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【聖徳太子】あまり偉大すぎて実在しないかも!?仏教で国家建設を目指した古代史のスーパースター【厩戸皇子】
どーも、たかしーのです。
今回は、『聖徳太子』について、書いていきたいと思います!
『聖徳太子』という呼び名は、死後に送られた 諡であるため、実は本名については、いまだ定かになっておりません。
ですが、現在の日本史の教科書では「 厩戸王」「 厩戸皇子」として表記がされているようです。
ちなみに、みんな大好き「古事記」では、『聖徳太子』は「 上宮之厩戸豊聡耳命」という長ーい名前で登場しています。(ニニギかよ!)
聖徳太子とはどんな人物か?
数々の偉業を成し遂げた古代史のスーパースター
聖徳太子は、日本の歴史において、数々の偉業を成し遂げた偉人であり、その偉大さゆえ「生まれてすぐに言葉を話した」「10人の話を同時に聞き分けることができた」といった有名な伝説が作られるなど、いわば古代史のスーパースターとして、今なお人々から愛される人物です。
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現在の日本史の教科書では、聖徳太子は、推古天皇(第33代)の摂政として登場してくるかと思います。
摂政とは、天皇が幼少や病弱といった理由から政務を行うことができない場合に、その代理として政務を行う役職のことを言います。
実は、この聖徳太子が日本で初めて摂政に任じられた人物だったりします。
そんな日本初の摂政となった聖徳太子ですが、かの有名な改革を次々とやってのけることになります。
世襲にとらわれず有能な人材を登用する「冠位十二階」
貴族や役人の心構えを説いた「十七条憲法」
大陸文化を日本に取り入れた「遣隋使制度」
また、仏教の興隆にも尽力し、四天王寺や法隆寺を建立しました。
日本銀行券の肖像に採用された数が史上最多
平成以降に生まれた人からすると、全く馴染みがないのですが、実は『聖徳太子』は、日本銀行券(日本の紙幣)の肖像に採用された数が、現時点で史上最多となっています。
その数、なんと7回!
(戦前2回、戦後5回)
金額別で見ると、
100円札:4回
1,000円札:1回
5,000円札:1回
10,000円札:1回
の計7回となっています。
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聖徳太子の紙幣として、よく知られているのが、高度経済成長期(1955年~1972年ごろ)に発行された一万円札(「C一万円券」とも呼ぶ)で、平成世代が”諭吉”と呼んだように、この頃の日本人は、万札の代名詞として”聖徳太子”と呼んでいたそうです。
なお、これだけ聖徳太子が、日本銀行券の肖像に選ばれる理由として、国内外で数々の業績を残したこと、肖像を描くためのしっかりとした材料があること、などが挙げられています。
聖徳太子が登場した時代背景
朝鮮半島における要所であった伽耶が滅亡
時代は6世紀半ば。当時、日本のお隣、朝鮮半島では高句麗、百済、新羅による覇権争いが繰り広げられていました。(いわゆる朝鮮の歴史における三国時代)
この三国のほかに、朝鮮半島南部には、小国家群が分立し、ゆるやかな連合体が形成されていました。これらを総称して「 伽耶」または「 加羅」と呼びます。
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当時の日本にとって、伽耶は日本との関係が深かった百済との通交を行うための足場となる地域であり、かつ貴重な鉄の産地だったこともあって、4世紀後半から交流を続けていました。
また、ヤマト王権(当時の日本の軍事政権)は、伽耶の利権を守るため、朝鮮半島へ出兵をたびたび繰り返し、4世紀末に、日本は高句麗とはげしく戦ったと記録が残っています。
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倭の兵が「辛卯の年(391年)以来、半島に進出し、高句麗軍はこれと戦った」と記録されている
そんな伽耶ですが、562年、ついに新羅によって攻め滅ぼされることになります。
百済がピンチになったことで日本に仏教が公伝
およそこの頃、百済も次第に不利な状況へと追い込まれることになります。これは、百済が伽耶を介して、ヤマト王権の支援を受けながら、朝鮮半島における覇権争いを行っていたのですが、その拠点であった伽耶が次第に新羅によって奪われるようになったためです。
そこで、百済はヤマト王権に対して、仏教文化とそれに伴う技術、鉄などの資源を送り、その見返りに軍事行動を求めるようになります。
これが、日本における「仏教公伝」(※)につながることになります。
公伝した時期は、書物によって異なり、538年とも552年だとも言われています。ちなみに「日本書紀」では、552年と記録されています。
※よく「仏教伝来」と混同しがちですが、すでにこの時期により前には渡来人などによって、私的な信仰の対象として仏教が伝わっていたことから、国家間の公的な交渉として仏教が伝えられたことを「仏教公伝」と呼びます。
「日本書紀」によると、”欽明天皇13年(552年)に百済の聖明王が遣いを送って、釈迦仏の金銅像や経典、仏具などを献上した。”と記録されています。
そして、これらをもたらした使者は「仏教は諸法の中でもっとも優れており、難しいものではありますが、如意宝珠を抱けばなんでも思い通りになります」などと述べたそうです。
如意宝珠とは、仏教において願いごとが叶えられるという不思議な宝の珠のことを言います。
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これを聞き、当時の天皇であった欽明天皇(第29代)は、大いに喜んだのですが、「群臣に相談せずに専断はしない」と答えたそうです。
ちなみに、欽明天皇は、聖徳太子の祖父にあたる人物となります。
※後ほど、家系図でもご紹介していきます。
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蘇我稲目「仏教賛成なのだ!」物部尾輿「仏教反対なのだ!」
なので、欽明天皇は「仏の顔は見たこともないほど美しいが、どのように祀ればよいか」と群臣たちに尋ねたところ、大臣であった蘇我稲目が、
蘇我稲目「西の国はみーんな礼拝してますやさかい、ウチらだけが背いたらアカンでしょ!」
と答えたそうです。
しかし、 大連の物部尾輿が、これに反発。
物部尾輿「我らの王は天地百八十神を祀っているのに、異国の神など礼拝をすれば、神罰が下るでしょう!」
と諫めたそうです。
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これら意見を聞いた欽明天皇は、
欽明天皇「わかった!では、蘇我稲目に試しに礼拝させてみようではないか」
として、蘇我稲目に、仏像と仏具、経典を授けたそうです。
この蘇我稲目は、のちに天皇の外戚として実権を握ることになる蘇我馬子の父親にあたります。
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そして、物部尾輿は、のちに蘇我馬子のライバルとなる物部守屋の父親にあたる人物です。
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蘇我馬子「鈴付けたらオモロイやろな」物部守屋「(# ゚Д゚)」
584年、百済からの使者が、弥勒菩薩の石像ともう一体の仏像をもって、来日してきました。これをもらい受けたのは、蘇我馬子でした。
馬子は、寺に仏殿を造り、それら仏像を祀ることにしました。
しかし、これを良く思っていなかったのが、物部守屋でした。
585年、守屋は、仏殿と仏像は火にかけ、そして焼け残った仏像を難波の堀江に投げ捨ててしまったのです。
ここまで、物部守屋が仏教を強烈に排除しようとしたのには、理由がありました。実は、「仏教公伝」直後、疫病によるパンデミックが発生していました。この疫病は、天然痘だと考えられています。
そして、この疫病による被害はさらに拡大をし、時の天皇であった敏達天皇(第30代)も、これにより崩御してしまいました。
馬子と守屋は、敏達天皇の葬儀に出席したそうですが、そこで両者の対立が決定的なものとなりました。
長い刀を差して弔辞を読む小柄な馬子を見て、
物部守屋「ははは、まるで矢に射られた雀のようだな。」
と罵倒したのに対し、緊張で体を震わせながら弔辞を読む守屋を見て、
蘇我馬子「ははは、鈴を付けたらさぞオモロイやろな。」
と口撃したそうです。(子供のケンカかよ…)
こうした蘇我氏と物部氏が火花を散らすなか、聖徳太子は誕生し、のちの古代史のスーパースターとして、歴史の表舞台に登場することになります。
聖徳太子の生涯
※本記事では、生前の『聖徳太子』を「厩戸皇子」とし、その生涯について書いていきます。
欽明天皇の皇子と皇女から生まれた皇太子
厩戸皇子は、574年(敏達天皇3年)、現在の奈良県明日香村で、父・ 橘豊日皇子と母・ 穴穂部間人皇女との間に生まれました。
父・橘豊日皇子は、のちの用明天皇(第31代)であり、
祖父は「仏教伝来」当時に在位していた欽明天皇(第29代)です。
そして、母・穴穂部間人皇女は、欽明天皇(第29代)の娘(つまり異母兄弟)であることから、厩戸皇子は、欽明天皇の皇子と皇女から生まれた皇太子ということになります。
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また、当時、権勢を振っていた蘇我馬子とは、大叔父(親の祖母の兄弟)にあたる間柄であり、その後、厩戸皇子が蘇我馬子の娘を 娶ったことによって、同時に義理の父にもあたる存在にもなります。(ややこしい…)
幼い頃から才気煥発
厩戸皇子は、幼少期から 才気煥発(※)であったと言います。※頭脳の働きがすばらしく活発であるさま。
伝説では、厩戸皇子が2歳のときには東の方角に向かって合掌して「南無仏」と唱えたと伝えられています。
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by ColBase: 国立博物館所蔵品統合検索システム (Integrated Collections Database of the National Museums, Japan), CC 表示 4.0
そして、7歳のときには、百済から入手した仏教経典を数百巻読破したとも伝えられています。
丁未の乱にて蘇我馬子と共に物部守屋を倒す
厩戸皇子が13歳のときに、敏達天皇(第30代)の死去を受け、父・橘豊日皇子が用明天皇(第31代)として即位します。(585年)
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この頃、蘇我氏は天皇の外戚(母方の親戚)として、ヤマト王権内で確固たる地位を築いていました。そのため、用明天皇の伯父であり、かつ厩戸皇子の大伯父にあたる大臣・蘇我馬子の要請によって、用明天皇は仏法を重んじるようになります。
このことに反発したのが、大連・物部守屋でした。
これにより、崇仏派の蘇我馬子と排仏派の物部守屋との対立が、より一層、表面化するようになりました。
厩戸皇子は、用明天皇の皇子である立場から、蘇我馬子を支持していました。
しかしながら、用明天皇は在位2年で急病により崩御してしまいます。(587年)
この早すぎる崩御により、皇位の継承をめぐる争いが勃発します。
そして、これに乗じ、ついに蘇我氏と物部氏との間で戦いの火蓋が切られることになりました。
当時、厩戸皇子は14歳でしたが、蘇我馬子とともに兵を率いて、物部氏と戦うことになります。始めは、物部氏が優勢でしたが、厩戸皇子は四天王(仏教の四人の守護神)の像を作って自身の頭に挿し、戦勝祈願をしながら、蘇我馬子とともに守屋の本拠地を攻めたそうです。
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その結果、物部守屋は倒され、戦争は蘇我氏の勝利となりました。
これにより、物部守屋の一族は、滅亡することとなります。
ですが、その代償として、厩戸皇子も、母方の叔父3人を相次いで失うという悲劇も経験しています。
この戦争は「丁未の乱」もしくは「丁未の変」とも呼ばれています。
20歳で推古天皇の摂政に就任
政敵であった物部守屋に勝利し、実質的に実権を握った蘇我馬子は、欽明天皇(第29代)の皇子を擁立し、第32代天皇として即位させます。のちの崇峻天皇です。
しかしながら、蘇我馬子にとって、崇峻天皇は蘇我氏が権力を握るためのお飾りであったことから、崇峻天皇は馬子に不満を持つようになります。
そんなある日、崇峻天皇は、献上された猪を見て「猪の首を切るように、朕が憎いと思う者を斬りたい」と発言してしまったそうです。もちろん、そのターゲットは蘇我馬子のことを指していました。
これが馬子の耳に入ってしまい、あろうことか、崇峻天皇は蘇我馬子によって暗殺されることになります。崇峻天皇は、今でも臣下に暗殺された唯一の天皇とされています。(馬子ヤベェ…)
そのため、蘇我馬子は、崇峻天皇の姉であり、敏達天皇(第30代)の皇后にであった 豊御食炊屋姫に要請して、天皇に即位させます。この人物が、のちの推古天皇となります。
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『記紀』(『古事記』と『日本書紀』の総称)によると、推古天皇は日本史上初の女性天皇であると記録されています。なので、まさか皇后が天皇になるとは思っていなかったこともあって、自身の甥である厩戸皇子を摂政として置くことになります。このとき、厩戸皇子は20歳でした。
そして、どちらの外戚でもある蘇我馬子とともに、日本に仏教を広め、大陸の文化や技術を取り入れる政治を推進することとなります。
厩戸皇子「四天王様のおかげで勝てました!寺建てます!」
この頃、蘇我馬子は、蘇我氏の氏寺として飛鳥寺を建立しています。
飛鳥寺は日本最古の本格的仏教寺院であり、日本初の瓦葺き屋根を持つ建造物として建立されました。本尊である
は、通称「飛鳥大仏」として親しまれており、重要文化財にも指定されています。
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そして、厩戸皇子も、593年(推古天皇元年)、摂津国(現在の大阪府北中部の大半と兵庫県南東部)の難波に四天王寺を建立しています。
これは、丁未の乱で、物部氏を対峙した際に、厩戸皇子が四天王の像を作って「もし敵に勝たせてくださったなら、四天王のための寺塔を建てましょう」と誓いを立てていたためです。
現在は、大阪府大阪市天王寺区に位置しています。
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ちなみに、この頃、お盆の起源ともなった仏教行事「 盂蘭盆会」が始まったとされています。
↓ 「お盆」については、こちらもどうぞ。
儒教と仏教の師と出会う
「日本書紀」によると、593年(推古天皇元年)、百済から渡来した 覚哿博士が、厩戸皇子に儒教の経典を教えたとあります。覚哿博士は、厩戸皇子の儒教の師となります。
↓「儒教」については、こちらもどうぞ。
594年(推古天皇2年)、推古天皇は仏教興隆の詔を発して、国内の統治理念の柱を仏教に定めることを宣言しました。この詔は、もちろん仏教への造詣が深い厩戸皇子の影響によるものでした。
その翌年、595年(推古天皇3年)、高句麗の僧 恵慈が渡来します。この僧恵慈は、厩戸皇子の仏教の師となります。
また、僧恵慈は「隋は官制が整った強大な国で仏法を篤く保護している」と皇子に伝えたそうです。
厩戸皇子は、この二人の師から儒教と仏教を学び、どちらも極められたと伝えられています。
冠位十二階・十七条憲法を制定
こうした学びから、厩戸皇子は、かの有名な政策を次々と打ち出します。
603年(推古天皇11年)、冠位十二階を布告したのに続き、
604年(推古天皇12年)、憲法十七条を制定しました。
※このとき、厩戸皇子は31歳。
冠位十二階は、これまでの氏姓制度による政治的地位の世襲を廃止し、能力や功績に応じて、十二の位階を授けるための制度であり、貴族でなくても有能な人材を登用するための政策であったと考えられてます。
冠位は、大徳・小徳・大仁・小仁・大礼・小礼・大信・小信・大義・小義・大智・小智の十二階で制定されました。冠には、それぞれ決まった色の絹織物を縫い付けることになっていたため、聞かずとも、その人物がどの冠位なのかがわかるようになっていたそうです。
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ちなみに、冠位の名称のうち、徳を除いた五つは、儒教の徳目である五常(仁・義・礼・智・信)にちなんでいます。五常にない「徳」が最上位なのは、徳は仁以下の五つを合わせたものだから、だそうです。
憲法十七条は、憲法というよりも、貴族や役人の心構えを説いた規範であり、内容としては、儒教を中心に、仏教や法家の要素が盛り込まれています。
例えば、第一条の「和を以て貴しと為す」は、”何事をやるにしても、みんなが仲良くやり、いさかいを起こさないのが良い”という意味であり、この条文では、儒教における和(和らぐことが大切である)の概念を超え、仏教の和合(親しみ合って仲良くする)の精神の重要さが説かれています。
第二条の「篤く三宝を敬え」「三宝とは仏と法と僧となり」は、”この世には、私たちを幸せにする3つの宝があるから、この3つの宝を大切にしなさい”ということを意味しています。
この三宝(3つの宝)は、
「仏」・・・悟りを開いたお釈迦さま。阿弥陀如来、大日如来、薬師如来などの仏陀たち。
「法」・・・仏陀の説いた教え。
「僧」・・・出家者。
を意味し、仏教の指導原理として全仏教徒が敬う対象であることから、端的に、この条文では「仏教を信仰せよ」ということが説かれています。
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なお、第十条の「相共に賢愚なること 鐶の端なきが如し」では、”人にはそれぞれのこだわりがあるのだし、どちらも凡夫であり愚かさを持っているのだから、人と考えが違ったからといって怒るべきではない”ということを説いていて、現代にも通用するような教えがあることに、個人的にはとても驚かされました!
このように、厩戸皇子は、その政策に、仏教を取り入れることで、崇仏派の蘇我氏を立てつつも、その政策をもって、蘇我氏のような氏族に権力が集中しないような国家建設を目指したと言えます。
ただ、このような政策を打ち出した直後の605年(推古天皇13年)、厩戸皇子は宮殿を飛鳥から20キロほど離れた斑鳩に宮殿(※)を建てて、引っ越しをしています。これは、蘇我馬子との対立に疲れたからだと言われています。
※ 斑鳩宮・・・厩戸皇子が601年(推古天皇9年)に造営した宮殿。
父の遺志を継いで法隆寺を建立
607年(推古天皇15年)、推古天皇と厩戸皇子は、斑鳩に寺と薬師如来像を造りました。この寺は斑鳩寺と称され、のちに法隆寺と呼ばれるようになります。
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薬師如来像は、仏教における仏様の一種で、特に病気平癒や健康祈願にご利益があるとされています。
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実は、法隆寺は、厩戸皇子の父である用明天皇が自らの病気平癒のために建立を発願したのですが、その志を遂げずに崩御したため、その遺志を継いだ推古天皇と聖徳太子が建立したという経緯があります。
小野妹子「日出ずる処の天子…」煬帝「(# ゚Д゚)」
また、同じ607年(推古天皇15年)には、小野妹子に国書を託し、遣隋使として、隋(当時の中国)に派遣しました。
※なお、現在では、これがわが国2回目の遣隋使派遣であるとされています。
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その国書の書き出しには、「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す…」と書かれてありました。
そして、これを読んだ隋の皇帝・ 煬帝は、「蛮夷の書は無礼だ!」と言って、たいそう激怒してしまいます。 蛮夷とは、中華からみた異民族の蔑称のことです。
![](https://assets.st-note.com/img/1728704967-dX0CzBQ1i2pGYWuT5ZKLgyAU.jpg)
煬帝が激怒したポイントは、2つあると言われています。
1つは、隋を「日没する処」と表現したこと。対照的に、日本は「日出ずる処」と書かれているので、まるで隋がいまにも沈みそうな国だと言っているとして、怒りを買ってしまったと言われています。(まあ実際のこの11年後の618年に隋は滅びるわけなのですが…)
もう1つは、日本の天皇を「天子」と表現したことです。この「天子」は、隋の皇帝だけが使うことを許された敬称であったことから、天皇が勝手に「天子」と名乗ったことに、激怒したとされています。
ですが、厩戸皇子の狙いは、まさにそこにありました。
厩戸皇子は、遣隋使の目的として、これまで朝貢外交を続けてきた日本の弱い立場をより良いものとするため、隋の皇帝と同じ「天子」として国書を送ることにより、隋と日本が対等な立場であることを出張したかったのだと、考えられています。
とはいえ、このような理由から激怒した煬帝ですが、幸いなことに、この頃、隋が隣国である高句麗と交戦中であったことから、同じ近隣諸国である日本を敵に回すのは得策ではないと判断し、小野妹子は処罰されることなく、そのまま帰国の途に就くことができました。
ここは、私の想像ですが、おそらく厩戸皇子が、この情勢から大きな問題にならないことを計算した上で、この国書を書いて送ったのでは?とも思いました。
ちなみに、この様子を『日本書紀』では、どう書かれているかと言うと、なんと煬帝が激怒したことは書かれておらず、小野妹子は、翌年の608年(推古天皇16年)4月に、隋の役人 裴世清を伴って、日本に戻ったと書かれています。
しかしながら、返書を持っているはずの妹子が「煬帝からの書は百済を通ったときに、百済人に盗まれました」と奏上したとも書かれています。
もしかしたら、煬帝からの返書には、推古天皇や厩戸皇子を怒らせるような内容が書かれていたため、妹子があえて見せなかった、のかもしれません。
お経の注釈書「三経義疏」を著す
晩年、厩戸皇子は、自ら一乗の教えを説く三経( 勝鬘経・ 維摩経・法華経)の注釈書を著しました。
一乗とは、「一つの乗り物」という意味をもつ言葉であり、仏教では、全ての 衆生を一つの乗り物に乗せて悟りへと導く、つまりすべての人が成仏できると説く教法のことを言います。
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615年(推古天皇23年)までに、『勝鬘経義疏』『維摩経義疏』『法華義疏』を著し、これらを総称して「三経義疏」と呼んでいます。
他にも、厩戸皇子は、蘇我馬子と協力をしながら『国記』『天皇記』といった歴史書も編纂しています。
49歳で死去
622年(推古天皇30年)、斑鳩宮で倒れた厩戸皇子の回復を祈りながら、妃の 膳部菩岐々美郎女が亡くなると、その後を追うようにして、2月22日に死去しました。
実は、厩戸皇子には4人の妃がおりましたが(そのうちの1人が蘇我馬子の娘、 刀自古郎女)、厩戸皇子は、最期まで皇子の回復を祈りつづけた膳部菩岐々美郎女とともに、合葬されました。
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また、別の妃である 橘大郎娘は、厩戸皇子
の死後、天寿国(天国)で暮らす様子を刺繍に残しました。これが日本最古の刺繍である「 天寿国曼荼羅繍帳」で、奈良県斑鳩の中宮寺に国宝として所蔵されています。
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おわりに
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余談ですが、厩戸皇子の名前の由縁となったのは「厩戸前にて出生した」エピソードがあるからなのですが、この話は、厩で生まれたイエス・キリストの生誕にも類似する部分があるため、おそらくは『日本書紀』が編纂された頃にこうした話が日本に入ってきていて、影響を受けたのでは?と考えられています。
このように、伝説的なエピソードも多く残っていることから、実在しない説まで囁かれている人物でありますが、お隣中国では、400年ほど前に天才軍師・諸葛亮が登場し、活躍をしていますので、こういった人物が実際に出てきてもおかしくはないのかなと、個人的には思います。
他にも、この歴史上の人物や神話などをベースに、記事を書いていく予定ですので、是非フォローなどしてもらえるとありがたいです!
それでは!