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山城むつみ 『文学のプログラム』 : 危機に立って思考する。

書評:山城むつみ『文学のプログラム』(太田出版講談社文芸文庫)

山城むつみを読むのは、初めてである。
柄谷行人浅田彰のやっていた文芸批評誌『批評空間』の関係者として、昔から気にはなっていたのだが、ずっと読む機会を逸してきた。

今回は、『批評空間』の版元である太田出版から「批評空間叢書」の一冊として1995年に刊行された、初版単行本版『文学のプログラム』を、古本で入手した。
したがって、2009年に講談社文芸文庫から復刊された版に収録されているであろう「解説文」や「文庫化にあたってのあとがき」といったものは読んでいない。つまり、この本が近年においてどのような評価を受けているのかは知らないのだが、少なくとも初版刊行当時、かなり高い評価を得ていたというのは間違いのないところだろう。私が身近に記憶するところでは、一回きりで終わったが、島田雅彦が企画した「瞠目 反・文学賞」の候補作のひとつにもなっていた。

(※ 上のレビューの後半で、「瞠目 反・文学賞」の選考委員の一人であった筒井康隆に絡んで、同賞の公開選考会の様子が報告されている。私は、その場に居合わせ、関与した)

本書『文学のプログラム』は、『群像』と『批評空間』、両誌への掲載論文をまとめた、著者の第1著作で、以下の4本が収められている。

(1) 小林批評のクリティカル・ポイント
   一一『群像』1992年6月号
(2)戦争について
   一一『群像』1991年11月号
(3)万葉集の「精神」について
   一一『批評空間』Ⅱ-4号 1995年1月
(4)文学のプログラム
   一一『群像』1992年12月号

まず最初に断っておくと、本書は、私にはかなり難解であって、正直なところ、半分くらいしか理解できていないという感じだった。もちろん、100パーセント理解できてしまうようなものは、娯楽書以外では読む価値もないのだから、こうした批評書や哲学書だと、8割がた理解できれば、十分に「理解できた」という実感が持てる。ところが本書の場合は「わかるところもあるが、わからないところも結構ある」というのが実感だったのだ。

したがって、以下に記していく感想や、その根拠となる紹介や解説などは、その程度の理解において、ようやくなされたものに過ぎないということを、あらかじめお断りしておきたいと思う。

さて、以上断った上で言うと、本書は「批評とは何か」ということを語ったものではないかと思う。

(1)「小林批評のクリティカル・ポイント」では、小林秀雄の批評における「危機的転回点」が語られている。
「批評=クリティック」という言葉は、語源的には「危機=クライシス」と同根だというのは、よく指摘されるところだが、だからこそ批評においては「危機」に直面するということが重要であり、その本質なのではないか、ということ(したがって、感想文は、批評文ではない)。
また、その上で「どうするのか」「どうしたのか」ということが問われるのであり、山城のこの論文では、小林がどのような経緯で、どのようにして「危機」と向き合ったのか、その個性的な向き合い方と、それに基づく態度選択が、ここでは批判的に問われている。

(2)「戦争について」では、「戦争における美」と、その「危機」に直面して、小林秀雄坂口安吾の採った、態度の違いの意味を問うている。

(3)「万葉集の「精神」について」は、「戦争(美)」と「文学(知)」を別物だと切り離すことで、一人の人間として「戦争」への協力を辞さなかった小林秀雄と、「戦争(美)」と「文学(知)」を切り離さない形で、全人的に「戦争」への協力を辞さなかった保田與重郎とを比較しつつ、「文学(知)」あるいは「批評(精神)」というものの、危うさ(危機)を描いている。

(4)「文学のプログラム」は、保田與重郎が依って立った「万葉集の精神」というものの意味を、「漢文訓読」に始まる「書き言葉としての日本語の制作過程」を考えることで、ラカンの指摘した「日本語の特異性」というものの意味を解き明かし、日本語固有の「危機」を問うたものと、そう言えるのではないだろうか。

したがって本書は、1992年から1995年にわたって、(1)(4)(2)(3)の順に雑誌掲載された四つの論文を、順序を入れ替えてまとめた1冊であり、その問題意識は、ゆるやかに連続していると言っても良いと思う。

そして、そこでの問題意識の中心が「批評とは何か」ということであり、さらに言うなら「批評における危機」というものの「重要性であり、同時に、それへの向き合い方の難しさ」が語られたのだと、私はそう読んだのである。

 ○ ○ ○

(1)で書かれているのは、たぶん、小林秀雄という稀有な批評家の、「危機」に対する特異な姿勢だ。端的に言えば、小林は「批評における危機」との戯れを避けて、「ただ対象に忠実である」ことを選んだ結果「批評らしい批評を書けなくなった」という話である。
こうした態度は、たしかに「誠実な批評的態度」だとも言えるわけだが、はたして、それだけで良かったのだろうか?

(2)では、「戦争美」というものが、坂口安吾が見た「空襲の美しさ」に象徴されて描かれ、「空襲」であろうと「戦車(などの兵器)」であろうと、その「固有の美」を「美」として認めることは、はたして間違いなのだろうかと、まず問われる。
小林秀雄が「戦争に固有の美」を見出したのと同様、坂口安吾も「空襲」に「美」を見出していた。実際、多くの人が「戦争」や「空襲」に「美」を見出しているのだが、それは「間違いだ」と頭から否定して、その「美」から目を逸らすことで、事の済む問題なのだろうか。

東京大空襲

セルゲイ・ロズニツァ監督がドキュメンタリー映画『破壊の自然史』で示したように、空爆の劫火に燃え上がる街の夜景は、たしかに(花火のように)美しい。しかし、そこでは多くの人が苦しみの中で焼き殺されているという事実があり、少しでもそのことを想像するなら、そうしたものを「美しい」などとは、とうてい言えないだろう。

だがそれは、「倫理的観点」からすれば「空襲の劫火が美しいなんて、そんなこと言えない」言いにくいということであって、「空爆によって燃え上がる街の景色」が「美しい」と感じる「事実」は、否定できないのではないだろうか。
つまり、それを「美しいと感じること」と「美しいものは正しいと評価すること」とは、別物なのではないかということであり、それ(美と善)を混同することで、現に「美しいと感じられるものを、美しくないと(あえて)評価すること」は、端的に言って「欺瞞」なのではないだろうか?

私は、これを「欺瞞」だと思うし、本書著者の考えも大体同じなのではないかと思う。つまり「戦争」にも「空襲」にも「戦車(などの兵器)」にも、たしかに「美」はあるし、それに魅せられるというのは当然のことなのだが、問題は「魅せられた」から「肯定する」のか? 「美しいものは正しい」と考えて良いのか? 一一という問題である。

本書著者は、小林秀雄や保田與重郎と坂口安吾との分岐点が、ここにあったという。

『 とはいえ、私が指摘したいのは安吾におけるファシズムではない。逆である。安吾のファシズム批判を、彼のこの危険な明察から読みとりたいのである。
 安吾は、爆撃下の日本に「理想郷」や「美しさ」を目撃し、戦きながらそれにみとれていた。おそらく、彼の言葉でいえば、その劫火の中に郷愁すら感じていただろう。その意味では、彼は「ふるさと」に帰りつつあったといえる。
 だが、だからといって、保田與重郎のように、この「ふるさと」に推参してその美に身を委ねたりはしない。イロニーにその美を満喫させたりはしない。一人の馬鹿として、戦争の美しさに惚れ惚れとみとれ、最も無邪気に戦争と遊び戯れながら、安吾はその「美しさ」や「理想郷」から微妙な距離を取っている。ただ虚しい美しさ、嘘のような理想郷と彼は書いていた。安吾は、うっとりみとれながらも、その美しさ、その理想郷に空虚や虚偽を見出だすことを忘れていない。それは人間の真実の美しさではない、と。
 この場合、空虚とは「人間」がないということである。圧倒的に美しく、懐かしいが、しかし「人間」はそこにないがゆえに、それはただ虚しいのである。また、虚偽とは「考える」という質が欠けているということである。爆撃下の光景は「考える」ことを忘れさせてくれるかぎりにおいて圧倒的に美しく崇高であるにすぎない。たとえ爆撃の絶えざる恐怖に戦いていても、戦争ほど気楽なそして壮観なスペクタクルはないといえるのは、それが考えないでいるかぎりにおいてのことなのである。
 安吾は「人間」と「考える」という二点を忘れることができない。だからこそ、戦争の圧倒的な「美しさ」に魅了されながらも、それとの距離を保持しえた。』(P69〜70)

つまり、小林秀雄のように、批評家(文学者)としては「戦争の美」に忠実であり、だから「戦争」自体には「(批評家ではなく)一人の人間として」赴くだけだという態度や、保田與重郎のように「芸術家であることと人間であることは、不即不離に一体なものである」と考えた上で「(日本の)戦争の美」に推参するという態度と、それに対する、坂口安吾「戦争の美」は「美」であると認めつつ、そこには「人間の美」もなければ「考えるということの美」もないという点にこだわる態度との差が、問題なのだと指摘しているのである。

「美しいものは美しい」し、それを認めることは間違いではない。しかし、その「美」に、単に魅せられるのではなく、「それだけでいいのか?」と問い、その「美」が「どのような美」なのかを問うことこそが、「批評」には是非とも必要なのではないか、というようなことを、本書著者は問うているのではないだろうか。

例えば、私の場合だと、「宗教の美」あるいは「宗教の力」という問題がある。
たしかに「宗教」には、「美」があるし、「力」もある。「だから、それでいいじゃないか」で、本当に良いのか、という問題だ。

私は、「無神論者」として、キリスト教をはじめとした「宗教」全般を「虚妄」であると厳しく批判しているが、しかし、その反面、私は、私の「不在の神」というものを描いて見せたり、それへの郷愁を語ってみせたりすることがあるが、これは「矛盾」ではないのか?

私自身「矛盾があるな」とは感じていたのだが、しかし「嘘はつけない」と感じていたから、そのような「無神論者らしからぬこと」を書いてきたのだが、本書の「批評における危機」の問題を考え合わせてみると、私がこの「矛盾」を誤魔化さずに引き受けたのは、正しかったのではないかと思えるようになった。

つまり、「宗教の美」あるいは「宗教の力」といったものは「確かにある」から、私もそれに「魅せられる」部分がないわけではない、というのは事実だ。
しかし、それに「魅せられた」からといって、それで、その「美」や「力」に対して、思考停止して身を委ねてしまうというのは、まさしく「批評(精神)」を失ってしまった態度なのではないか、ということだ。
言い換えれば、「批評」とは「信仰と無神論のぎりぎりの場所(瀬戸際)」に立って「思考する」ことなのではないか。頭から「宗教になど、美も力もない。それらはすべて虚妄だ」といって盲目的かつ断定的に否定するというのは、「宗教的盲信」と同じで、「現実を見ていない」という事実において、批評精神を欠いたものであろう。
だから、そうではなく、批評的であるとは「危機(危険な瀬戸際)に立ってなされる思考」を言うのではないかと、そう考えるようになったのである。

だから私が、宗教を、キリスト教を、カトリックを否定批判しながら、それでも、現ローマ教皇のフランシスコに共感的なのは、彼の姿勢が「危機に立ってなされる思考」に基づいたものであると感じていたからではないだろうか。

例えば、フランシスコは、最近の説教において「言動不一致はキリスト者の信頼性を失わせる」と説いている。

『 わたしたちは皆、それぞれの弱さを持ち、言葉と行いの間には一定の距離がある。また、一本の足を二つの靴に入れるが如く、問題を起こさないように、心に二面性を持つことがある。それは特に生活や、社会、教会などの中で責任ある役割を負うように招かれた時に起きがちだ。こうした二面性に陥らないよう注意しよう。司祭、司牧担当者、政治家、教師、両親たちには、このルールは常に大切である。自分が他者に言うことは、まず自分が実行すべきだ。権威ある師となるためには、第一に自らが信頼できる証しとなるべきだ。
 言動一致しない生き方は、「内的なことより外見を優先させる」ことにつながる。事実、言うことと行いが一致しない律法学者ファリサイ派の人々は、外面的な評価を救うために、その言動不一致を隠すことに心を砕くようになる。自分たちの信頼性を失わないように、体面にこだわり、正しい人を演じる。こうして、いわば化粧で、顔や生活や心を覆い隠すようになる。彼らは真理を生きるということができない。わたしたちもしばしば、彼らと同じごまかしの誘惑に陥りがちである。』

非常にわかりやすい話だろう。しかし、それだけキリスト者は「偽善にとらわれやすい」ということである。

「偽善」とは、本音のところでは「人間的な欲望」を肯定し、それに流されることを良しとしているのに、世間向けの顔では「人間的な欲望」を否定するような「綺麗事ばかり」を語っている、というような態度である。

また実際、そのようなことがあるからこそ、カトリック司祭による、信者子弟に対する性的虐待問題などということが発生し、その隠蔽が行われたりもしたのだ。
しかし、ここでフランシスコの言う「言行一致」のポイントとは、「性欲のない人間にならなければならない」ということではない、という点が重要であろう。

そうではなく、カトリック司祭であっても「人間的な欲望」はあるという事実を、まずは認めること。
「性欲」は無論、「金銭欲」や「名誉欲」「出世欲」といったものは、世俗の人となんら変わらず持っているということを「認めた上で」、神に使えると誓いを立てた者は、そうした欲望を乗り越えていかなければならない
、ということなのだ。
「そんな欲望なんて、私にはありません」などといって「表の顔と裏の顔を使い分ける」のではなく、どちらも「自分の顔」であるという事実を認めた上で、それを信仰において乗り越えていくことこそが、正しいカトリック信仰であると、フランシスコはここで語っているのではないだろうか。

つまり、フランシスコは「聖職者であることと、動物的な欲望を抱えた人間であること」が、同時にあるという「危機(瀬戸際)に立って思考」しているのである。
多くの司祭たちが「本音と建前」を切り分けて使うことで、「安楽」に生きようとしているのに対し、フランシスコは、あえて「危機に立たなければ、教会の未来はない」と訴えているのである。

そして、そんな人だからこそ、私はフランシスコに共感し、支持もするのであり、そこに矛盾は、まったくない、ということになるのだ。

 ○ ○ ○

なお、本書後半の『「漢字訓読」に始まる「書き言葉としての日本語の制作過程」を考えることで、ラカンが指摘した「日本語の特異性」というものの意味を解き明かし、固有の「危機」を問うた』という問題については、私が、これまで考えたこともなかった話だったので、大変な刺激を受け、とても面白かったのだけれど、しかし、それを人に語るには、十分な理解が足りていないと思うので、この点については、今後の課題として、気長に考えていきたいと思う。
したがって、ここでの評価はご勘弁願うことにしよう。

ところで、本書についての面白いレビューを見つけたので、以下にそれを紹介した上で、そのレビューへの私の評価を語っておきたい。

本書に寄せられた、Amazonのカスタマーレビューは、おおむね好意的なものだったのだが、その中でただ一人、『倒錯に執着するのは勝手だが、病気を押し売りするのは見苦しい』というタイトルの、見るからに手厳しい否定的評価を語っている人がいた。レビュアー「勤労読書人」氏である。

この人の「勤労読書人」というペンネーム(ハンドルネーム)は、私のそれと似ているせいで、たしかに見覚えがあった。たしか以前、私のレビューに氏のレビューを、肯定的に引用したような記憶があったのだ。
そのレビューとは、カトリックの神学研究者・稲垣良典による『現代カトリシズムの思想 (1971年) 』(岩波新書)についてのものであった。

私は、このレビューの中で、前記稲垣書の「弱点」を突くものとして、「勤労読書人」氏のレビューの「当該部分」を引用し、私の立論の補強材料としていた。

だが、そんな「勤労読書人」氏が、本書『文学のプログラム』については、敵意むき出しのレビューを書いていたので、「あれっ? この人は、私と近い立場の人ではなかったかな?」と思い、上のレビューを確認してみると、それは私の記憶違いであることが判明した。
私の記憶とは真逆に、「勤労読書人」氏は、稲垣良典の本を『名著』だと肯定的に評価していたのである。
ただし、肯定的に評価はしているのだけれども、同書で稲垣が「時代に迎合して書いている」という点を、氏も私と同様に見抜いて、そこを指摘して、

第二バチカン公会議の「エキュメニズム(教会一致運動)」の熱気冷めやらぬ時期に書かれたからかも知れないが、稲垣氏が現時点で同じタイトルで本を書くとすればどういう切口になるか知りたいところではある。』

『後半ではマルクシズムとの対話への期待や社会変革へのキリスト教の役割が熱く語られているが、本書を改訂するとすれば、この部分はおそらく大幅に書き改められるのではないだろうか。名著でありながら絶版となっているのはこの辺りが理由かも知れない。』

と書いていたのである。

つまり、「勤労読書人」氏は、稲垣良典が同書を執筆した際には「時代に日和った」というのを見抜きながら、それを責めるのではなく、むしろ「今なら、もっとまともなものが書けるはずだ」と、そう言っていたのである。
つまり、「勤労読書人」氏の正体は、まず間違いなく、私とは真逆の「カトリック保守派」だったのだ。

だからこそ氏は、左翼の「柄谷行人」が嫌いであり、その影響下にあった、山城むつみやその著書である本書に、ケチをつけずにはいられなかったのだ。

「勤労読書人」氏のレビュー「倒錯に執着するのは勝手だが、病気を押し売りするのは見苦しい」の全文は、次のとおりである。

『 勤労読書人(5つ星のうち2.0)
  2022年3月11日
倒錯に執着するのは勝手だが、病気を押し売りするのは見苦しい

批評とは「読み」そして「書く」ことである。「読む」ことと「書く」ことの連続と非連続、これが本書のテーマであり、批評家山城むつみの拘りである。「読む」とは己を空しくして対象に没入しようとする行為であるが、「書く」とは対象を分析し、論理を介して対象を所有しようとする。「知への倒錯的な愛」に突き動かされた、人間の原罪とも言うべき強迫観念だ。批評家は「書く」ために「読む」が、対象から距離を置き「知」を志向する「書く」は、対象と一体化しようとする「読む」との間に常に既にズレを孕んでしまう。

小林秀雄は批評家としての初発からこのズレに自覚的であった。自覚的どころではない。「自意識とその外部」を主題とした彼の批評はまさにこのズレを巡るものだった。だが小林は最終的にこの問題を放擲した。「倒錯」を封印して「書く」ことを断念する。そして「読む」ことに徹することを自らの批評と見定めた。見えないものを見ようとせず、見えるものだけを見とどけようとした。その集大成が『本居宣長』である。小林の断念に限りない共感を寄せつつも、山城はなおこの「倒錯」を生きることに批評のかすかな可能性を見ようとする。

だがそれは徒労に終わるだろう。山城の問いは切口は斬新に見えるが、認識と行為の断絶という昔ながらのありふれた問題だ。問題が困難なのではない。問い方が間違っているのだ。小林に「アシルと亀の子」という文章がある。アシル(=アキレス)とは認識であり知である。亀の子とは行為であり現実である。アシルは亀の子を追い越せない。これはパラドクスではない。原理的に不可能なのだ。それに挑むのは「倒錯」である。倒錯に執着するのは勝手だが、「病気」を押し売りするのは見苦しい。こういう批評スタイルを確立したのは柄谷行人だが、その悪しき性癖を日本の文芸批評は未だ克服できずにいる。評者の勘だが山城は実は大して病んでもいない。その昔『批評空間』界隈を支配した柄谷的な「意匠」に媚びてるだけのような気がする。

戦争への態度を巡る保田と小林の比較もピント外れだ。策謀によって宮廷を壟断した藤原仲麻呂を東條英機に比する頓珍漢はご愛嬌としても、汚名を覚悟で文学者として戦争にコミットした保田は潔く、文学の純粋性を留保して戦争を美化する小林は裏口から体制に迎合したというのは、保田理解としても小林理解としても浅薄だ。政治と芸術を峻別する、しないは各々の選択である。芸術は結果として政治的機能を持つが、それは芸術が政治の婢女であることを意味しない。保田は政治を芸術化した。但しイロニーとして。小林は一国民として政治を受け入れ、芸術に徹した。各々のやり方で芸術の自律性を守っただけだ。ファシズムへの抵抗を文学の課題とするのは自由だが、その前に戦争=ファシズムという己の空疎な等式を反省した方がいい。

「訓読のプログラム」なるものもお為ごかしで新しさは全くない。イデオロギー批判の文脈で持ち出すのは無意味だ。そんな事を言い出せば、全て「文体」はイデオロギーだと言わねばなるまい。真っ当な文学的感性を持っているのだから、つまらぬ意匠をいじくり回すのはやめた方がいい。』

この辛辣な批判論文のポイントは、

『倒錯に執着するのは勝手だが、病気を押し売りする(※ な)』

『評者(※ 勤労読書人)の勘だが山城は実は大して病んでもいない。その昔『批評空間』界隈を支配した柄谷的な「意匠」に媚びてるだけのような気がする。』

といったところで、

『小林に「アシルと亀の子」という文章がある。アシル(=アキレス)とは認識であり知である。亀の子とは行為であり現実である。アシルは亀の子を追い越せない。これはパラドクスではない。原理的に不可能なのだ。それに挑むのは「倒錯」である。』

『保田理解としても小林理解としても浅薄だ。』

『政治と芸術を峻別する、しないは各々の選択である。芸術は結果として政治的機能を持つが、それは芸術が政治の婢女であることを意味しない。』

『戦争=ファシズムという己の空疎な等式を反省した方がいい。』

『「訓読のプログラム」なるものもお為ごかしで新しさは全くない。』

『つまらぬ意匠をいじくり回すのはやめた方がいい。』

といった、「威勢の良い断言」は、所詮「反感に基づく、無根拠な決めつけ」でしかないのは明白だ。
要は「人間が、神を懐疑することなど、原理的にできない。そんなものは、知的倒錯だ」といったような「カトリック保守派の(独善的な)理屈」と、同質なものなのである。

では、なぜ「勤労読書人」氏は、ここまで「感情的」になったのかと言えば、それは氏が、骨がらみの「保守」であり、「危機に立って思考する」なんてことを、最も嫌う人だからである。

「保守」である氏は、「それはそれ、これはこれ」と切り分ける二枚舌で、身の「安泰」の確保を第一とする「カトリック保守派」と同じく、「現行不一致」でかまわない人なのだ。
わざわざ、自分の「本音=裏の顔」を晒した上で、フランシスコの言うような「言行一致」を希求するなどというのは、明らかに「危険」なことでもあれば、「変態」的な『倒錯』行為だ、ということになるのである。

映画『グレース・オブ・ゴッド 告発の時』より)

「勤労読書人」氏は、そういう人だからこそ、カトリック保守派である稲垣良典に「以前は、時代に日和って、リベラルのフリをしていたけれど、今なら正直に、あなたの思うところを書けますよね」という趣旨で、件のレビューを書いたのだし、一方、山城むつみの『文学のプログラム』についての、上に紹介した『評者の勘だが山城は実は大して病んでもいない。その昔『批評空間』界隈を支配した柄谷的な「意匠」に媚びてるだけのような気がする。』というのも同様の趣旨で、「あの当時は、文壇主流の柄谷なんかに媚びたけど、あなたは小林秀雄や保田與重郎に共感的な人なんだから、今ならこっちの側で書けますよね。正直におなりなさい」という、そんな「誘惑」の言葉なのである。

ともあれ、「勤労読書人」氏は、「第2バチカン公会議の時代」や「柄谷行人の時代」を責めることで、稲垣良典や山城むつみを「保守」側へと、よりひき寄せようとしていたわけだ。

ただ、「柄谷行人」批判の場合とは違って、「勤労読書人」氏が「第2バチカン公会議」を露骨に批判否定しなかったのは、それは「カトリック保守派」としても、「公会議」の「歴史的・教義的権威」を、少なくとも「表向きは」否定できないという事情からの、「現行不一致」であった、ということだろう。
だから、「カトリック信者」であることを隠しているところでは、憎悪に満ちた「素顔」が覗くのである。

第2バチカン公会議

そんなわけで、同氏は当然、今のフランシスコにも反感を抱いているはずだが、しかし、それを「正直に表明する、言行一致」は、決してしないはずである。
性的虐待は、あからさまにやることではなく、陰でバレないようにやるというのが、氏にとっての「正常」であり、そんなことを表立って問題にする(フランシスコの)行為は「倒錯」的であり、そんな『倒錯に執着するのは勝手だが、病気を押し売り』するな、ということになるのである。

だが、フランシスコの言うとおり、人間というものは、得てしてこのようなものだからこそ、私たちは、たとえ苦しくても「危機に立っての思考」としての「批評」を手放してはならない、ということになるのではないだろうか。


(2023年11月12日)

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