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島国だけど超発展。古代日本のまちづくり!?ゆけ、遣隋使!

こんにちは!
福岡県朝倉市でデザイン事業やまちづくりの活動をしているESTADIO(エスタディオ)の坂田と言います。

ESTADIOでは、まちづくりを歴史から分析するというコンテンツをnoteにて発信しており、今回はその第2弾目の企画として、古代日本を急速に発展させた日本のまちづくり(というか都市開発)ついて紹介します。

遡ること1500年。
飛鳥時代の日本は古代国家形成の重要な時期であり、まちづくり(都市開発)においても大きな変革が見られました。

世界文明の発展において、周りを海に囲まれた島国である"日本"が大陸に負けない発展を遂げたことは、一般論で考えてもとてもスゴイことだと評価できます。

とはいえ正直なところ、日本って平和という観点では土地の利がめちゃめちゃ働いていたのかなとは感じます。
島国だしそもそも東側には太平洋しかないし国土には大した資源もないので、他の国からしても「別に日本いらねぇ」っていうのはあったと思います。
多分、過去に日本がまともに国土を乗っ取られそうな侵略をうけたのって元寇のときくらいじゃないでしょうか?

まぁそんな背景はありつつ、日本文明がしょぼくてナメられてないという功ことの影響は少なからずあると思います。

例えば、白村江の戦いの時は唐と新羅の連合軍が次は日本に攻めて来るんじゃないか?みたいになったようですが、結局攻めて来なかったのは、遣唐使で日本文明をアピールできていたこともあり、日本が唐にナメられてなかったという評価もできます。

そんな感じで、もし日本が大陸の文明発展に置いていかれていたら、どんどん国力の差が広がり、最終的にはナメられて滅ぼされていたかもしれません。
だけど、飛鳥時代の日本人は大陸の近代化に対応することで国を強化し、島国なのに諸外国に負けない地域を作り上げました。
これは、日本の歴史において非常に重要な成果だと思います。

今回はそんな飛鳥時代のお話です。

学びこそ正義?ゆけ、遣隋使!

まず、遣隋使とは何かを簡単におさらいしましょう。
遣隋使とは、7世紀に日本から隋へ派遣された使節団のことです。当時、日本は小国の一つであり、中国大陸の大国である隋からさまざまな知識や技術を学び、取り入れることで、自国の発展を目指しました。
このように、他の国の成功例やノウハウを取り入れる姿勢が、後に日本の成長に大きく寄与したのです。

超重要なミッションを与えられたメンバーたち。

遣隋使を現代風に置き換える「中国に勉強しに行く」くらいのことに感じるかもしれませんが、当時でいうこの行為はまさに命がけでした。
船の航海技術も今ほど発達していないので、移動における危機もあるし、隋の人たちにスパイが扱いされて殺される可能性も全然あったと思います。

その状況下で日本の発展をかけて、言語も文化も違う場所から知識やノウハウを学び持ち帰るというのは、ちょっと今では想像できないくらい難しいミッションだったと考えらえます。

そんな難しいミッションを果たす必要がある遣隋使のメンバーは、とても慎重に選れたそうです。

  1. 優れた知識と能力
    遣隋使には、当時の日本政府(主に天皇や朝廷)が重視する専門的な知識や技能を持つ人物が選ばれました。例えば、歴史、法律、宗教(特に仏教)に精通した学者や官僚が含まれました。

  2. 政治的な意義
    遣隋使は外交使節としての役割を担うため、政治的な意義も重要視されました。国家の名誉や利益を代表するため、信頼のおける官僚や貴族が選ばれることが多かったです。

  3. 宗教的な背景
    仏教の教えや経典を学ぶことも目的だったため、仏教に深い理解を持つ僧侶や学者が派遣されました。これにより、日本での仏教の普及や発展に寄与するための知識を得ることができました。

  4. 経験と実績
    遣隋使のメンバーは、多くの場合、国内での行政経験や実績がある人物であり、その能力や経験が評価されて選ばれました。これにより、使節団の活動が成功する確率が高まりました。

遣隋使のメンバーとして有名な人物としては、小野妹子(おののいもこ)がいますよね。
彼は遣隋使として非常に重要な役割を果たした人物の一人で、先ほど説明した遣隋使の基準に合致していたそうです。

そもそもの役割をもっと具体的に

遣隋使は、日本と中国の隋朝との交流を促進し、日本をもっと発展させるために大国である隋から知識やノウハウを持ち帰るという役割がありましたが、ここでもっと具体的になにをどうしたかの説明をします。

  1. 仏教の普及
    遣隋使を通じて、仏教の教えや経典が日本に伝わり、仏教の発展に大きな影響を与えました。

  2. 中国文化の導入
    文化や技術、学問など、隋朝の高度な文明が日本に伝わり、これが後の奈良時代の文化に影響を与えました。特に、漢字の使用や中国式の官制、制度などが取り入れられました。

  3. 外交関係の強化
    日本と隋朝の間に正式な外交関係が築かれ、これが日本の外交政策や国際的な立場に影響を与えました。

  4. 制度と法制の整備
    隋朝の政治制度や法制の一部が参考にされ、日本の中央集権的な体制が整備されました。

さらっと説明しましたが、この学びは当時の日本にとってめちゃめちゃデカかったみたいです。

特に仏教の普及は、国の安定をもたらすために大きな意味がありました。
それは日本だけでなく人類全体にも言えることで、人間にとって宗教という存在が絶大な影響力を持つ時代でした。
というのも、現代は科学が発展しているおかげでほとんどのことがロジックで説明できるんですが、当時はまだそうではなかったので、神様の存在や神様からの教えがあることは、人類にとって大きなパワーになっていたようです。

人類史を振り返ると、科学の発展は超最近の出来事で、それまではずっと神様という存在によって説明できることばかりでした。
例えば、雷がなるのは神様が怒っているからとか。
人間は割と最近までそんなことを本気で思っていたと思うと、今は何でも答えがあるので、面倒くさい時代だなと感じる気もします。

と、まぁそんな宗教ですが、日本はこの遣隋使のタイミングで仏教の普及に舵を切りました。
せっかくなので、そのことについてもう少し深く説明します。

  1. 仏教の伝播
    遣隋使が日本にもたらした最大の影響の一つは、仏教の普及です。
    仏教は6世紀半ばに日本に伝来しましたが、遣隋使の訪問はこの過程を加速させ、より本格的な形で仏教が日本に根付くきっかけとなりました。
    特に、遣隋使が隋朝で得た仏教の教義や経典は、後の日本の仏教の形成に重要な役割を果たしました。

  2. 経典と仏教の教義の導入
    遣隋使は、隋朝の仏教の知識や経典を持ち帰りました。
    これにより、日本の仏教僧や学者たちは、隋朝での仏教の発展状況や教義を直接学ぶことができました。
    具体的には、隋朝で成立した仏教の学派や解釈が日本に伝わり、これが日本の仏教の発展に大きな影響を及ぼしました。
    さらに、隋朝の仏教経典や文献が日本に持ち込まれ、それに基づく仏教の研究が進みました。

  3. 仏教の制度と施設の導入
    遣隋使の訪問により、日本は隋朝の仏教制度や修行の方法を学び、これを基に日本独自の仏教制度を整備しました。
    例えば、僧侶の役割や修行の規範、寺院の設立などが整備され、これにより日本の仏教が体系化されました。
    また、遣隋使が持ち帰った建築技術や仏像彫刻の技術も、日本の寺院建築や仏教美術に大きな影響を与えました。

  4. 仏教思想の受容と変容
    隋朝での仏教思想は、日本においても受け入れられ、同時に日本の独自の思想や信仰と融合しました。
    これにより、日本特有の仏教の流派や宗派が形成され、例えば、法隆寺や興福寺などの寺院が代表するような日本の仏教が確立されていきました。
    隋朝からの影響を受けつつも、日本の風土や文化に適応した形で仏教が発展しました。

  5. 政治と宗教の関係の強化
    仏教は、日本の政治体制と深く結びつくこととなりました。
    遣隋使の影響で、仏教が国家の公式宗教として認識されるようになり、天皇や貴族たちが仏教を保護することで、仏教の発展が国家の政策と結びつきました。
    仏教の教義や寺院が国家の統治に貢献し、国家の安泰や繁栄を祈願する役割を果たすようになりました。

と、まぁこんな感じで遣隋使は、仏教の教義や制度、文化を深く根付かせ、日本の仏教の発展に多大な貢献をしました。仏教は単なる宗教的信仰を超えて、日本の文化、社会、政治に深く浸透し、日本の歴史に大きな影響を与えました。

そもそも誰が遣隋使の主導権を握っていた?

これはご存じの方も多いように聖徳太子と言われています。

聖徳太子、遣隋使の派遣に深く関わり、日本の外交政策や国内の改革に大きな影響を与えた人物です。

とはいえ、聖徳太子は天皇ではありません。
彼は摂政として日本の政治を主導した人物です。

聖徳太子の正式な名前は厩戸皇子(うまやどのおうじ)で、天皇の血筋を引く皇族でしたが、天皇には即位していません。
推古天皇(日本初の女性天皇)の甥であり、推古天皇のもとで摂政として働きました。摂政とは、天皇が若年、病弱、または女性である場合に、天皇に代わって政治を執り行う役職です。
なのでまぁ天皇ではないけど事実上、日本の最高指導者みたいな感じだったようです。

聖徳太子は、推古天皇の代わりに実際の政治を取り仕切り、遣隋使の派遣をはじめ日本の初期国家の形成に大きく貢献しました。

そもそも彼が、日本が独立した国家として中国と対等な関係を築くことを目指していたということが遣隋使の派遣に繋がり、遣隋使の外交方針も聖徳太子によるものとされているでそうです。

この部分で有名なのは、聖徳太子が日本の天皇の名前で隋の皇帝宛に一番最初に派遣した遣隋使に持たせた文書の言葉として、「日出処天子、書を日没する処天子に致す」という有名な言葉があります。
これは、日本の統治者が隋の皇帝と対等であることを強調する表現であり、聖徳太子の外交方針を反映しています。
この表現は、隋の皇帝・煬帝に衝撃を与えましたが、同時に日本が独立した国家として国際社会に登場する一歩ともなりました。

そうやって始まった遣隋使から聖徳太子が学びを得て、日本に定着させた大きな成果としては、仏教の普及や「十七条憲法」の制定などがあります。

現代でいう地域おこし協力隊

今回、遣隋使の勉強をしていて、この取り組みを現代に当てはめてみると、地域おこし協力隊に似てるなぁと思いました。

地域おこし協力隊は、行政主導で都市部の人材に地方で活動してもらうという制度で、地域の活性化を図る取り組みです。

本来は国際交流を目的にしていた遣隋使とは目的こそ全く違うんですが、行政機関が人材を活用することで先進地域から学んだことをまちづくりに活かすという部分はかなり似ていると思います。

地域おこし協力隊の活動例としては、都市部でのマーケティングやデジタル技術のノウハウを持った人が、過疎化が進む地域で新しい事業を立ち上げたり、観光資源を活用したプロジェクトを進めたりするケースがあります。これもまさに、他の地域の成功事例を参考にし、それを地元に適用するという遣隋使の精神が生きている例と言えるでしょう。

全国を見渡せば地域おこし協力隊を廃止した地域もあり、賛否両論あるようですが、上手く活用する環境があるのであれば制度自体はとてもいい制度だと感じます。

遣隋使から遣唐使への移行

遣隋使のあとに、遣唐使と呼ばれるものが派遣されるようになりましたが、これは時代が進み、相手国の王朝名が変わっただけで、日本視点でいうとそこまで大きな違いはなかったようです。

強いて言うなら、遣唐使の時代は日本の近代化も進み、制度や知識を学ぶというよりは国際交流がよりメインの目的だったようです。

これらの活動はだいたい9世紀ごろまで続きましたが、そのあたりからは段々日本独自の文化を発展させていくようになったようです。

まとめ

遣隋使のように、異なる地域や国から学ぶ姿勢は、現代のまちづくりにおいても非常に重要といえるなぁと感じました。

だけど、まちづくりの重要性が大きい過疎地域であればあるほど、他から学ばないというかヨソモノを排除するイメージがあります。(まぁだから過疎化が進んでいるとも言えるのかもしれません)

首長をはじめたくさんの市民が勇気を持って、どんどん他の地域の成功事例を学び受け入れる土壌を再構築すること自体がまちづくりと言えそうです。

ESTADIO Presents
まちづくりの歴史シリーズ

このコンテンツは、地方でまちづくりの活動を行う歴史好きの人間が「まちづくりを歴史で分析する」シリーズです。

人類の歴史から、まちづくりの参考になる事例を紹介しながら、
「まちはどうやって再生してきたか」
「まちが衰退する時はどんな問題を抱えてきたか」
「まちが変わる時はどんな傾向があるか」
など、まちづくりにおいて歴史に学べることをひたすらに探求しています。

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福岡県朝倉市でデザイン事業やまちづくり活動を行っています。
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▼この記事を書いた人▼
坂田 拓也

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