京都の修学旅行【テーマ別】グループ学習 コース作り 資料集
京都を中心にした人物に関する地歴ポイントを紹介しています。全国の関連する史跡も掲載しています。
京都に関係する自然を、史実とともに紹介します。
平安京では、先住の渡来人や大陸から入ってきた習わしに、天変地異や疫病を鎮める工夫が重ねられ、都と国を護るためさまざまなマツリが行われました。現在でも年間を通し粛々と行われています。
京都の修学旅行のコース作りに役立つ地歴情報をテーマ別にしました。 【テーマ】登場人物京都の地歴は朝廷を中心に蓄積していきました。変革期に在位した天皇や、周辺の文官・武官・僧などの活動を観ると、京都という空間を存続させるためにどうバランスを取ろうとしたか、試行錯誤の様子がわかります。 その上で土地を主人公にして観て歩くと、カテゴリごとに歴史が形作られたのでなく、様々な要素がからみあっていたことが実感できます。また、都と関連する各地の史跡も掲載していますので、地元の地歴も意
近衛天皇は、第74代 鳥羽天皇と、藤原 得子(美福門院)の唯一の皇子として生まれた。鳥羽天皇は藤原 璋子(待賢門院)との第1皇子である 第75代 崇徳天皇に譲位したが、1141年 院政を行う中、崇徳天皇が22歳の時に2歳の近衛天皇に譲位させた。 1150年、2人の妃が入内するが、バックとなるそれぞれの人脈が対抗した。 近衛天皇は病で17歳で崩御。左大臣・藤原 頼長の呪詛によるもいう噂が流布し、後の保元の乱への導線となった。 『京都遠足』P46 https://www.w
崇徳天皇は、第74代 鳥羽天皇と藤原 璋子(待賢門院)の第1皇子で、院政がが標準になった1123年、父から3歳で譲位された。6年後、祖父の白河法皇が亡くなり、二十代半ばの鳥羽上皇の院政が始まる。摂政・藤原 忠通の娘・藤原 聖子が中宮となる。六勝寺のうち、成勝寺を創建する。 1141年22歳の時に鳥羽上皇により、2歳の異母弟(母は藤原 得子)である第75代 近衛天皇へ譲位させられる。上皇になってからは鳥羽田中殿で和歌などに没頭した。 近衛天皇は17歳で病で亡くなり、得子の養
生まれて間もなく母が亡くなり、祖父の白河法皇の元で育てられた。父の第73代 堀河天皇が29歳で崩御したため、5歳で即位。政治は祖父の白河法皇が行い、白河院政が本格化した。 1118年、白河法王の養女・藤原 璋子(後の待賢門院)が入内し、26歳までに5男2女をもうけた。皇子の2人が病弱に生まれたこともあり、火災で焼失した内裏が再建される間、里内裏(臣官らの提供する屋敷など)を火災や占断で移動しながらも多くの時間を供に過ごした。移動には白河法皇の意向が常に入った。院政となった
1086年、父の第72代 白河天皇が退位し、8歳の時に即位。皇位継承者とされていた父の異母弟・実仁親王が15歳で亡くなったのを受け、白河天皇が自分の子孫に皇統を継がせたいと考えたためである。 母・賢子の養父・藤原 師実が、また堀河天皇が成人した頃には藤原 師通が補佐した。堀河天皇のまつりごとは評価が高かった。 1091年 白河上皇の同母妹・篤子内親王(第22代 賀茂斎院)が各方面の推挙で入内した。堀河天皇が12歳、篤子内親王が31歳という年齢差で子どもはなかったが仲睦まじ
待賢門院(藤原 璋子)藤原 璋子は7歳で父を亡くし、父の従兄にあたる白河上皇の養女となり育った。1118年、白河上皇の孫の第74代 鳥羽天皇に入内し、後に中宮となった。 翌年、第75代 崇徳天皇となる第1皇子、1122年 禧子内親王を産む。1123年、第75代 崇徳天皇が5歳で即位し、璋子は”待賢門院”という女院号を宣下された。待賢門とは平安京大内裏の12ある門のうち、東面にある門の名称である。 またすぐに通仁親王、君仁親王を産むが2人とも病弱で、重い障害を持っていた。
白河天皇は1072年20歳で一代限りの天皇として即位した。後三条天皇の第1皇子だったが、父帝らは三条天皇の血をひき藤原摂関家と関係が薄い異母弟の実仁親王を次の天皇にする意向であった。しかし後三条上皇は翌年に亡くなる。 即位後は、1058年に火災で焼けた大内裏再建のために父の後三条天皇が発令した『延久の荘園整理令』に基づき荘園整理を進めた。 白河天皇は、即位の前年に参入した藤原 賢子を中宮とした。賢子の養父・藤原師実が白河にあった別荘地を献上され、1077年 法勝寺を創建す
❶京都盆地の北西に位置する衣笠山衣笠山は京都盆地の北西に位置する、南から見るときれいな放物線状の山容を持つ標高201mの低山です。 西の桂川に向かってなだらかで同じような形の200m級の山々が続き、そのすぐ後ろに500m級の山々が二重に聳え、その奥に険しい800m級の北山・丹波高地の山並みが見え隠れします。 この低山の地質はチャート岩という堆積岩で、海底において放散虫・海綿動物などの動物の殻や骨片(微化石)が堆積してできた固い層状の岩です。それがプレートに乗って地表に現
小野氏は、第5代 孝昭天皇の皇子・天足彦国押人命の子孫である和珥(わに)氏から派生したと伝わる。和珥氏は奈良県天理市あたりに勢力を持っていたが、海運に長け、滋賀県大津市の琵琶湖畔に拠点を持ち、隣接地に小野氏の史跡が多数存在する。小野 妹子もこのあたりの出身と云われ、古くから外交・地方行政官・学問などを担当する役人として朝廷に仕えた。 小野 篁は小野 岑守の長男で、13歳の時 陸奥守となった父に帯同した。学問より武術に興味があったが、帰京した時に第52代 嵯峨天皇に嘆かれて学
藤原 穏子が42歳で生んだ第60代 醍醐天皇の第十四皇子で、兄の第61代 朱雀天皇とは3歳違いだった。兄弟とも聖宝の安産祈願を受けて生誕した。兄は病弱だったため母の勧めで17年で退位し、弟の村上天皇が21歳で即位した。 朱雀天皇の代に起きた承平天慶の乱への対応で朝廷の財政がひっ迫したため倹約政治が行われた。それまで律令制度に戻そうとさまざまな施策がされたが、村上天皇の治世頃には土地や税の制度が破綻し、戻せなくなっていった。一方、和歌や音楽などが振興された。 960年、平安
❶「音」だけだった日本の言葉古来日本の言葉に文字はなく、音だけが存在しました。すべての音は母音が5つで子音が10のほぼ完全なマトリックス(縦横の表)で示すことができ、表現に必要な約50の最小限な音になっています。もともとの言葉は1音や2音、3音の短いものが主流で、類似する要素や意味合いを持つものが同じ音で表現されました(例:ワ(輪・和)、ヒ(日・火)、ウミ(海・生み)など)(※諸説あり)。 漢字が入ってきた当初は、本来の漢字の意味に関係なく言葉の音に合った字(当て字)が使
❶出生朱雀天皇は醍醐天皇の第11皇子で、中宮の藤原 穏子が39歳で生んだ。朱雀天皇と村上天皇は、醍醐山を開山した聖宝によって安産祈願された。年の離れた兄と皇太子に立てられていたその皇子が早世し、醍醐天皇が崩御したため、わずか8歳で即位することとなった。藤原 忠平が摂関として政治を取り仕切った。 ❷時代の変わり目と天災第50代 桓武天皇の子孫が臣籍降下して平氏を名乗り、関東に根付いた一族である平将門が935年から5年間、身内の争いから始まり、新しい国王を名乗るまでの反乱が起
❶臣籍から復帰臣籍降下していた源 定省(後の宇多天皇)の長男・源 維城として生まれる。父の即位とともに皇籍に復帰した。 ❷突然の即位897年 藤原氏の要職の専横を抑えたいという理由などから、宇多天皇が突然退位し第60代 醍醐天皇として即位。父の希望通り、藤原 時平と菅原 道真を左右大臣にまつりごとを開始する。 律令制に戻そうと荘園整理令を発布したり、試みを次々と打ち出した。ただ、政治システムが律令制に完全に戻ることはなかった。 この頃より平仮名が広まり、初めての勅撰和
❶即位までの経緯第55代 文徳天皇-第56代 清和天皇-第57代 陽成天皇と続いたが、陽成天皇の母・藤原高子と兄で摂政・藤原基経の不仲などから、陽成天皇は退位させられ、第58代 光孝天皇が即位した。光孝天皇は自分の譲位後の皇統は陽成天皇の子孫に戻ると予測して、自身は一代の天皇であるという表明で子供達を臣籍降下させた。 しかし光孝天皇が崩御まぢかになった際、藤原基経らは光孝天皇の第7皇子の源 定省(みなもとのさだみ)を推挙。20歳の定省は出家を願っていたところ急遽皇族に復帰
聖宝(理源大師)はもともとの名を恒蔭王(つねかげおう)と言い、讃岐国(現 香川県)の塩飽諸島本島で出生したとの伝承がある。第38代 天智天皇の子で吉野の盟約に参加した志貴皇子の子、第49代 光仁天皇の玄孫と伝わる。 16歳で京の貞観寺(現在の京都市伏見区深草にあった)で空海の実弟・真雅のもとで出家した。東大寺など南都(奈良)で円宗・三論宗・法相宗・華厳宗を学び、真雅から密教を学び、大峰に入って山岳宗教を学んだ。 44歳の時に、貞観寺から見える醍醐山に庵を建立する(上醍醐)
❶一代限りの天皇として即位花園天皇の時代には、天皇を譲位した上皇、または上皇になって出家した法王がまつりごとを行う”院政”が慣例となっていた。さらに、先々代から持明院統と大覚寺統の2つの系統が交互に天皇となるようになり、大覚寺統の第94代後二条天皇の急死を受けて、兄と兄の皇子の間を繋ぐ一代限りの天皇(自分の皇子を天皇にしない・自分が院政をしかない)として花園天皇は12歳で即位した。 ❷学問を修めた背景24歳で後醍醐天皇に譲位するまで、5年間は父の伏見上皇が、後半の5年間は