天正12年(1584)1月3日は秀吉が大坂城の山里曲輪で茶室開きを行った日。千利休と津田宗及の二人の茶頭とともに茶室開きを行い要人を迎える場として使われた。このときはまだ天守も御殿も未完成であった。のちに大坂夏の陣で天守を逃れ秀頼と淀殿が自害したのが山里曲輪だったといわれる。
大阪城天守閣 2023年9月16日 Nikon D610 AF-S NIKKOR 50mm f/1.8G 天守閣への入場口には行列ができており、登るのは諦めた。 しかし本丸の中はこんな感じだったか…全然覚えてなかったので新鮮。 改めて大きな城なんだと実感した次第。
慶長4年(1599)1月10日は豊臣秀頼が秀吉の遺言に従い母・淀殿とともに大坂城へ移った日。5日前に秀吉の死が公表されていた。この移動により豊臣政権は秀吉の遺言で伏見城に残り政務を執る家康と大坂城に移った秀頼と傅役・前田利家の2つに分かれた。これまで政治の中心は伏見城だった。
天正14年(1586)10月27日は家康が大坂城で秀吉に臣従を誓った日。小牧・長久手の戦い後、秀吉は家康を臣従させるため妹朝日を嫁がせ母大政所を人質に送った。大政所が岡崎城に着くと家康も三河を発し大坂へ向かった。この前日に豊臣秀長邸に宿泊すると夜に秀吉が密かに家康を訪ねて現れた。
天正11年(1583)8月28日は羽柴秀吉が石山本願寺の跡地で大坂城の築城を開始した日。上町台地北端にあり10年にも渡り信長に抵抗し続けた石山本願寺の跡地は信長も着目し築城予定だったという。最初の縄張(設計)は黒田官兵衛が担当している。大坂城は秀吉の生涯に渡って拡張され続けた。