#61 聖徳太子が隋に送った国書の返事はどうなった?

607年、推古天皇は隋の皇帝煬帝に使者を送った。その時遣隋使として派遣されたのが小野妹子である。聖徳太子は推古天皇の摂政として政治を行っていたため、実質は聖徳太子が使者を送ったとされている。

小野妹子が中国へ持って行った国書には次のような記述があった。

日出る処の天子、書を、日没する処の天子に致す。恙なきや。
(訳=太陽がのぼる国の天子が太沈む国の天子に手紙をおくります、お元気ですか?)

あまりにも有名な文章だが、これを見て煬帝は激怒したと記されている。激怒したポイントは、中国を日が沈む国としている点と、本来中国の皇帝しか使えないはずの「天子」という表現を使っている点である。聖徳太子は対等な立場の外交を目指してあえてそのような表現を使ったのではないかと言われている。さらにその裏には、中国が朝鮮半島の高句麗と敵対関係にあるため日本に対して強気な態度が取れないだろうという算段があったと推測される。

いずれにせよ、この国書に対して煬帝は激怒し、家来には「同じような使者が来たら二度と通すな」と命じたという。国書であるから返事を書いた中国からの国書があるはずなのだが、あろうことか小野妹子は帰国中に賊に国書を盗まれてしまう。そして、中国からの国書をなくすという大失態にもかかわらず、小野妹子は無罪放免だったらしい。賊に奪われたというのはあまりに稚拙な言い訳で、国書の内容を聖徳太子や推古天皇に見られてはまずいと思った小野妹子がついた嘘なのではないかと言われているが、真相は闇の中である。

国書に対する返事の内容は定かではないが、その後隋が滅びるまで遣隋使を送る関係は続いていたことから、聖徳太子が使者を送ったことは結果オーライと言えるだろう。

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