小野氏は、第5代 孝昭天皇の皇子・天足彦国押人命の子孫である和珥(わに)氏から派生したと伝わる。和珥氏は奈良県天理市あたりに勢力を持っていたが、海運に長け、滋賀県大津市の琵琶湖畔に拠点を持ち、隣接地に小野氏の史跡が多数存在する。小野 妹子もこのあたりの出身と云われ、古くから外交・地方行政官・学問などを担当する役人として朝廷に仕えた。
小野 篁は小野 岑守の長男で、13歳の時 陸奥守となった父に帯同した。学問より武術に興味があったが、帰京した時に第52代 嵯峨天皇に嘆かれて学問に向かい20歳頃大学寮に合格した。学生時代に後の右大臣・藤原 三守に漢詩を送り、その娘を妻とした。
遣唐副使として3度目の航海(いずれも渡唐には至らず)で遣唐大使のやり方に反発して乗船を拒否し、朝廷を批判する漢詩を詠んだことで嵯峨上皇に流罪にされる(百人一首の小野 篁の歌はこの時に詠んだもの)。
2年後に許されて帰京し、参議まで勤めた。昼間は役人、夜は冥府の裁判官を司ったという伝説があり、京都の風葬地だった場所にゆかりの寺院がある。
関東の八王子を拠点とした武蔵七党の横山党は、小野篁の子孫とされる。その他全国に伝承がある。
『京都遠足』P18・35
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