タリシヒコの遣隋使が「日出る処の天子より、、」という上表文を隋帝に出して失敗したのは、その文面上の失敬もあるが、それ以上に当時軍事対立していた隋と高句麗の関係を考えれば推察できよう。 この東=天子=dergiということばが高句麗のセリフと同じだったから隋を刺激したのだろう。
満州語では天子をdele とかdergiという。 日本書紀に出てくる王命タリ(ラ)シヒコ。 タリシというのはdergiと同語ではなかったのか? 高句麗、百済語は謎だが満州語から類推はなし得る。 dergiには東という意味もある。 遣隋使が「日出る処の天子」としたのはその影響?
小野々井モコの隋隋漫遊記