに、
などと、さも、自分にもできるが、人が先にやっているので、やらないだけだと「池乃めだか」のようなことを言っているのも、無論、バトラーの文章がわからないのだから、論破どころか、まともな批判すらできるわけもない。
なお、『すでにほかの人が行なっている。』バトラー批判とは、巻末の「注」に、未翻訳文献として、マーサ・ヌスバウムの1999年の論文のタイトルとリンクが紹介されているが、私は外国語がダメなので、これは読んでいない。
ただ、このヌスバウム論文が、バトラーの理論を真に「論破」していたなら、バトラーの理論は、今まで延命してはいなかっただろう。つまり、「批判はしたが、論破は仕切れていなかった」と考えるのが妥当であり、ストックが「論破」と書いたのは、スターであるバトラーへの嫉妬に発する、そうであったら嬉しいのになという「願望」が、「論破」という強い表現となっただけだと、そう解釈するのが妥当だと思うのだが、さて、いかがであろうか?
(ちなみに『「LGBT問題」を考える』の中で、著者の斉藤佳苗も「はい論破!」という以前の流行語を、否定的なかたちだが使っていた。ご当人に「LGBT運動家」ならば論破できる、という意識があってのことだろう。)
そんなわけで、いい加減な「断言」のあとの、
というのも、当然のことながら、「無理解」に由来する、トンチンカンな「独りよがりの議論」または、凡庸な「わかりきった議論」になるしかないのである。
そんなわけで、こんなストックは、自身の、手前味噌で「見当違いな現実主義」が重視する「現実問題」、つまり「人間的な利害関係」の問題を、いったん、すべて横において、客観的に「現実」を「考える」という「哲学」的思考が、どうしても出来なかった、ということなのである。
言い換えれば、哲学的思考が出来ないから、現実問題を現実的に考えるという、哲学者じゃなくてもできることをやって、これこそが大事なんだと手前味噌に強調することで、「俗情との結託」を目指すしか手がなく、能がなかっただけなのだ。
本書のタイトルにある「マテリアル(物質)」とか「現実」というのは、「人間の社会制度を前提とした価値観(という色眼鏡)を通したそれ」でしかなく、哲学で言うところに「物質」でも「現実」でもなかった、ということなのだ。
もちろん、われわれは「人間」なのだから「人間にとっての」それらが最重要だというのは「わかりきった話」なのだ。
「わかりきった話」だからこそ、「哲学」とは、その「避け得ないフィクションとして現実」の向こうにあるものの「本質」を思考しよう(見極めよう)とすることなのだが、キャスリン・ストックには、その「センス」が皆無であり、「人間の都合」という「色眼鏡」を掛けているという「自己認識」が持ち得ず、「みんなが掛けている色眼鏡を掛けている自分」を疑い得ない、そんな「哲学」とは徹底的に無縁の人だった、ということなのである。
一一かなり遠回りしたが、少しはご理解いただけただろうか?
まあ、ここまで平易に書いても、それでも「哲学的なセンスのない人」には、たぶん理解できないだろう。
「そうは言っても、俺は日本人で、あいつは朝鮮人だ」とか言っている人にとっては、そうした「制度的な(彼我)二元論」は「肉付きの色眼鏡」だからである。
○ ○ ○
以上は、多くの人が「騙されやすい」であろう、著者キャスリン・ストックの議論の(そしてご当人の)問題点に論じてきた。
こうしたことを書ける人は、他にほとんどいないだろうから、こちらを優先したのだが、こんな著者ストックの主張さえ、それでも「真っ当に見える」のは、その「論敵」が、ストックよりも、さらに数段レベルが低いからなのだ。
例えて言うなら、ジュディス・バトラーが「人間」なら、本書著者のキャスリン・ストックは「類人猿」であり、その論敵の「トランス運動家」は「犬」というほどの、知的レベルの差がある、ということである。あくまでも「わかりやすい喩え」だというのは、いうまでもないことだが。
では、「トランス運動家」あるいは「LGBT運動家」が、本書著者ストックや『「LGBT問題」を考える』の著者斉藤佳苗に批判される、あまりにも酷い主張(理屈)とは何か?
それが「ジェンダー・アイデンティティ(性自認)」は、「客観的の存在しており、それが法的・制度的にも、ジェンダーとされなければならない(認められなければならない)」という主張である。
「そんな頭の中の想念の存在が、どうして、在るものとして確認できるのだ。確認できない主張を事実として制度を整えよと言われても、それだったら、言ったもん勝ちじゃないか」と、そういう話だ。
「私は神である。したがって、すべての人間は、我にひれ伏せ」てか? 一一という話なのだ。
ここからは、この「ジェンダー・アイデンティティ(性自認)」イデオロギーの「問題点」と、それを掲げる「トランス運動家」あるいは「LGBT運動家」の「問題点」を説明していこう。
しかし、この主張が、いかに酷いものなのかいう説明自体は、前記のとおりで、至極簡単である。
現に、キャスリン・ストックにもできるくらいにだ。
また、このことについては、『「LGBT問題」を考える』のレビューに、少し詳しく書いたから、まずはそちらを読んでいただくこととして、それをここでは繰り返さない。
さて、キャスリン・ストックが「トランス運動家」と言い、斉藤佳苗が「LGBT運動家」と表現する、この違いとは何なのか。
私が思うに、もともと「LGB(レズ・ゲイ・バイセクシャル)」への理解増進を目指す運動に、「トランスジェンダー」が加わったことによる運動の変質が、そこでは問題になっている。それが「LGBT問題」とされるものなのである。
「LGB(レズ・ゲイ・バイセクシャル)」というのは、「私は男だが、男が好きだ」「私は女だが、女が好きだ」あるいは「私は男(または女)だが、両性が好きだ」という人たちのことだ。
つまり、自分が「男」なのか「女」なのかの「自認」には何の疑いも持ってはいないが、ただ、その「性愛の対象」が「異性ではない」という点で、少数派である人たちのことだった。
ところが、「トランスジェンダー」というのは、「性愛の対象」が「異性か否か」の問題ではなく、自分自身の「性別に対する違和」を持ち、それを問題とした人たちだった。
つまり「私は、解剖学的には男とされているが、自己認識としては女だ」、あるいは、その逆の人たちが、「トランスジェンダー」である。
当初、「トランスジェンダー」の多くは、「その性自認に合わせて、肉体も改造して、異性になりきる」という態度が基本だった。
つまり「気持ちに身体を合わせた」わけで、要は、少なくとも「見かけ」は異性になりきっての、「異性愛」であったり「同性愛」であったり「両性愛」であったから、「LGB(レズ・ゲイ・バイセクシャル)」にとっても、さほど抵抗がなく、共闘が実現して「LGBT」に拡大されたのである。
しかし問題は、「トランスジェンダー」の問題とは、まず「気持ち(自認)」の問題だから、要は「私を、私の望むとおりに、男(または女)だと社会が認めてくれるのなら、別に肉体改造は必要ない。元のままでいい」と考える人が出てきたことである。
つまり「身体(見かけ)は男とままだけれど、私を女と認めてください」とか、その逆パターンがどんどん増えてきた。
そして、さらに積極的に「大切なのは心(性自認)であって、見かけ(体の性別)ではない」と、そう主張する「トランスジェンダー」が増えてきた。
したがって、(服装や化粧などは別にして)「トランスの男性」とは「解剖学的には、完全の女性(のまま)」であり、「トランスの女性」とは「解剖学的には、完全の男性(のまま)」というタイプが、「トランスジェンダー」の中で増え、その発言権を強めてきたのである。
そうなってくると問題なのが、『「LGBT問題」を考える』のレビューで紹介した、「女性のための占有空間」の問題であり、その典型的な問題が「女性用トイレ」や「女風呂」などの問題だ。
要は、そこへ「私は女だ」と主張する「どう見ても男性」が入ってくるのだから、女性としては、たまったものではない。
そこで、「トランスジェンダー」そのものは「気持ちの問題」として認めるけれど、それを社会空間にまで、安易に持ち込まれても困る、という話になったのである。
なお、この問題における特徴は、その「非対称性」にある。
つまり「女子トイレに、トランス女性(肉体は男)が入ってきたら怖い(困る)」ということにはなっても、「男子トイレに、トランス男性(肉体は女)が入ってきて、大の方に入っても、まあ別にどうってことはない(困らない)」となる、その違い(格差)だ。
したがって、この問題を問題化するのは、「LGBT」の中でも、もっぱら女性であり、男性は無関心だということになりがちなのだ。
そして、本書の著者であるストックも、そんなレズビアンである。まさに、問題の「被害」当事者なのだ。
これも『「LGBT問題」を考える』のレビューで書いたことだが、例えば、レズビアン女性のところへ、トランス女性がやってきて、「私もレズビアンだから愛し合いましょう」と、そう言われても困る。
なにしろ肉体的には男のままなのであり、ペニスもついているからだ。当然、そのレズビアン女性は、そのトランス女性に、嫌悪と恐怖を感じるだろう。
だか、ゲイ男性のところへトランス男性(肉体は女性)がやってきて「私も、ゲイ男性だから愛し合いましょう」と言われても、ゲイ男性の多くは、困らない。
「お前なんかに興味はないよ」と追っ払うか、バイセクシャルでもある男性なら、喜んでお相手になるかもしれないからである。
つまり、ここで問題となるのは、「解剖学的男性は、解剖学的女性に対して、腕力に勝る」という明白な非対称性があるため、「トランス・ジェンダー」を「性別による占有空間」に受け入れるとなると、困るのは、もっぱら「女性」になってしまう点なのである。
だから、「トランスジェンダー」と最初に決裂したのが「レズビアン」であり、その次が「異性愛女性」ということになる。
つまり、「LGBT」による「ジェンダーアイデンティティ(性自認)」こそが大事という「イデオロギー」に反発して「反LGBT運動」に参加している人の大半は、「解剖学的女性」なのだ。
だから、「反LGBT運動」とは、要は「ジェンダーアイデンティティ(性自認)までは認めますし、尊重もしましょう。しかし、それを社会制度にまで拡張しようとするような、過激な運動まで認めることはできません」という運動なのだ。
したがって、「トランスジェンダー」自体を批判しているのでも「ジェンダーアイデンティティ(性自認)」を認めていないのでもない。
要は、その「性自認」を「そのまま社会制度に反映させよ」という、急進的と呼んでもよかろう、その主張に基づく「政治運動」を批判しているのである。
そのため、「反LGBT運動家」たちは、そこまでは主張しない、非運動的な「トランスジェンダー」を敵視しているわけではないし、まして「肉体改造をして、希望する性別にトランスするトランスジェンダー」には共感的だ。
「男になりたいから、男の身体になる。女になりたいから、女の身体になる。これは当たり前ではないか」と考えるから、「身体は元のままで、しかし気持ちは違うから、気持ち(性自認)の方をこそ、社会的に承認せよ」と強く主張する、もはや「トランス運動の主流をなすトランス運動家」に対しては、「何を勝手なことばかり言う」と反発を強めているのである。
つまり、キャスリン・ストックが言う「トランス運動家」とは、こうした過激な「ジェンダーアイデンティティ(性自認)」主義者のことであり、その一方、斉藤佳苗が「LGBT運動家」と広く表現するのは、「トランス運動家」という表現だと「トランスジェンダーを目の敵にしている」という誤った印象を、一般に与えかねないと、そう判断したからではないだろうか。
実際のところ、今の「LGBT(LGBTQなどを含む)運動」は、実質的には「解剖学的性別」の問題や「性愛対象」の問題ではなく、「性自認」の法的保護、つまり「性自認を尊重して、社会制度を変更せよ」と主張する、ラディカルな「トランスジェンダー」に牛耳られているのだから、それならば「LGBT問題」と表現した方が、比較的誤解が少なく適切だろうと、そのように判断したためではないかと思われる。
○ ○ ○
そんなわけで、では、この「LGBT問題」に対する私の立場はどうなのかというと、それは、
というものだ。
つまり、今の「ジェンダーアイデンティティ(性自認)」主義者による、ロビー活動を中心とした、反言論的な「独善的なやり方」には反対するし、その点では、キャスリン・ストックや斉藤佳苗の主張と、実質的な違いはない、ということだ。
しかし、私が、この二人と決定的に違うのは、この二人が、ジュディス・バトラーの哲学、つまり「ジェンダーは制度的なフィクション」であるという「深い思想」を理解しないまま、バトラーの思想を、独善的な「ジェンダーアイデンティティ(性自認)」主義者のそれと混同したまま、「(社会変革を伴わない)主張としてのジェンダーアイデンティティ(性自認)までならば、そういう考え方もありだと、認めてあげてもいい」という「上から目線の態度」を採っている点である。
それでは、バトラーの言ったことが、意味をなさないのだ。
キャスリン・ストックは、こう書いている。
つまり、自分たちが信じており、社会制度にもなっている「男女二元論」を「基本とした」上で「例外的に、社会的なリソースの配分を考慮するくらいなら、認めてあげても良い」というスタンスなのである。
前にも書いたように、ストックの基本的スタンスは「現状肯定主義」であり、その意味で明白に「保守思想」の持ち主なのだ。
「女性の権利までは、当然重視されなければならないが、男女以外のもの同権は、基本認めない」という、調子の良い立場なのである。
この人の思想は、言うなれば「男性優位主義」であった時代の男性が、女性たちに対して「男性中心社会であるのは当然で、そうでなければ社会が成り立たない。だが、そうした現実を承認した上でなら、女性の地位向上には協力を惜しまないよ」という「パターナリズム」そのものなのである。一一だから、私は、その「隠された部分」を厳しく批判しなければならないと考えるのだ。
そしてそのため、「今の社会構造という結果としての現実」は、いったん脇の置いて、哲学的に「人間」というものを考えてみることが、やはり必要となる。
そうするならば、解剖学的な「男女二元論」というのは「有力な主流による、制度的なフィクション」に過ぎないから、それが「客観的な事実」だなどと考えるのは、いかにも「浅はかな誤認」でしかないとわかる。
したがって、いずれは「男女二元論」という「誤認」は正されて、より平等な世界が目指されなければならない。一一ということにもなるのだ。
これが、「目の前の制度的現実」に惑わされない、真の「原理的な現実」に即した考え方であり、私たちが持つべき「原則」なのである。
しかしまた、私たちは長らく「誤った幻想の上に、便宜的な制度としての社会」を構築してきており、それは多くの人々にとっては、つまり、キャスリン・ストックをはじめとした「哲学的思考のできない」大半の人たちには、「当たり前」になっており、それが「現実そのもの」だと誤認されてしまっている(喩えて言えば、村の風習を、世界の現実だと思い込んでいる、ようなもの)。
だから、それが、いかに「誤認に基づく誤った制度」だとしても、それを、社会の大半を占める人々の理解を得ないまま、「急激かつ暴力的に奪い変更する」ようなことをすれば、当然のことながら、社会は大変な混乱を来たしてしまい、メリットよりもデメリットの方が大きくなるが可能性が極めて高い。
だから、「間違った考えを持つ人たちの考えなど無視して良い。配慮しなくて良い」という「独善」ではなく、「間違った考えを持つ人もまた、同じ人間として尊重しなければならない」というのが、私の立場なのだ。
つまり「間違った考えを持つ人をも、人間として尊重する」というのは、「強制手段によって、その考えを問答無用で否定して変えさせる」のではなく、「話し合い」で、つまり「説得によって、相手を尊重しつつ、徐々に、相手を朝変えていくことで、社会をも正していくべきだ」というのが、以前、前嶋和弘著『キャンセルカルチャー アメリカ、貶めあう社会』のレビューで書いた、次のようなことなのだ。
そしてさらに、アメリカの「分断社会の危機」を描いた映画『シビルウォー アメリカ最後の日』(アレックス・ガーランド監督・2024年)のレビューにおける私の結語も、次のような問いとなったのだ。
ちょうど一昨日、アメリカの大統領選で、ドナルド・トランプの大統領への返り咲きが確定した。
私は、トランプを嫌悪し批判する者だし、その支持者たちに対しても、嫌悪を禁じ得ない。
けれども、だからと言って、トランプを殺してしまえとか、トランプ支持者の言うことなど無視すれば良い、などとは考えない。
例え、ほとんど「話の通じない相手」だとしても、私たちが「正しい」のでのであれば、正々堂々の「議論」で対抗すべきだし、それで相手を説得すべきである。
また、私たちの側が正しいのであれば、「議論」や「話し合い」という民主主義的な手段を捨てて、策や方法に走った結果、私たち自身が「悪」に落ちるようなことをすべきではないと、そう考えるのだ。
私たちは、敵の弄する策や方法のために、時には「卑怯な敵」に敗れるかもしれない。
だが、最終的に「正義」が勝つためには、敵と同様の「卑怯な人間」になるわけにはいかないのである。
私が、アメリカ社会のかなり深刻な「分断(二極化)」を憂い、「LGBT運動家」と「反LGBT運動家」の「分断」を憂うのは、「意見の対立があって、まとまらない」からではなく、双方が「あいつらは話に応じない、話ならない奴らだ」とお互いに相手を「悪魔化」して、双方の間で「議論」が成立しない状態が生まれてしまっているからである。
例えば、『「LGBT問題」を考える』のレビューで、私は「LGBT運動家」と「反LGBT運動家」の双方に対し、根拠を示して批判した上で「馬鹿と阿呆の絡み合い」だとまで批判した。
だが、その後、一週間が過ぎても、どちらからも、うんともすんとも言ってこない。「反論」が無いのだ。
両者は、お互いに「相手は、キャンセルやノーディベートという、卑怯な手を使っている」と批判し合ってきたのだから、当然、私のような者からでも、公然と批判されれば、それに反論するのが「筋」ではないのか?
自らが「ディベート」を避けていながら、論敵のことを「あいつらはノーディベートで卑怯だ」などと批判することこそが、「言行不一致」の卑怯であり、まるで自分は「ディベート」を待ち望んでいたかのように言うのは、「虚言」にしかならない。
もちろん、「あの程度の、レベルの低い批判など、相手するにも当たらない」という立場もあろう。
しかし、それならば、自分たちの主張が、相手から無視されるのもまた、相手が「ノーディベート」なのではなく、単に相手方が、自分たちの批判を「あの程度の、レベルの低い批判など、相手するにも当たらない」という立場から「無視しているだけ」だという可能性にも配慮して評価すべきなのだが、そこにはいっこうに配慮せず、ただ一方的に「ノーディベート」だと決めつけるのは、論理的にも倫理的にもおかしい。つまり、筋が通らないし、そう評価する資格もない。単に、相手に「レッテルを貼っているだけ」だということにしかならないのだ。
言い換えれば、自分たちは「ディベートする」と言うのであれば、公然たる批判に対しては、いつでも堂々と応じるべきだし、その義務があるのである。
一一なのに、それができないのは、要するには、「痛いところを突いてきた批判は無視する」とか「いくら考慮に値する批判でも、社会的影響力のない相手なら無視した方が得策」だと、結局は、そんな「小狡い打算だけで動いている」からではないかと、そう批判されても抗弁できまい。
実際、『「LGBT問題」を考える』の著者である斉藤佳苗は、「note」アカウントを持っているし、「note」で『「LGBT問題」を考える』に関する記事を検索すれば、私のレビューがトップに来るのだから、当たり前に考えれば、斉藤佳苗が、私のレビューを読んでいないはずがない。
そもそも、レビューを書いてくれる人が片手で十分な程度なのだから、いやでも目につくはずだし、興味は持つはずなのである(Amazonのカスタマーレビューも3つしかない)。
だが、斉藤佳苗からも、その周辺からも、また、斉藤らと敵対する「LGBT運動家」の側からも、私への反論が、まったくない。
これが意味するのは、この双方が、所詮は「自分の正義を盲信して、勝つか負けるかの打算だけで動いている、偽善的で嘘つきな運動家たちだ」ということにしかならないだろう。
まさに「LGBT運動家」と「反LGBT運動家」との抗争は、似た者同士による「馬鹿と阿呆の絡み合い」であり、どっちが勝っても、碌なことにはならないという、私の予想どおりになるはずだ。どちらもそれほどに「程度が低い」のである。知的にも、倫理的にも。
○ ○ ○
さて、話を最初に戻して、本書『マテリアル・ガールズ』が、ぜんぜん大した内容ではないと、そう断じた根拠について、補足しておこう。
つまり、先に紹介した2点、
これに付け加えて言えば、日本語版である本書『マテリアル・ガールズ』は、
(3)版元が「慶應義塾大学出版会」であり、「学術書」ぽい。
(4)訳者も、下のような大学教授である。
(5)解説者も、下のような大学教授である。
と、こういった点で、「学術書」っぽいと、そう「ありがたがる」人もあろう。
けれども、これら(3〜5)を考慮したところで、そもそも、「大学の出版局」だの「大学教授」だのが、意外に大したことはないという事実は、著者のキャスリン・ストックを含めたこの3人が、揃いもそろって「ジュディス・バトラーの哲学を理解できていない」という事実に明らかなのだ。
一一その程度のものなのである。
特に、本書の解説者である「千田有紀」は、「解説」において、
と書いているが、私が本稿で縷々論評してきたとおりで、著者のストック教授は「哲学教授」として、ぜんぜん大したことはないのだ。
だから、それを『ストック教授の切れ味に、只者ではないと感じる』らしい、千田有紀もまた、ぜんぜん大したことのない大学教授だ、ということにしかならない。
そして、私が個人的に注目したのは、千田の、次のような記述だ。
つまり、千田有紀は明確に「キャンセル・カルチャー」を批判しているのであり、そして「訳者」である中里見博は、この点について、
と断じている点である。
さて、ここで私は、まだ誰も指摘していなだろう事実を指摘しよう。
それは、「解説者」である千田有紀教授は、「キャンセル」や「ノーディベート」や「フェンネル・オフェンス」や「スラップ訴訟」などを常套手段とする、かの北村紗衣教授の、「武蔵大学の同僚」だという事実である。
しかも、千田有紀教授は、武蔵大学で「フェミニズム」を含む「ジェンダー理論」を講じて来られたらしいし、一方の北村紗衣教授は「フェミニスト批評家」だとか「フェミニズム批評家」だと名乗って、著作を5冊ほど刊行している、「武蔵大学のスター教授」である。
さらに言うと、北村紗衣教授は、単に「タレント教授」として「一般人気」が高いだけではなく、大学から「テニュア」つまり「終身雇用資格(期間の定めのない労働契約)」を認められている、大学にいてもらわなくては困る大切な教授だと「特別扱い」されている、そんな「目立つ教授」なのである。
それでも、千田有紀教授は、北村紗衣教授の存在を、「知らない」とでも言うのだろうか?
知っていたとしても、北村紗衣教授が、「キャンセル」や「ノーディベート」や「フェンネル・オフェンス」や「スラップ訴訟」などを常套手段とする人とまでは知らなかったと、そう言うのであろうか?
仮に百歩譲って、北村紗衣教授の「ネット上でのご乱行」までは知らなくても、さすがに「裁判沙汰」くらいは耳に入っているのではないだろうか。
そんな教授は、さすがの武蔵大学であろうと、5人も6人もいはすまい。
要は、北村紗衣・武蔵大教授にかかわる、「呉座勇一」問題や「山内雁琳」問題の話だが、これについて、耳にしたこともないとか、興味がなかったとでもおっしゃるのだろうか?
それとも当たり前に、身近な問題すぎて「恐ろしくて、北村紗衣批判なんかできない」と、そういうことのだろうか?
あるいは、大学当局から「北村紗衣教授を公に批判したら、お前の方がクビだぞ」と、圧力でもかけられているのだろうか?
だが、だとすれば、身近な問題には、保身的に「沈黙」しておいて、遠いイギリスの事例などについては、安心して「正義派」ぶって「キャンセルやノーディベートはケシカラン」などとおっしゃるのは、いささか恥知らずな行いなのではないだろうか?
実際、本書訳者の中里見博教授もおっしゃっているとおりで、
なのではないだろうか?
つまり、この「正論」から言えば、千田有紀教授は「学者」として、すでに「自殺」なさっているのだから、「学者」づらをして世間さまに物言うというのは、恥知らずな行いなのではないのか?
平たく言えば、この「解説」で書いたことの「責任」をとって、同僚の北村紗衣を「批判せよ」ということである。
それが出来ないのであれば、最低でも「筆を折る」か、いっそ「偽学者など辞めてしまえ」ということである。
そして、本書「訳者」である、中里見博教授も、「訳者あとがき」にあのように書かれたからには、千田有紀教授と北村紗衣教授を批判しなくてはならない。
でなければ、それは「言行不一致」であり、学生たちに顔向けのできない「嘘つき教授」だということになると思うのだが、さてどうお考えなのだろうか?
このようなわけで、本書『マテリアル・ガール』は、当然「大した本ではない」という結論にしかなりようもないものなのである。
なにしろ、著者を含む、こんなご立派な教授方によって刊行された本なのだから。
私は、キャスリン・ストックを大学から追いやったような、「キャンセル」など決してしない。
むしろそれを、北村紗衣にやられた方であり、だからこそ、そうしたことを許さない立場である。
そもそも、「キャンセル」など、北村紗衣のような、議論もできない「無能な人間」のすることで、議論で勝てるのなら、議論を求めるのが当然なのだ。
だから私は、誰に対しても、批判をして、議論を求める。
さて、本稿に反論できますか? いつでも受けて立ちますよ。関係各位様。
(※ 【お詫びと訂正〔2024年11月11日〕】私が3日前に書いた本稿の最後の部分で、「武蔵大学の教授」である本書解説者の千田有紀氏が、「キャンセル」を批判していながら、同じ大学の教授である「北村紗衣」を批判しないのはおかしいから『批判せよ』と書いた。
だが、本日『情況 2024年春号 特集トランスジェンダー』所掲の千田論文「学問の危機と『キャンセル』の方法論」で、同氏が「北村紗衣を含む、呉座勇一批判のオープンレターメンバー」を批判しているのを確認した。よって、未読であったとはいえ、早とちりで千田氏を批判したことについては、記してお詫びしたいと思う。一一たいへん申し訳ありませんでした。今後も、その調子で、名指しでの批判をやっていただければと思います。無論、私も、直接関わりのある北村紗衣を中心に、「キャンセル」使いたちを、その政治的な立場に関わりなく批判し続けることを、ここにお約束しておきます。〔2024年11月11日〕)
(2024年11月8日)
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