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倭・ヤマト・日本20 中国との接触とナショナリズムの発生 


第二回遣隋使と渡来系通訳


600年の第一回遣隋使は結果的に失敗だったと倭国で認識されていたからか、『日本書紀』には記述がないのですが、それに対して607年の第二回遣隋使は記述があります。

ただし、隋でのやりとりに関する記述はなく、小野妹子を隋に派遣したとあるだけです。

そのあとに鞍作福利を通事(通訳)としたと付け足されているのですが、これにはどういう意味があるんでしょうか? 

『日本書紀』に書けなかった第一回は、通訳を連れて行かなかったから、あるいは通訳がポンコツだったからうまくいかなかったが、今度は優秀な通訳をつけたということでしょうか?

鞍作(くらつくり)という姓で思い浮かべるのは、この時代に活躍した鞍作止利という仏師です。『日本書紀』にも出てくる飛鳥大仏製作プロジェクトのリーダーを務めた技術者で、「渡来系」とされています。

ということは、通訳の鞍作福利も渡来系でしょうか?

おそらく百済か高句麗から来た人材と思われます。推古・聖徳太子の時代、倭国は百済と高句麗から人材を招いて、仏教寺院を建てたり、仏像を作ったりしているからです。

高句麗は倭国の弥生時代から中国と戦争したり交流したりしていますから、中国とのコミュニケーションに長けている人材がいたでしょうし、百済も倭国より早くから中国と交流し、仏教など文化・技術を導入していますから、通訳を務めることができる人材はいたでしょう。


一応成功した第二回遣隋使 


しかし、『日本書紀』の第二回遣隋使の記述は、この派遣した事実と通訳について述べただけで、一度中断し、倭国(今の奈良県を指す地域の意味)や河内国に溜池や灌漑用水路を造った話がはさまり、次に翌年小野妹子が隋から帰国した話が出てきます。

さらに、裴世清をリーダーとする隋の使節団が遣隋使に同行していたという話になり、この隋の使節団を歓待した話が長々と続きます。

帰国する遣唐使に隋側の使節を同行させたということは、隋と倭国の国交が無事にスタートしたことを意味していますから、「日出るところの天子」の国書が煬帝の機嫌を損ねはしたものの、遣隋使は一応目的を果たしたことになるでしょう。

裴世清の使節団が倭国に帰る遣隋使に同行した話は『隋書』東夷倭国伝にも出てくるので、『日本書紀』の創作ではないようです。

隋としては、最強の半島勢力である高句麗と断続的に戦争していますから、東アジアのその他の国々を敵に回すのは得策ではないという計算があったのかもしれません。


百済による国書強奪事件?


しかし、この遣隋使成功の記事には、奇妙なエピソードが挿入されています。

小野妹子が帰国の途中、煬帝から預かった倭国への国書を百済人に取られてしまったというのです。

宮廷の群臣たちは、「使節は死んでも任務を果たすべきなのに、隋の国書を奪われておめおめ帰国するとはけしからん」ということで、小野妹子を流罪にしようとしますが、推古は「これが隋に知れると厄介なことになるから、軽々しく刑に処するべきではない」と赦免します。

これは色々と疑問が湧く事件です。

まず、小野妹子が隋の国書を奪われたという話は本当でしょうか?

煬帝が彼に託した国書には、「日出る処の天子」に始まる倭国からの国書の表現を叱っている部分があり、これを倭国に持ち帰ると、大王・推古王朝の権威を傷つけるので、途中で破棄してしまったのではないかと考えたくなります。

群臣が小野妹子を処罰しようとしたのに、推古がそれを止めたのは、隋の国書の内容と、彼が国書を破棄した事情を知らされたか、察知したからかもしれません。


「日出るところの天子」から伝わる緊張


これに関連して気になるのは、この第二回遣隋使で倭国側はなぜ「日出る処の天子、日没する処の天子に書をいたす」と、あえて倭国王が隋の皇帝と対等であることを宣言するような文言で始まる国書を送ったのかということです。

高句麗・百済・新羅と同様、倭国も新たに建国された超大国・隋から衛星国として冊封つまり認定してもらう立場ですから、対等であり得ないのは明らかです。あえて対等であるかのような手紙を送って、認定を受けようというのは、いわば矛盾した行為であり、自分の立場を理解できない野蛮人ということになってしまいます。

それでもあえてこういう文面を採用したところに、このときの倭国政権の子供じみたプライド、気負いみたいなものが感じられます。

600年の第一回遣隋使では、国書すら持参せず、文帝との質疑応答で未開人のように思われてしまったので、倭国政権としては恥をかいたと感じていたでしょう。

そこから604年の憲法十七条の策定や渡来系技術者集団の認定、605年の飛鳥大仏製作などを経て、607年に第二回遣隋使が送られるのですが、倭国側には、ある種の緊張があったのかもしれません。


ナショナリズムの兆し


倭国はそれまで半島の百済や高句麗と交流しながら、仏教や中国の文化を導入してきたのですが、おそらくこの交流の根底には氏族レベルのつながりがあったでしょう。

しかし隋との間には、そういう草の根的なつながりはありません。

古墳時代の初期には、半島だけでなく中国大陸のあちこちから様々な勢力が列島に渡ってきたでしょうが、隋は北方騎馬民族出身ですし、漢帝国以来約250年ぶりに中国を統一した大帝国です。

しかも倭国としては南北朝時代の宗との外交が途絶えてから100年以上、中国との交流はありません。

倭国は100年ぶりに、百済・高句麗との近所付き合いや親戚付き合いみたいな外交ではなく、東アジアのグローバリゼーションに参加する、本物の外交を経験しようとしていたわけです。

緊張するのは当たり前かもしれません。

この緊張・プレッシャーは、推古・聖徳太子や政権を担う王族・高官たちに新しい国家意識、ナショナリズム的な感情を芽生えさせたかもしれません。

ナショナリズムは外・外国を意識することで生まれるからです。

外国との接触がなければ、国内が世界ですから、自分たちの独自性、アイデンティティーを意識することはありません。外国と交流したり、競争したり、抗争したりすることで、民族や国家という意識が生まれるのです。

「日出る処の天子」という国書の文面には、そうした緊張から生まれた感情、外交的にはあまり賢明とは言えないナショナリズムが感じられます。


飛鳥時代以前の「海外・外国」


もちろん中国との国交が途絶えていた100年の間にも、半島の百済や高句麗、新羅といった国々との間に接触・交流はありましたから、それなりの国家意識はあったでしょう。

しかし、半島勢力との交流は、隋のような中華帝国との交流とは違います。

半島とは稲作が伝来した弥生時代から行き来がありましたし、古墳時代には半島や大陸の各地から移住してきた勢力によって新しい倭国・倭人が形成されたのですが、その過程では倭国内でも半島とも、国家が誕生する以前の、氏族レベルによる交流や戦争、征服、支配などが行われました。

この歴史時代以前から続く海外勢力との関係は、国家よりも氏族を意識したものだったでしょう。

倭の五王時代の倭国は高句麗と張り合って、宗から衛星国としての認定を受けていますから、衛星国として認定してくれる中国という大国に対する国家意識や、半島の国家を外国としてライバル視する国家意識が生まれたかもしれません。

中国という半島勢力や倭国を超越した大国を意識することで、「海外・外国」という概念が大きく変わり、氏族勢力レベルとは違う国家意識が形成されたと考えられるからです。


100年のブランク


しかし、その後6世紀に入ると中国との外交は途絶え、100年間のブランクが生まれます。

その理由はわかりませんが、全国的な天候不順による大凶作、それによる人口の減少、倭国を構成していた氏族連合の崩壊といったことがあったのかもしれません。

5世紀の倭の五王の時代と、6世紀以後の飛鳥時代へとつながる時代の倭国政権には、大きな断絶があると言われています。

巨大な前方後円墳は造られなくなり、その被葬者が誰なのかについても、飛鳥時代の政権は把握していなかったようです。

この政権の断絶は、『日本書紀』でも天皇の系統の断絶として記述されています。

残虐だった武烈天皇に世継ぎがいなかったので、応神天皇から5世あるいは8世離れた子孫を越前または近江から呼んで、継体天皇として即位させたというのです。

そんなに離れていていいなら、もっと中央で政権を支えていた勢力にもいただろうという気がしますが、その程度の皇位継承者すら中央にいなくなるほど、大規模な内乱・殺戮が行われたのかもしれません。

継体天皇の在位は西暦で言うと507年から531年とされていますから、百済王から仏像が贈られる538年の少し前です。

そこからうかがえるのは、5世紀の五王時代の倭国政権が崩壊し、政治が弱体化している時期に、百済経由の仏教伝来、飛鳥時代につながる改革がスタートしたらしいということです。

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