夢殿(ゆめどの)
飛鳥からの帰り道、厩戸皇子の一行は賊に襲われた。愛犬の雪丸が吼える。
「バカ野郎!太子を殺すのは俺だ!」
暴れ者が鉄の柱をフルスイングする。賊たちは纏めて飛んで行った。ホームランだ。
「鬼だ!鬼が出た!斑鳩の鬼だ!」
賊たちは恐れをなして、たちまち草むらに散って行った。暴れ者は鬼よろしく立ち回る。
黒駒の上で、厩戸皇子が気絶した賊に向かって合掌していた。周囲の者も合掌する。
「……無暗な殺生はいけません」
「何を言ってやがる?ちょっと小突いただけだ。それにこいつら、弓を持っていたぞ」
伸びた賊の手から弓を取り上げた。草むらから射掛けてきた連中だ。どこの手の者か知らないが、卑怯な戦い方をしてくる。太子暗殺が目的だろう。だがそんな事は許さない。太子を殺すのは俺だ。暴れ者は、厩戸皇子の許に残って、近づく暗殺者たちを悉く叩き潰していた。
「森羅万象には仏性が宿ります。せめて心の中で祈りなさい」
「だから殺してねぇって!俺にお経を詠めってか?笑わせる」
経文を唱えながら、金棒をフルスイングする鬼。怖すぎる。ホラーだ。
「……お経を人を殺める言い訳に使ってはいけませんよ」
太子は暴れ者に釘を刺し、気絶した賊を馬で運ばせた。調べるのだろう。こう見えて抜け目ない。排仏派の中臣か、物部氏の残党か、確認する。崇仏派の太子の敵は多い。
初めて仏教が、日本に伝来した正確な年代は不明だ。だが少なくとも6世紀には来ていた。
欽明13年、西暦552年、蘇我稲目が、欽明天皇に国策として、仏教を提案した。
「西蕃諸國一皆禮之豐秋日本豈獨背也」(注32初)
(大陸諸国は仏教国です。日本だけ背く事ができますでしょうか?)
これに対して、物部尾輿と中臣鎌子は仏教に反対し、神道を擁護した。
「我國家之王天下者恆以天地社稷百八十神春夏秋冬祭拜為事方今改拜蕃神恐致國神之怒」
(日本では古来、神々を祀ってきた。仏教を信じる事は神々の怒りを招く)(注32終)
この時、欽明天皇は、蘇我氏に限って仏教を許し、様子を見た。だが疫病が起きて、やはり日本の神々の怒りを買ったとされたが、この問題は次代の蘇我馬子と物部守屋に持ち越された。
排仏派の物部守屋と中臣勝海は、丁未の乱で敗れた。勝った蘇我馬子を後ろ盾に、推古天皇と聖徳太子が日本を仏教国にする。だがこの二人が亡き後、蘇我入鹿が聖徳太子の息子である山背大兄王を討ち、一族を皆殺しにする。蘇我蝦夷がやり過ぎだと指摘するが、止まらない。
権勢を誇っていた蘇我氏も、乙巳の変(いっしのへん)で、中臣鎌足らに、蘇我入鹿を宮廷で討たれ、蘇我蝦夷は屋敷に火を放って滅ぶ。中臣鎌足らは大化の改新を進め、日本を神道に戻す。後に中臣鎌足は藤原の性をもらい、平安時代に権勢を誇る藤原氏の祖になる。
だがその前にもう一度揺り返しが起きて、聖武天皇、光明皇后、行儀菩薩が現れて、東大寺盧舎那仏像、いわゆる奈良の大仏を建立し、全国に国分寺、国分尼寺を建て、日本を再び仏教国にする。平安時代、藤原の権勢で神道的になるが、鎌倉時代、仏教が興隆する。鎌倉仏教だ。
無論、平安時代に空海も出ていたので、すでに日本で仏教の興隆は起きていた。
日本で約500年間、シーソーゲームのように揺れたが、仏教は定着した。
その端緒を付けたのは聖徳太子、上宮厩戸豊聡耳太子(うえのみやのうまやととよとみみのひつぎのみこ)だ。長いので、厩戸皇子(うまやどのみこ)、上宮太子、豊聡耳太子などの名前でも呼ばれる。聖徳太子の名は、歴史書『水鏡』(注33)などに見られる。尊称だ。
だが聖徳太子は出家者、僧ではない。在家者で政治家だ。そして需教にも理解がある。太子が定めた十七条の憲法は、仏教的文言より、需教的文言が多い。そこには良いものは採用するという考えがある。これは冠位十二階と言う人材登用制度にも見られる。配慮は多岐に渡る。
『三経義疏』(注34)も編纂している。お経だ。日本に伝来したお経で、欠けている文字があれば、夢で金人と話して、その文字を補うという程、伝説的で、日本最古の肉筆遺品でもある。その仏教解釈は、大陸から渡ってきた高僧より、優れていたとされている。
聖徳太子とは一体何者か?当時の噂でも、仏陀の生まれ変わりではないかと言われていた。太子は仏陀その人ではないとしても、絶対何か関係はありそうだと、鎌倉時代、室町時代も信じられていた。そのため太子信仰という一派まで出来ている。それくらい人気が高かった。
聖徳太子、厩戸皇子には、四人の妃がいた。最初に菟道貝蛸皇女、次に菩岐々美郎女(ほききみのいらつめ)(膳大郎女)、そして蘇我馬子の娘である刀自子郎女(とじこのいらつめ)、最後に推古天皇の孫娘である橘大郎女(たちばなのおおいらつめ)だ。
昔の日本は必ずしも、一夫一妻制ではない。太子の周りは女だらけで、ハーレム状態だった。子供も沢山作っている。だが菟道貝蛸皇女は早くに亡くなっている。残った女たちは、太子の側にいて、ずっと守っていた。仏教を推進する太子に反発して、命を狙う者が多かったからだ。
斑鳩宮では、膳大郎女と刀自子郎女が、いつも太子の左右に立っていた。二人とも女だてらに太刀さえ持っている。橘大郎女はまだ幼く、最後に嫁に来ている。
推古天皇と厩戸皇子が進める政治は、蘇我馬子の後押しがあるとは言え、国内の神道派を押さえての政治であったため、薄氷を踏むような緊張感があった。対外的にも、大陸で隋の煬帝が帝位を継ぎ、極めて危険な感じがした。大運河の建設と、半島の高句麗との戦だ。
推古9年、西暦601年、斑鳩宮を造営。推古11年、西暦603年12月5日、冠位十二階を制定。推古12年、西暦604年4月3日、十七条憲法を制定。推古15年、西暦607年、第二回遣隋使の小野妹子が帰国する。隋の煬帝からの使者、裴世清(はいせいせい)を伴って。
太子が送った第二回遣隋使の国書が問題となっていた。
国書は問題の一文「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」(日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや、云々)(注35)で始まり、日本の天皇が、中国の皇帝に対して、菩薩天子と呼び掛け、今興隆している仏教を学ばせて欲しいと言っている。隋の煬帝は怒った。
日本側も天子と名乗って、隋と対等外交を求めたからだ。
国書では、菩薩天子と言っているが、それは煬帝に対してではなく、菩薩戒を受けた文帝に対して言っている。煬帝は文帝から禅譲されたが、暴政で知られていた。これは警告か。
斑鳩宮で、裴世清は隋の使者として、厩戸皇子に会った。警護の者に暴れ者の姿もあった。
裴世清は、隋の煬帝から、国書の件で、厩戸皇子が一体どれほどの人物か見て来いと言われている。隋は高句麗との戦いの後を考えている。半島の戦いが終われば、次は日本だ。だが実際は、高句麗と戦の決着が付かないままで終わっている。だがこの時点では緊張感があった。
使者の歓迎会が開かれた。食事会だ。驚いた事に、斑鳩宮では、箸が使われていた。
裴世清は、これには目を見張った。東夷の蛮風に従って、手づかみではないのか?
実は遣隋使で大陸に渡った小野妹子が、中国の箸を持ち帰り、厩戸皇子に献上したのだ。
大陸では箸を使って食べるのが一般的で、これが文明だと言った。それに対して、日本では手づかみで食べていたので、厩戸皇子はこれを改め、箸を定着させる方向に持って行った。
まずは斑鳩宮から始めた。無論、時間が足りなかったので、無理があったが。
余談だが、1000年後、織田信長と話したルイス・フロイスは、日本では殿様から農民まで、全て箸を使って食べているとイエズス会に報告している。西欧では15世紀、東ローマの皇族の姫が、ヴェネツィアの貴族に嫁ぐ時、嫁入り道具で、ナイフとフォークを持ち込んでいる。
古代ローマはナイフとフォークを使っていた。生き残った東ローマでも、その習慣は残ったが、西欧では18世紀まで、食事は手づかみが主流だった。西欧では、一度習慣が滅びている。
太子は箸と仏教を日本に定着させた。この精神的影響は大きい。太子の世界観では、仏を信じ、箸を使って食べるのが文明人、日本人という事になるのだろう。
だが現代で、仏を信ぜず、手づかみでフライドチキンを食べる人たちを見たら、太子は東夷の蛮風に戻ったと思うかも知れない。1400年経過して、日本は東夷の蛮風に回帰しつつある。日本史では、繰り返し、廃仏毀釈の動きがあった。しかし総体としては、跳ね返して来ている。
なぜ太子が、仏教を日本に定着させようとしたのか、考えてみよう。何か答えがある筈だ。
話を戻そう。裴世清は通訳から、冠位十二階や十七条憲法の説明を受けた。同じ漢字を使っているので、ドキュメントは問題なく読めた。この時代、漢文はラテン語のように機能していた。誤解の余地はない。裴世清は感心し、本国に聖徳太子は極めて徳が高いと伝えた。
だが裴世清は、日本に圧力を加える事も忘れない。隋の煬帝の言葉を伝えた。
第三回目の遣隋使で、小野妹子を伴って、裴世清は帰国し、小野妹子は再び国書を持って、隋の煬帝に渡している。内容のトーンは変化し、その返書は、小野妹子が帰国途中、紛失した。
聖徳太子は政治家で、小野妹子は外交官だった。そこに忖度はあったのだろう。
従者の調子麿が、愛犬の雪丸を伴って散歩に出かけようとしている。
「……また夢殿か?」
御庭番の暴れ者が一声掛けた。老犬が「わん」と応えると、暴れ者は嘆息した。
「太子様は、国の政治をどう浄化するか、日本の未来はどうあるべきか、日々考えている」
軒先で、菩岐々美郎女が赤子をあやしていた。彼女は八人も子を産んだ。他の妃の子もいる。
「……そうかい」
近頃、太子はよく瞑想に耽っていた。この時代、現代に伝わる建物としての夢殿はなかったが、そう呼ばれる場所は存在した。いや、場所でもなかった。習慣だったかもしれない。
夢殿には、太子が長く深く瞑想した痕跡が残っている。だから後世、夢殿が立った。
それはちょうど、空海が、高野山奥之院で、最後の瞑想に入って、1200年経過しても、未だに生きているという設定で、寺が一日二回の食事を用意している話と似ている。太平洋戦争の時も、この習慣は途絶えずに続いている。これはそれと似ている。深い瞑想は時空を超える。
「一体何を悩んでいるのか知らねぇが――」
暴れ者は吐き捨てた。最近、面白くない。気が付いたら、太子の許に残って、20年が経過していた。大きな戦もなく、暗殺者を撃退する日々だったが、やや退屈していた。
「――さっさとなっちまえばいい」
推古天皇の統治は後期を迎え、蘇我馬子が反対しなければ、厩戸皇子が次の天皇に即位する可能性があった。無論、どちらが先に死ぬかタイミングの問題はある。実際は太子が先だった。
「でも中臣も動いている」
菩岐々美郎女が言った。中臣氏は日本の神々を信じる神道派だ。復権を狙っている。
暴れ者は最近、もう仏でもいいかと思っている。強い方が勝つ。ただそれだけだ。
太子は夢殿で何を想う?そのスケールの大きさと、届く射程は軽く1000年を超えているだろう。暴れ者にも、それくらいは分かった。すでに御庭番として役割も貰っているが、太子につきまとい、いつか殺してやると想ってきたが、ここに来て、心境の変化があった。
何かのために尽くし、何かのために生きる。そういう生き方もあるのかと思うようになった。
推古20年、西暦612年、紅葉が斑鳩宮の庭に積もっている。近隣で槌の音が響いていた。
注32 『日本書紀』巻十九・欽明天皇十三年 720年 奈良時代
注33 『水鏡』1195年 鎌倉時代
注34 『三経義疏』611年 飛鳥時代 『法華経』『勝鬘経』『維摩経』の三経の注釈書
注35 『隋書』の東夷伝 656年 唐
『シン・聊斎志異(りょうさいしい)』エピソード65
『世間虚仮唯仏是真(せけんこけゆいぶつぜしん)』 斑鳩の鬼3/3話