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今、人類は、世界はどうなっているのか、私たちはどんな時代に生きているのか、どこへ行こう…

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今、人類は、世界はどうなっているのか、私たちはどんな時代に生きているのか、どこへ行こうとしているのかを、色々な本を読みながら勉強し、考えていきます。学術的にハイレベルなことは書けませんが、気楽に読めるようにしますので、楽しみながらおつきあいください。

マガジン

  • 勉強の時間  人類史まとめ

    「勉強の時間」で連載した「人類史まとめ」全編をまとめてみました。

  • 勉強の時間 自分を知る試み

    人や社会、民族や国家といったものを、人はどんなふうに見ているのか、どう考えているのか、なぜそういう見方・考え方をするのかといったことをあれこれ考えています。僕のミスで記事の順番が混乱していたので、マガジンを新しく作り直しました。

  • 三千世界への旅 魔術・創造・変革

    「人類史まとめ」で歴史を、「自分を知る試み」で思想・哲学についてざっくり考えたことをふまえ、この「魔術・創造・変革」では、ルネサンスとか近代の革命といった歴史的な変化がどんなふうに起きたのか、そのとき生きた人々の中で何がどんなふうに起きたのかを考えています。

  • 三千世界への旅 ネアンデルタール

    我々人類と共通の祖先を持ち、約50万年前に枝分かれして、人類より先にユーラシア大陸で数十万年も生きたネアンデルタール人。彼らについて学んだことから、人類とは何かについて考えてみました。

  • 三千世界への旅 アメリカ

    アメリカがなぜ、どんな過程を経て、今のような超大国になったのかについて書いています。

最近の記事

三千世界への旅 倭・ヤマト・日本7 「半島勢力」とアイデンティティの転換

新羅の女王 一方、ここに全く別の意味で興味深い女王の事例があります。 義江明子が『女帝の古代王権史』で紹介している、朝鮮・新羅の女王・善徳王(631年即位)、真徳王(善徳の妹、647年即位)です。倭国の飛鳥時代に新羅に女王がいたというのを僕は今回初めて知りました。 631年は『日本書紀』に出てくる最初の女王・女帝である用明の没後3年、647年は中大兄が蘇我蝦夷・入鹿一族を倒したクーデターの2年後、彼の母・斉明の時代です。 新羅で女王善徳・真徳が統治した6世紀中頃は、こ

    • 三千世界への旅 倭・ヤマト・日本6 女王・女帝から考える古代2

      古代の氏族社会と女王・女帝 飛鳥時代の話が長くなりましたが、僕が女王・女帝を通じて考えたいのは、倭国では弥生時代から古墳時代を経て、飛鳥時代(古墳時代末期)まで、同じような価値観による有力豪族の氏族連合という支配形態が継続していたのか、それともそこには価値観の変化があったのかということです。 古墳時代に大陸・半島から様々な勢力が渡ってきたとしたら、連合の構成には大きな変化が生じたはずですから、古代的な氏族社会や、その連合による国家という形態や、その基盤にある価値観にも変化

      • 三千世界への旅 倭・ヤマト・日本5  女王・女帝から考える古代1

        しばらく忙しくて投稿できませんでしたが、いろんなことが一段落して、「倭・ヤマト・日本」の続きを書き始めたので、最初の部分をアップします。 今回のテーマは、古墳時代末期・飛鳥時代の天皇と、倭国から日本へと移っていく過程、つまり古代の日本という国がどうやって形成されたのかです。 男王の時代 古墳時代の倭国像を僕なりに見てきた過程で、もうひとつ疑問に思ったことがあります。それは、倭の五王が男性だったのか、男王だったとしたらなぜ男王だったのかということです。 今まで僕は、漠然

        • 三千世界への旅 倭・ヤマト・日本4 古墳時代に起きたこと

          引き続き「倭」と呼ばれた理由 いわゆる倭の五王時代について記した南宋の歴史書で、中国側が弥生時代から当時の日本を呼んでいた「倭」という名称が使われているのは何を意味しているんでしょうか。 この時代、日本列島に大陸・半島から多様な勢力がやってきて、人口の大きな部分を占めるようになったこと、それらの勢力や先住民である弥生人勢力による闘争があり、倭の五王が統治する古墳時代の国家が形成されたといったことを、南宋は情報として知らなかったんでしょうか? 南宋は中国のうち南側エリアを

        三千世界への旅 倭・ヤマト・日本7 「半島勢力」とアイデンティティの転換

        マガジン

        • 勉強の時間  人類史まとめ
          28本
        • 勉強の時間 自分を知る試み
          31本
        • 三千世界への旅 魔術・創造・変革
          81本
        • 三千世界への旅 ネアンデルタール
          11本
        • 三千世界への旅 アメリカ
          21本

        記事

          三千世界への旅 倭・ヤマト・日本3  東アジアの民族大移動

          大陸で起きた民族大移動 古墳時代に朝鮮半島や中国大陸から渡ってきた様々な勢力による、軍事・政治闘争がどんなものだったのか、そこからヤマト王権、後の大和朝廷がどのように誕生したのかについて考えていく前に、なぜ古墳時代に弥生時代よりも多種多様な民族が中国大陸や朝鮮半島から日本列島に押しかけてきたのかについて考えてみます。 まず、日本列島から少し視野を広げてみると、紀元4世紀から5世紀にかけて、中国に遊牧民・騎馬民族の大規模な流入があったことがわかります。 この時代は地球が寒

          三千世界への旅 倭・ヤマト・日本3  東アジアの民族大移動

          三千世界への旅 倭・ヤマト・日本2 古墳時代の民族大移動

          邪馬台国の九州説と大和説 邪馬台国といえば、昔から九州にあったとする説と、大和つまり今の奈良県にあったとする説があって、歴史学者の間でも決着はついていないと言われています。 『魏志倭人伝』などの記述を見ると、海人の暮らしや、船で海を渡って長い航海に出るときに、留守を守る妻が夫の無事を願ってどんなことをするかといったことが書かれていて、邪馬台国もその従属国群も海に囲まれているようなイメージを抱かせるので、連合国家全体が九州にあったのかなと考えてしまいそうですが、これは中国側

          三千世界への旅 倭・ヤマト・日本2 古墳時代の民族大移動

          三千世界への旅 倭・ヤマト・日本1 弥生時代と古墳時代

          あらためて、縄文から弥生・古墳時代へ 去年の11月から今年の2月まで、縄文人と縄文時代について書いたものをアップしましたが、元々僕が縄文について調べるようになったのは、「日本人」という国民/民族や「日本」という国がどのように生まれたのかについて、改めて考えたかったからです。 縄文について調べているうちに、縄文の文化が弥生時代以後までどのように残り、その後の歴史や文化に影響したのかまで知りたくなり、弥生時代から古墳時代を飛び越えて、『日本書紀』が編纂された飛鳥時代末期から奈

          三千世界への旅 倭・ヤマト・日本1 弥生時代と古墳時代

          三千世界への旅 縄文26 天武天皇と海の民つづき

          天渟中原瀛真人の「瀛(おき)」とは もうひとつ気になるのは、先に紹介した天武の諡(おくり名)、つまり死後に付けられた名前「天渟中原瀛真人(あまぬなはらおきのまひと)」にも、海に関わる「瀛」(おき)という言葉が入っていることです。 あまり見ない字ですが、意味は海・大海だそうです。 小林恵子の『白村江の戦いと壬申の乱』によると、この字は「えん」とも読み、道教の神仙思想で東方海上にある聖地のひとつ、瀛州山に由来するとのこと。 つまり彼は幼児から海・海人と関連する名前で呼ばれ

          三千世界への旅 縄文26 天武天皇と海の民つづき

          三千世界への旅 縄文25 天武天皇と海の民

          壬申の乱と大海人側の勝利 前回は白村江の敗戦から、中大兄皇子/天智天皇の唐に対する敵対的行動、天智の死について紹介しました。 そこから『日本書紀』の記事は、大友皇子・近江宮側の戦いの準備、危機を感じた大海人皇子の吉野脱出、不破関越えと美濃国での兵力集結、近江・奈良・吉備(今の岡山)などでの激戦、大海人側の勝利、天武天皇即位と続きます。 いわゆる壬申の乱です。 『日本書紀』の記述では、天智が病気で倒れた段階で、大海人を消そうという陰謀があったことをほのめかしたり、大友・

          三千世界への旅 縄文25 天武天皇と海の民

          三千世界への旅 縄文24 白村江の戦いと海の民

          消えた阿曇比邏夫 前回、ヤマト王権に仕えた海の民阿曇一族の大物らしい阿曇比邏夫連(あずみのひらぶむらじ)が、新羅に侵攻されて危機に陥った同盟国・百済を救うため、軍を率いて朝鮮半島に渡ったことを紹介しました。 彼は天皇の代理みたいな感じで、ヤマトから送ってきた百済の王子・豊璋を国王に即位させ、百済再興のために活躍する百済の高官・福信の労をねぎらいます。 遠征軍のリーダーですから、天皇に委任されて天皇の代わりを務めても不思議はないのかもしれませんが、彼は『日本書紀』では「前

          三千世界への旅 縄文24 白村江の戦いと海の民

          三千世界への旅 縄文23  ヤマト王権と海の民

          遠洋漁業から海賊、傭兵まで、多様な発展形 瀬川拓郎は『縄文の思想』の中で、海民の様々な変化・発展を紹介しています。 たとえば、沖縄の糸満を本拠地として活動した海民は、船や航行術の発達と共に活動範囲を大きく広げ、遠く東南アジアのフィリピンまで漁に出かけたとのこと。 また、北方のアイヌは寒い気候のせいか、農耕をあまり発展させず、寒冷期に発達した狩猟や漁撈による食料確保を続けましたが、並行して動物の毛皮や昆布などの海産物を量産して、本州や大陸との交易を行うようになりました。

          三千世界への旅 縄文23  ヤマト王権と海の民

          三千世界への旅 縄文22 海の民と弥生時代

          「海民」の誕生 瀬川拓郎の『縄文の思想』などの本によると、縄文の漁民が専業の「海の民」「海民」になり、舟によるモノの輸送や文化・技術の伝播に関わるようになったのは、弥生時代以降のことですから、厳密に言うと彼らはもう縄文人ではないわけですが、それでもその起源が縄文時代にあることは、けっこう大事なんじゃないかと思います。 弥生時代に農耕社会が形成され、川から田畑に水を引く権利が、農耕民によって管理されるようになったことはすでに紹介しましたが、水が農業のために管理されるようにな

          三千世界への旅 縄文22 海の民と弥生時代

          三千世界への旅 縄文21 「海の民」

          廊下に置かれた丸木舟のレプリカ 加曽利貝塚遺跡の博物館には、丸木舟のレプリカが展示されていました。 実物ではないからか、廊下に地味な感じで置かれていました。 解説も小さなパネルで簡単に説明してあるだけです。 それでも木を削って造ったものらしく、素人の僕にはけっこうリアルに見えました。 出土した状態を忠実に再現しているからか、前後が破壊されたみたいになっていますが、現役で使われていたときはちゃんと舟のかたちをしていたでしょう。 真ん中より少し後ろに座席みたいな隆起があ

          三千世界への旅 縄文21 「海の民」

          三千世界への旅 縄文20 魂の地域交流 加曽利貝塚遺跡訪問その2

          多様な加曽利式土器 加曽利遺跡は「貝塚遺跡」と銘打っていることからわかるように、貝塚の展示が充実しているのですが、土器の展示もそれに劣らず充実しています。 前回の冒頭でちょっと触れましたが、関東を代表する縄文土器の様式に「加曽利式土器」の名前がついていることでもわかるように、この遺跡ではすごい量とバリエーションの土器が出土しています。 博物館の中は、去年の秋に西東京郷土資料室で見た「加曽利式土器」を思い出させる土器がたくさんあります。 加曽利式の定義がまだいまひとつ理

          三千世界への旅 縄文20 魂の地域交流 加曽利貝塚遺跡訪問その2

          三千世界への旅 縄文19 貝塚はゴミ捨て場ではない 加曽利貝塚遺跡訪問その1

          関東有数の縄文遺跡 先週、千葉の加曽利貝塚遺跡に行ってきました。 「加曽利式土器」という、関東を代表する縄文土器の様式名の由来になっていることでもわかるように、出土した土器の特色やバリエーション、遺跡の規模な大きさなど、関東屈指の縄文遺跡です。 重要遺跡であるにもかかわらず、出土品が展示されている博物館は入場無料です。 これまで訪ねた縄文博物館や展示室同様、入場無料で写真撮影OK、SNSやブログへのアップも、商用目的でなければOKとのこと。 ありがたい。 お言葉に

          三千世界への旅 縄文19 貝塚はゴミ捨て場ではない 加曽利貝塚遺跡訪問その1

          三千世界への旅 縄文18 山梨・釈迦堂遺跡博物館

          縄文の感触 少し前になりますが、山梨県の釈迦堂遺跡博物館に行ってきました。 縄文関連の本を読んで、縄文人や縄文文化のことを考えたり書いたりするのも楽しいですが、やはり時々は縄文の土器や土偶などを見たくなります。 縄文人の価値観とか世界観とか美学といったことは、近代以降の概念でとらえたものですから、縄文人が感じていたこと、考えていたことそのものではありません。現代人である自分の理解のために、便宜上設定したゲームみたいなものです。 あまり概念上のゲームにだけ関わっていると

          三千世界への旅 縄文18 山梨・釈迦堂遺跡博物館