司馬遼太郎と戦国の東海道を歩く
なぜ戦国の東海道か
子どものころからよくNHKの大河ドラマを見てきた。第一作が1963年、すなわち東京五輪の前年の「花の生涯」という幕末を舞台にした作品という。扱う時代で最も多いのは戦国時代で次は幕末・維新であるのは周知の事実だが、特に信長、秀吉、家康の「三英傑」が活躍する戦国時代はほぼ三年に一度は取りあげられてきた。
関東と関西を結ぶ東海道はこれまで何度も歩いてきた。「三英傑」の故郷でもあり、活躍してきた場でもある。その中でも大河ドラマの原作者として六回も名を連ねる司馬遼太郎の中でも、今回は「国盗り物語」「新史太閤記」「覇王の家」を中心に、関連する場所を歩きつつ、東海道とは、戦国とは、そしてそれを大衆の娯楽にしてきた知の旅人、司馬遼太郎とはなんだったのかについて考えてみたい。
なお、特に今回はこの三人のうち二人以上が同時に生きていた1598年までに焦点を当て、秀吉没後の関ケ原および大坂の陣については軽く流すことにする。
濃尾平野を一望する清洲城と実利第一の信長像
名古屋城から10㎞あまり北にある尾張清洲城を訪れた。当時「那古野城」と呼ばれていた名古屋城から若干二十歳の若者が城主としてこの城を拠点とするためにやってきた。「うつけ」として、「冷血漢」として、はたまた「合理主義者」として描かれがちな織田信長であるが、ここは信長の出世の第一歩を踏み出した地である。司馬さんは那古野時代から清洲時代の信長をこのように描写している。まず鷹狩について、信長は
「(鳥を獲ればよいだけのものではないか)とかれはおもうのだが、守役の平手政秀などはその形式にうるさくこだわった。」
とある。平手政秀は形式を重視する中世の人間として描かれているが、「実利第一」という実利主義の信長から見れば頑迷固陋な年寄りにしか見えなかったのだ。今でいうなら契約書に印鑑などいらぬ、各種招待状はSNSで十分、ご祝儀や香典には水引などいらず、スマホで相手の口座に送ればいい、というようなものかもしれない。
ところで十代のころからの城郭マニアの端くれとして、私は清洲城に興味をもてなかった。というのはこの城跡は近代に鉄道を通したために跡形もなく破壊されており、現在見られる天守閣めいたものも1989年に空想によって建てた模擬天守であり、張りぼてにすぎない。そもそも清洲時代の信長、いや日本人は天守という発想すらもっておらず、通説にしたがって日本で初めて天守を建てたのが信長だとすると、それは1579年ごろに建てた安土城だからだ。
とはいえこの「なんちゃって模擬天守」を歩きながら思った。年末の夕方だったが、それなりに観光客はいた。彼らがここに来た理由は、おそらく天守らしきものがあるからだろう。日本人にとって城=天守閣という公式は根強い。これが単なる鉄筋コンクリート三階建ての殺風景なビルだったら、私のような物好き以外は来なかっただろう。そうすればここを運営する清須市も財政上困る。史実云々よりも公園運営の客寄せパンダとしての実利優先思考がはたらいたのだろう。
ところで信長が上級の身分である武士らしからぬ風体で腰に袋をぶらぶら下げていたのを笑われたときの信長の言い草を司馬さんに再現させる部分が面白い。
「腰に袋をぶらさげておけば、いつでも食べたい時に柿が食えるし、石を投げることもできる。便利である。便利だからそうするのだが、世間ではそういう便利が馬鹿にみえるのであろう。」
今でいうなら、ビジネススーツなどやめて、ポケットがたくさんついた作業着ほどよいものはないということになる。司馬さんの解釈で面白いのは、プラグマティスト信長をうつけ扱いする世間のほうを、信長というキャラクターの口を借りて馬鹿扱いしているのである。
史実にそぐわねば天守の再建が困難な平成になってもこのような天守もどきを建てて客寄せを考えるという発想には、皮肉でない喝さいを送りたいと思うようにもなった。私も丸くなったものだ。令和の今、ハコものの維持でどの自治体も苦労しているからである。
模擬天守の最上階から名古屋のほうを眺める。見渡す限りの濃尾平野である。その日は名古屋城までは見えなかったが、この肥沃な土地が信長を、そして秀吉を生んだのだ。司馬さんはこの地形に絡めて信長の戦術をこう述べている。
「信長は 一望鏡のように平坦な尾張平野で成長し、その平野での戦闘経験によって自分をつくりあげている。尾張は道路網が発展しているため 力の機動には うってつけ だが、一面、地形が単純なため、ここで育った信長は山河や地形地物を利用する 小味な戦術思想に欠けている。」
まむしの道三の伝えたかった「芸」
ところで模擬天守から川を越えたところに信長と妻の濃姫の銅像が建てられている。濃姫の父は「まむし」のあだ名を持つ美濃の斎藤道三である。伝説では油売りが下剋上の世にしのぎを削りあって一国一城の主にまでなったという。この道三が「婿殿」信長の能力を認めた。司馬さんは信長に手紙を書く道三の心境を、このように書き綴っている。
「自分の人生は暮れようとしている。青雲のころから抱いてきた野望のなかばも遂げられそうにない。それを次代にゆずりたい(中略)老工匠に似ている。(中略)その「芸」だけが完成し作品が未完成のまま、肉体が老いてしまった。それを信長に継がせたい、とこの男は、なんと、筆さきをふるわせながら書いている。」
戦国の世を生き抜いてはきたが、志半ばで老境を迎えていた道三。この男が凡庸な息子ではなく、血縁はつながっていないとはいえ「同じ匂いのする」隣国尾張の小領主に継がせたかったものは、おそらく形式にとらわれず実を取るプラグマティズムだったのだろう。それを司馬さんは「芸」としている。道三の目に狂いはなかったことを証明したのが1560年に起こった桶狭間の戦いであった。
今川義元の家柄
書きながら思い出したことがある。小学校六年生の歴史の授業で織田信長を知った時から、私は信長に夢中になった。常識にとらわれぬ破天荒さに憧れたのだろう。図画の時間にも信長や信長の鎧兜、織田家の家紋、安土城など、信長に関する絵を描きまくっていた。そしてその信長の出世の第一歩が桶狭間の戦いである。先生にその話を講談のようにしてもらったときは、まさに血沸き肉躍る思いがしたものだ。
しかし思うに今川義元とは名家に生まれておきながら日本史では登場するや否や殺されるという「斬られ役」でしかない。文武ともに優れた人物だったはずではあるが、本拠地の駿府・静岡市に行ってもあまりパッとしない扱いで、よそ者にすぎない家康にお株を奪われている。この家格の高さについて、司馬さんはこう説明している。
「もし京の将軍家の血統が絶えた場合、吉良家がこれを相続し、吉良家に適当な男子がいない場合は、駿府の今川家が継ぐーという足利隆盛の伝説を、海道の士民たちはなおも信じていた。」
ちなみに吉良家とは元禄期にあの吉良上野介を輩出した吉良家であり、現愛知県は三河に彼の菩提寺がひっそりとたっているにすぎないが、そもそも吉良家が公式的な儀礼をつかさどる「高家筆頭」であったのも、家柄の良さを同じ三河人の徳川家が認めていたからである。
そしてそれに次ぐのが今川家であるが、そんな名家の2,3万人の大軍に立ち向かったのが我らが尾張の小領主のうつけ殿だった。このドラマティックさに小学六年生の私も手に汗を握って先生の「講談」を聴いていたのだ。ただし十倍の差の大軍に対して信長は真正面から戦う気はまったくない。司馬さんはこう描写する。
「清洲城を午前二時すぎにとびだした信長が、三里を駆けて熱田明神に入り、(中略)何にてもあれ、敵からみれば旗指物と見まがう白いものを、この熱田の高所の木間々々に棹にて突き出し、おびただしくひるがえらしめよ。」
「講釈師、見てきたような嘘をつき」という川柳があるが、司馬さんも小学校時代の先生のような、見てきたかのような描写である。ちなみにこの戦術は実数よりも兵力を水増しさせるという楠木正成のようなものだ。一か八かのゲリラ戦を仕掛けようとしたのである。
桶狭間ー中世から近世への戦術の変化
桶狭間の戦いで今川義元の首がとられたとされる候補地のひとつ、桶狭間古戦場公園に向かった。児童公園のようになっており、槍を片手に立つ信長と床几に腰を下ろした義元の像が数メートルほど離れてこちらを見ていた。義元の首を打ち取った者よりも、敵の大将の所在地を突き止めた情報提供者を最大の功労者としたというが、源平合戦以来の「やあやあ我こそは…」で始まる試合のような肉弾戦から、ピンポイントで敵将を狙う情報戦に変わった瞬間であり、大げさに言えば中世から近世になった画期的な戦いでもあった。この構造は米軍がビンラディンをピンポイントで殺害した今世紀と全く同じである。司馬さんは信長の戦術についてこう述べている。
「戦術家としての信長の特色は、その驚嘆すべき 速力にあった。必要な時期と場所に最大の人数を迅速に集結 させ、快速をもって 攻め、戦勢不利と見れば あっというまにひきあげてしまう。(後略)手のこんだ 巧緻で変幻きわまりない型の戦術家ではない。その種の工芸的なまでの戦術家の型は、多くは甲州、信州、美濃北部といった地形の複雑な地方に多く輩出している。武田信玄、真田昌幸、同幸村、竹中重治 といった例がそうであろう。」
信玄や真田氏など、甲信地方の戦術は「工芸的」、つまり技を披露する中世的なお家芸として見ているのに対し、信長の戦いを「時は金なり」とばかりの電撃戦として見ると同時に、勝つ見込みがなければいつでも引きあげるという合理性をもっていた。
現在の司馬さんは太平洋戦争のあまりの無謀さ、特に敗けると分かっていたなら引き上げて損を減らすという常識的な考え方ができない、いや、しようとしない旧日本軍に絶望し、日本人はもともとこんな馬鹿な民族だったのかと思い悩んだ末、見出した人物の一人が信長だったのだ。わが民族にもこんな合理的な人間もいるという事が分かったのは司馬さんにとって救いだったのだろう。ちなみに司馬さんは信長の見方としてこのように述べている。
「桶狭間の貴功は、窮鼠たまたま猫を噛んだにすぎない。と、自分でもそれをよく知っているようであった。かれは自分の桶狭間での成功を、かれ自身がもっとも過少に評価していた。その後は、骨の髄からの合理主義精神で戦争というものをやり始めた。この上洛作戦がいい例であった。『戦さは敵より人数の倍以上という側が勝つ』という、もっとも平凡な、素人が考える戦術思想の上に信長は立っていた。」
この部分を読むにつけ、真珠湾攻撃で窮鼠たまたま猫を噛んだにすぎないのに、停戦に持ち込まずにガダルカナル、アッツ、サイパン、インパールなどで連戦連敗を続け、特攻機ではじめは敵を恐れさせても同じ戦法を繰り返すので無駄死にを強いて同世代の仲間たちを殺し、ひいては国家を滅亡に導いた軍部に対する青年期の司馬青年の怒りを感じないではいられない。
あるいは昭和の高度経済成長期の五輪や万博の素晴らしさを、日本の国力や世界情勢も変わった2020年代になっても完遂しようとする令和の日本とかぶると思うのは私だけだろうか。
三河・岡崎城
桶狭間の戦いで今川義元が雑兵に討たれると、今川家の人質となっていた松平元康、すなわち家康は悩みに悩んだ。今川家を見限り織田家につくかどうかという選択である。それまでの三河衆の今川家に対する健気なまでの尽力は特筆すべきなのだろう。司馬さんは家康の家来たちの口を借りて三河衆の心境をこう書いている。
「このように今川のために死働きしてさえおれば、今川家のほうでもやがて我等に同情し、我等を信頼するようになり、ひいては駿府に構われてござる竹千代(家康)様を返してくれるにちがいない」(中略)「竹千代様は、われわれが無明長屋(むみょうじょうや)のともしびよ」
三河衆の盲目的なまでの主君家康への思いが伝わってくる。ただ没落しつつあったとはいえ、今川家はまだ健在である。しかし尾張の織田の勢力も無視できない。結局は岡崎城に戻った家康だが、なおも今川家に対し「律儀」を「演じて」いたと司馬さんは考える。
「この『律儀』は、むろんただの正直者のあの正直ではないであろう。正直を演技するという、そういうあくのつよい正直であった。この用心ぶかい男は、義元が死んでなお今川家をおそれていた。」
家来たちの主君に対する盲目的な忠誠心だけではない。家康もトップダウンではなく、部下たちを気遣っていた。司馬さん曰く、
「家康の徳川家のばあいは、家康は名手としてかれに属する族党群の族長どもに対して大きな遠慮がある。この『遠慮』の感覚が、いわば内部政治というものであった。家康はその麾下の三河武士団をよく統御していたが、しかしかといって信長のようにその重臣をまるで奴隷のように追いつかうという立場ではなかったために、かれらにこまかく心くばりし、ときには彼らの歓心を得ようとするような言動もし、とくにかれらの自尊心を傷つけることのないようにこまかい配慮をつねにはたらかせていた。」
これは家来を役に立つたたないだけで考える機能中心主義者の信長とは正反対といってよい。だからこそ家康は忠誠心を勝ち得たのかもしれない。そんなことを考えながら岡崎城の天守や三河武士のやかた家康館などを歩いてみた。
三河人VS尾張人
この用心深さや律義さについて、司馬さんは「三河気質」という表現を使ってこう説明している。
「三河には、徳川家康とその家臣団の気風で代表されるような『三河気質』というものがある。極端な農民型で、農民の美質と欠点をもっている。律儀で篤実で義理にあつく、侍奉をすれば戦場では労をおしまず命をおしまず働く。着実ではあるが逆にいえば、投機がきらいで開放的でなく冒険心にとぼしい。印象としては陽気さがない。」
信長に憧れていた私は家康がさほど好きではなかった。が、このくだりを読んで、私は三河人に好意を持つようになった。三河人がもし本当にこんな真面目だけが取り柄で安定志向の地味な人々ならば、これは私の生まれ育った山陰人、ひいては「裏日本人」の気質そっくりではないか。一方で司馬さんは隣国尾張人の気質をまず地形にかこつけてこう記している。
「隣国の尾張はまるでちがう。地形がちがうのである。いちめんの平原で、その平原のあいだを数多くの川が貫流している。道路が多く、水路も多い。となれば自然の勢いで商業が発達してゆく。さらに尾張は熱田を起点に伊勢との海上交通がひらけ、京への道程が早い。(中略)さらに、この国は干拓がしやすい。」
この地形が人々にどのような性格を植え付けたのか。司馬さんは続ける。
「自然、農民に金がある。そのうえ地勢的に商売がしやすいために人間が利にさとくなり、投機的になる。かつ、国の地勢が低地で河川の氾濫が多くせっかくの美田も秋になれば川に流されることがしばしばであった。当然、土地にしがみつく保守的な生き方よりも、外に出て利をかせぐ進取的、ときには投機的な生きかたをとらざるをえない。尾張は、農民まで商人的な気質をはやくから帯びているのである。」
これは我々山陰人が山陽人、ひいては関西人に対して抱く偏見にそっくりである。ますます三河人に親近感をもち、かわりにあれほど憧れた信長を生み出した尾張人の存在が私から遠のいていった。さらに司馬さんは言う。
「三河の庄屋然とした家康の性格、ゆきかたは死ぬまでかわらず、その死の前に遺言して、
『徳川家の家政の制度は三河のころのままを踏襲してゆくように』といった。」
つまり、徳川三百年の太平の世は、進取の気質とはかけ離れた保守的な三河人の気質を全国に広げたために守られたようなものだったのだ。ようやくわかりかけてきた。なぜ小学生の私が家康を敬遠し、信長に憧れたのか。私を取り巻く「山陰=三河人気質」に嫌気がさしたからに違いない。信長への憧れはないものねだりだったのだ。
三河一向一揆と本證寺
三河は安城市の本證寺を訪れた。若き日の家康にとって三河国内最大の敵は一向宗の門徒たちであったが、彼らが本拠地とするところの一つがこの寺だった。阿弥陀如来を信じ、来世での極楽往生を信ずることが、三河人気質に与えた影響を、真宗門徒の司馬さんはこう述べる。
「三河の本願寺門徒の風はこの国の気質が気質だけにかくべつに頑固で、(中略)この三河では守護大名に力がなく、それにかわるべき松平氏の実力が振るわず、一国を統制すべき武権が成立していないからであろう。なにしろ門徒の地侍たちは、「主人といえども一世の契り。弥陀の本願未来永劫のちぎり」ととなえて地上の権を軽く見、むしろ阿弥陀如来の家来、というような意識で生きている。」
この世で生きる時間よりもあの世での時間のほうが長いという発想が、現実社会における特定大名の家来という感覚を麻痺させていたと考えるのだ。ちなみにこの寺は後に再建されたものであるが、城郭の櫓そっくりな建築物が目立ち、その前には濠が巡らされている。さらに土塁もまことに実用的で、立派な平城といっていい。臨戦態勢であることを感じさせるその城郭兼寺院というユニークさに、普段はもらわない「御城印」をいただいたほどだ。こうした寺に関して司馬さんも言及している。
「寺々も、様子が違う。この宗旨にかぎって寺院の建築は半ば城塞化している。堀をめぐらし、練塀を高くし、さらに「太鼓楼」と称する櫓をあげ、その櫓には白壁を塗って火箭(ひや)の防ぎにしているという騒ぎである。」
中に入ると畳の向こうに阿弥陀如来が立ち、こちらに歩んできそうな感じである。高田家は曹洞宗ではあるが、母方が真宗なので、門徒ならみな唱えられる「正信偈」をあげさせてもらった。司馬さんは民衆の宗派としての浄土真宗を、支配層の宗派としての側面も持つ真言宗と比較する。
「真言宗にあっては大日如来を宇宙の中心とし、阿弥陀如来はその一表現にすぎない。階級でいえば大日の家来が阿弥陀ということになるだろう。(中略)が、門徒ーつまり親鸞を宗祖とする本願寺の浄土真宗にあっては、まるでちがう。阿弥陀如来こそ、宇宙の主役であり中心であり、それどころか宇宙そのものであり、他の仏は居ない。大日も観音も地蔵も、家来どころか、存在もしないのである。いわば一神教であった。」
そう、一神教的な宗派であるから阿弥陀如来のもとにみなが結集し、世俗勢力である家康だけでなく、信長にまで反抗しえたのが一向宗門徒たちだったのだ。こうした門徒たちから構成される三河衆であるから、
「この当時すでに 三河衆一人に尾張衆三人。ということばすらあったほどで、尾張から大軍が侵入してくるときも、三河岡崎衆はつねに少数で奮戦し、この小城をよくもちこたえた。守戦でのつよさではかれらは天下無類という不思議な小集団であった。」
と司馬さんがいうように、命知らずの軍事集団が形成されていったのも不思議ではない。
三河気質→日本人気質?
ところで家康の家である松平家は、奥三河の土豪であるが、詐称して源氏の子孫ということにした。司馬さん曰く、
「家康はこのころ、ー自分は源氏の流れを汲んでいる。と称しはじめていた。むろんたしかな根拠のあることではなく、そう私称していたにすぎない。その私称をいわば公称にするために「勅許によって改姓した」という手続をふんだ。三河松平郷の土豪あがりの氏素性も知れぬ出来星大名、というのでは、足利将軍に拝謁したり御所へ参内したりする手前、体裁がわるいとおもったのであろう。」
このように、落ちぶれたとはいえ将軍家に拝謁しようと考えるのは、いかにも「三河人的」なのかもしれない。「腐っても鯛」ではないが、とりあえず名家は名家である、という中世的感覚を持ち合わせていた家康は、信長よりも一回り若い割には古いタイプに思える。司馬さんも言う。
「将軍を擁立しようというほどの熱意をもつ大名は、一つの点で共通している。名家意識である。例:越後の上杉輝虎、薩摩の島津、(中略)そこへゆくと、織田家はどうか。数代前は越前から流れてきた神主にすぎぬというのではないか。」
尾張の都会人である信長は出自は気にしない。しかし三河の田舎者である家康はそうはいかない。このような感覚が中世の室町幕府が倒れてから新しい幕府ができてからも、近世的な信長風になるのではなく、かえって復古的になっていった。そしてそれが全国に波及し、その後のまじめで保守的な日本人気質を生み出したと考えると極めて興味深い。
秀吉と尾張中村
新幹線からJRセントラルタワーが見えてくると、じき名駅(めいえき)すなわち名古屋駅についた。駅の西側が太閤通り口である。さっそくこの町の生んだ英雄、秀吉に関わる通りを目にすることになった。この通りを西に2㎞あまり進み、中村公園駅で北を目指すと、駅名と同じ中村公園につく。「尾張中村」というのは秀吉が「日吉丸」時代に育った故郷ということは小6のころから伝記を読んで知っていたので何やら懐かしい。公園内には名古屋市秀吉清正記念館がある。そう、中村は加藤清正の故郷でもあったのだ。
秀吉という人物も陽性なようでとらえどころがないが、司馬さんによれば、書物の勉強はともかく若かりし日々の放浪生活で培ったたたき上げの観察眼がその後の彼を作りあげたことが分かる。例えば駿河や遠江を放浪しているときの彼の所感はこんな感じである。
「なるほど駿遠領国は、いい土地である。冬は暖に、夏は涼しく、日光はあふれ、野の物成りがよく海に幸が多い。」
この部分などは年末にここを訪れた裏日本人としての私の感想とまったく一致する。しかし彼のこの後彼の人間観察、社会観察の目の鋭さが発揮される。
「(おもしろい土地だ)と思うのは、小規模(こやけ)農家でさえ農奴をつかって旦那然と暮らしている。その農奴は北方の貧国甲斐からきた者が多い。戦さは三河兵にさせ、田仕事は甲州人にさせているとはなんと怠惰なことであろう。(なるほど環境にめぐまれすぎてはいる。しかしひとたび他国の兵の侵入を受けたならば駿遠の武士は必死に働くかどうか)
猿はそんな目でこの国を見ていた。」
この部分を見て、あたりを見回した。令和の静岡県は工場労働者はブラジル人、農村ではベトナム人に農作業させているではないか。ホテルではネパール人や中国人が大活躍だ。外国人労働者に頼るのは静岡県だけではなくこれは日本中がそうなのだ。そしてひとたび他国の兵の侵入を受けたならば私たちは必死に働くだろうか。そして駿府ではさらに興味深い人々に目がとまったようだ。
「駿府では、美少年が多い。町を、華麗な小袖をきた美童があるいてゆく。理由がある。今川義元の好みであった。この京都文化の心酔者は、京都におけるあらゆる知的文化を駿府に導入することに熱中し、ついには京に淫するあまり、こういう嗜好までひき入れてしまった。」
これなど、欧米などから本来人権問題であったLGBTQという概念が鳴り物入りで輸入され、広まっていきつつある令和の日本そっくりであるが、司馬さんは秀吉の観察眼の鋭さをこのように想像している。そして「猿」呼ばわりされていた彼にこう言わせている。
「いやさこの世は、いわば長い狂言の場ではありますまいか」
この世は長い狂言の場。波乱万丈の彼の人生、そして死後の豊臣家のたどった道を思うと、狂言として笑い飛ばす以外になさそうな気がしてくる。
あくの強さが名古屋気質
名古屋はいわゆる「観光地」とは異なる。東京や横浜や大阪や京都や札幌が「観光地」としての側面をもっており、少なくとも観光目的にこれらの大都市を訪問することはあっても、半径100㎞以上離れた地域の人が観光目的で名古屋に行く人があったとすればよほどのマニアックな趣味があると思って間違いない。しかし一大都市としての風通しのよさは感じられる。町が明るく豪勢なのだ。私にとって桃山文化がもっとも息づいている大都市といえばこの町をまず思い浮かべるほどだ。
「尾張名古屋は城で持つ」というが、戦災で名古屋城を焼失し、敗戦を迎えた後に市民が真っ先に考えたことが、天守を耐火性のあるコンクリートで再建することだったという。目にも豪華な金のしゃちほこを頭に頂いた天守を再建することで戦後復興を実感し、それを見ながら中京工業地帯の中心地として日本の高度経済成長を牽引していったのだろう。平成にはそれにも勝る豪華絢爛な本丸御殿群を木造で復元し、さらに令和に入ってからは市長が先導して耐震基準を満たさないコンクリート天守を、焼失前の木造で復元しようという。市長だけでなくそれを支える市民のあくの強さを感じずにはいられない。
味噌カツ、味噌煮込みうどん、ひつまぶし、手羽先、あんかけスパ、天むす、台湾ラーメン、モーニングなど、平成期に「なごやめし」と呼ばれるようになった一連の料理群も、地味さがなくインスタ映えするうえに食べ応えがある。あっさり、さっぱりしたものよりこってり、がっつりした食文化が似合う大都市として大阪に肩を並べられるところはこの町しかないかもしれない。そんなことを考えながら司馬さんは信長に仕官してからの「猿」つまり秀吉の心境をこう描いている。
「織田家の家風が陽気なせいか、例の鬱し顔も影をひそめ、年中罪のない法螺を吹いている剽軽者として長屋の人気者になった。猿の人生は一変したといっていい。」
ベターっとした中世からサラッとした近世へ
生まれ育った尾張の信長に仕えた秀吉はまさに水を得た魚のように力を発揮していった。あの信長の懐にもぐりこんだだけでなく、基本的な価値観においてウマが合ったのは彼だけかもしれない。司馬さんは秀吉と信長の用兵の仕方についてこう語る。
「猿は戦さの玄人という連中のあたまが疑わしくなった。何の思慮分別もなく、勇気と運だけに頼って戦さをしているようである。同じ侍でも美濃人のほうがはるかに芸と工夫がある。(中略)信長は、(尾張者は頭脳で戦さをしようとはしない)という自国の通弊を知ったであろう。」
地勢に恵まれた尾張の明るい空気では軍略家は生まれ育たないと二人とも思っていたのだ。
信長にとって舅となる斎藤道三が息子に殺され、弔い合戦として信長が美濃攻略を行った際、先鋒にあった家来の一人が秀吉だった。そして司馬さんによれば信長に軍略の大切さのヒントを与えたのが秀吉だという。
「信長は、こんどの侵攻こそ成功すると思ったのは、以前に施したことのない要素を、こんどの作戦に加味してあるからであった。過去二十年、織田方は美濃を純軍事的に攻めた。このたびは、猿の働きによって謀略の手を施してある。「調略」と、この当時の言葉でいうべきであろう。(中略)しかしこの調略家の信長でさえ、調略を大規模に用いはじめたのはこの永禄十年の美濃攻めの前後であった。つまり、藤吉郎の登用と時期を同じくしている。藤吉郎のいうことに耳を傾けたということである。
確かに秀吉(藤吉郎)のその後の城攻めのやり方を見ると、土木工事によって備中高松城を水攻めしたり、事前に米を買い占めて鳥取城や三木城を飢餓状態にする兵糧攻めなど、正面から正々堂々と「純軍事的」にはぶつからない。そしてその効用を認めたのがプラグマティストの信長であった。
また、秀吉の信長に対する思いが当時の主従関係とは全く異なっていたという司馬さんの観察が実に興味深い。褒美として加増されたときのリアクションはこうである。
「殿様に、御損をかけた。倍の千貫はかせぎとらねばならぬ」猿はさかんにそれをつぶやいた。侍の常識からみればひどく滑稽な思想であった。ふつうの家士なら功名をたてて禄を得ればそれだけで侍の名誉をあげたとして自足するところである。そういうことで主従関係は成立している。猿はこの点、侍ではなく、あたまから商人であった。新恩を頂戴して信長に損をかけたという。損をかけた以上、敵地を切り取り、切り取る以上すくなくとも千貫切り取り、信長の出費を零にし、残る五百貫分だけ信長に儲けさせねばならぬ、という。(中略)いや、この発想法は信長の影響によるものかもしれなかった。(中略)家柄や門地に一文の価値もみとめず、自分に儲けさせるものを好む。」
他の家来たちが「(株)織田信長」に就職した正社員とするなら、彼はその会社に外部のコンサルとして、あくまでクライアント的に付き合い、会社の発展に尽くそうとしているかのようなのだ。そしてそんな発想は信長の影響かもしれないという。「主従関係」というベターっとしたものが中世的とするならば、信長も秀吉も個人事業主として大企業とサラッと付き合うかのようである。
勇壮豪快でありながらサラッとした人間関係。この商人気質が中世を終わらせ、近世に突入していったかのようだ。そしてその始まりはこの尾張名古屋だった。
秀吉と竹中半兵衛「七顧の礼」
信長の美濃攻めで活躍した秀吉が、美濃の軍師竹中半兵衛をリクルートしたことについて、司馬さんはこのように述べている。
「あの男をわが家来にしたい」といってそのころすでに織田家の武将になっている木下藤吉郎秀吉を美濃菩提村にゆかせ、さんざんに口説かせたのはこのあとである。藤吉郎は(中略)六度とも半兵衛にことわられた。信長の直臣になるということではない。藤吉郎の参謀になる、という契約である。
繰り返しになるが秀吉の発想は、自分は「(株)織田信長」の正社員というより外部コンサルであり、クライアントである信長を儲けさせるためにヘッドハンティングした相手が竹中半兵衛だったというのだ。しかも三顧の礼どころか六回も断られたというのだから「七顧の礼」というべきであろうか。
岐阜駅前の信長と「岐阜」の命名
岐阜駅についた。駅前広場で8mの台座の上にそびえる3mの黄金の銅像が目に突き刺さる。例えば小田原駅裏の北条早雲、静岡駅前の徳川家康と今川義元、甲府駅前の武田信玄、大分駅前の大友宗麟など、戦国武将を輩出した土地では駅前に銅像を建てるのが常である。しかしこの規模の黄金の銅像というのはここぐらいではないか。しかもマントを翻すハイカラぶりである。この町も名古屋のように派手好きか、と錯覚したがそうでもないらしい。
それにしても戦国の世にこの町を見下ろす金華山を拠点に美濃を統一した斎藤道三ではなく、尾張からやってきて岐阜で「途中下車」しただけで安土に向かった信長であるが、その程度の人物のこんな派手な銅像を立てるというのも異例かもしれない。
ロープウェイで金華山にのぼる。山頂の模擬天守からは真南に濃尾平野が広がり、北東の産地からは長良川がこちらに向かって流れてくる。「岐阜」という地名は彼が漢文学に精通した僧侶の発案の中から選んだものという。中国最古の王朝殷を滅ぼした周の都は現在の西安付近の岐山というが、それにちなんだと言われる。ちなみに「阜」というのは丘を意味する。信長はこの高い丘の上の城から眼前の山河を眺めては殷王朝を倒した周の文王に、後に室町幕府という旧体制を倒す自分を重ね合わせたのだろうか。
ちなみに文王は文字通り「文」を重んじたのに対し、信長は岐阜城時代から「天下布武」、すなわち「武」力をもって天下を平定するという意味の印を使用したという。
足利義昭と京都
岐阜城を拠点に「天下布武」を実行せんとした信長は、京都を追い出されて各地を流浪中の足利義昭を担ぎ、上洛を果たそうとしていた。ちなみにその時に両者を結び付けた功労者が明智光秀である。司馬さんの義昭に対する見方は、
「義昭は、中世的な最大の権威である『室町幕府の復興』ということのみに情熱をかけ、そのことにしか関心をもたない。この三十二歳の貴人はすでに生きながらの過去の亡霊であったが、信長は未来のみを考えている。」
と、手厳しい。それに対し、信長に対しては、
「この人物を動かしているものは、単なる権力慾や領土慾ではなく、中世的な混沌を打通してあたらしい統一国家をつくろうとする革命家的な慾望であった。(中略)かれは、政治上の変革だけでなく、経済、宗教上の変革までばくぜんと意識していたし、そのある部分は着々と実現した。」
と、極めて肯定的である。
信長のおかげで都に戻り、将軍の座に返り咲くことのできた義昭だが、自ら信長の傀儡にすぎないのではないかと気づく。そんな時京都守護を任せられていた秀吉の訪問を受けた義昭だが、身分の違いから会おうとしない。しかしそれで引き下がる秀吉ではない。
「この藤吉郎は信長の代官として京都守護をつとめる身。(後略)」すぐ鄭重に藤吉郎を通し、義昭はあたふたと上段の間に現れて座った。(中略)「信長は、容易ならぬ家臣をもっている」とつぶやいた。自然、光秀との対比が、何度も義昭の脳裏に去来したことであろう。」
おそらく秀吉も義昭を単なる過去の亡霊ではあるが、お飾りとしておけばまだ利用価値がある人物程度にしか思っていなかったのだろう。でなければ将軍に対してこのような高飛車な態度はとれないだろう。信長や秀吉のようなタイプにとっては「腐ったら鯛ではない」のだが、世の中には「腐った鯛」を大事にありがたがる連中がまだ多数だったのだ。
京都御所は保護した信長
京都御所は美しい。この御所も戦国時代には荒れ果てていたはずだが、ここを保全したのも信長だった。とはいえ、信長も信長で京都における天皇と将軍の関係がどのようなものか分かりかねていた。そこで都の庶民の気持ちを調べ上げた結果、将軍より天皇のほうが利用のし甲斐があるという結論にたどり着いた。司馬さん曰く、
「天子は戦さが強いか」と信長が聞くと、「天子は兵を用いられぬ。平素はただ神に仕えておられる」。(神主の大親玉か)という程度に信長は理解していた。ところが、こうして、都へのぼってくるたびに思うことは、都の者は、「将軍よりも天子のほうがえらい」ということを、ごく常識のようにしてもっていることである。これには信長も、思想を一変せざるを得ない。
彼自身が天皇を崇拝しているわけではもちろんない。天皇という、ある意味で足利幕府以上の「腐った鯛」をありがたがるのが京都の庶民たちであるならば、そちらを手厚く保護する。それで民心が把握できるなら安いもの。信長の思想はあくまで天下統一に利するか否かのプラグマティズムなのだ。とはいえ信長は
「ただ信長がおもうのは、(果たして天子が、日本統一の中核的存在になりうるかどうか)
であった。将軍ならば『武家の頭領』ということで大名はおそれかしこむ。しかし天子はどうであろう。『日本万民の宗家』というだけでは、人は恐れないのではないか。第一天子こそ偉い、という知識が、満天下の諸大名になければ天子の利用価値は薄い。(中略)(むしろ将軍館よりも、天子の御所を立派にする必要がある。それだけで一目、世の者は天子の尊さをしる)信長の発想はつねに具体的であった。しかもその思ったことをすぐさま実行するちからも、苛烈なばかりである。」
これまで信長のことを「合理主義的」と表記してきたが、漢字の誤りだったらしい。むしろ「合『利』主義的」と表記すべきだろう。なお、彼と全く同じ発想で皇室を保護した最新の例は、おそらくマッカーサーである。
比叡山焼討
足利義昭を奉じて上洛したものの、反信長勢力が包囲陣をはった。その中には北近江の浅井、越前の朝倉等の大名だけでなく石山本願寺や比叡山延暦寺などの寺社勢力もあった。その後、最悪の被害をもたらしたのが、浅井・朝倉の落人をかくまった比叡山の焼討であった。それまで寺社勢力は仏罰を恐れる中世型の大名から保護されることはあっても攻撃されることはまずなかった。ましてや全山焼き討ちされることは想像すらできなかったはずだ。が、それを平然とやってのけたのが信長である。そもそも彼は十代で父親を失ったときにも、葬式についてこう考えている。
「何の役にもならぬものに熱中し、寺に駆け入り、坊主を呼び、経をあげさせてぽろぽろと涙をこぼしおる。世の人間ほどあほうなものはない」
司馬さんはこうした信長の「無神論」についてこのように書いている。
「『この池には主がおります。大蛇でございます』と、土地の年寄り衆が説明した。(中略)かれはそういう『目にみえざるもの』というのをいっさい否定し、神仏も人間が作ったものだ、左様なものは無い、霊魂もない、『死ねば単に土に帰し、すべてがなくなるのだ。ただそれだけだ』という世にもめずらしい無神論をつねづね言っていた。」
19世紀のマルクスは宗教を「アヘン」とする唯物論的無神論を唱えたが、その数百年前に信長はすでに唯物論的無神論者だったのだ。それでも仏罰を恐れる人々に対してこう言う。
「木は木、かねはかねじゃ。木や金属でつくったものを仏なりと世をうそぶきだましたやつがまず第一等の悪人よ。つぎにその仏をかつぎまわって世々の天子以下をだましつづけてきたやつらが第二等の悪人じゃ」(中略)汝(うぬ)がことごとに好みたがる古きばけものどもを叩きこわし擂り潰して新しい世を招き寄せることこそ、この弾正忠(信長)の大仕事である。そのためには仏も死ね」
宗教を隠れ蓑にして人々をだましてきた輩は今なおいるので分からないではないが、ここまでくれば文化大革命である。小6のころの私は無邪気に信長の破天荒さに憧れたが、そのころからすでにこの「仏も死ね」という発想にはそのころからついていけなかった。秀吉も皆殺し令を出されたにもかかわらず非戦闘員の逃亡には目をつむったという。ちなみに秀吉にとってライバルでもあった明智光秀は、焼討に関して信長をいさめたと言うが、焼討後には延暦寺の所領を褒美として受け取っていることから、どう動いたのかはっきりしない。
「出世大名家康くん」の銅像
浜松駅を歩いていると、小さな金色の銅像を見つけた。浜松市のゆるキャラ「出世大名家康くん」の像である。それにしても小さい。90センチの台座にわずか60センチ、つまり大き目のぬいぐるみサイズである。大名の銅像がこのようなゆるい形で据えられている例も珍しいが、出来栄えは岐阜駅前の信長とは比較にならない。そもそも「家康」に「くん」をつける時点で権威はなく、親しみのみ感じさせる。
「出世大名」とはどういう意味か。浜松城を経て将軍になった家康は別格だが、例えば天保の改革を指揮した老中水野忠邦のように、江戸時代に浜松城主になった後は幕閣に加わるケースが多かったことから、縁起を担いで作られたキャラである。ちなみにちょんまげは浜名湖のうなぎをイメージしており、ピアノの鍵盤柄の袴は地場産業であるピアノ(ヤマハ、カワイ)を表している。総体的にみて、これは戦国大名としての家康を顕彰した像というより、キャラにこめた浜松市の名所や名物をPRするものとみるべきだろう。
このことからふと思った。この町は浜松城の城下町ではあるが、人々の間にいったいどれぐらい城下町意識があるものだろうか、と。
実直なものづくりのまち、浜松
家康は1570年、故国である三河の岡崎城からここに本拠地を移した。その時の家康の戦略について司馬さんはこう描いている。
「『気でも狂いなされたか』と、みな言いさざめいた。(中略)遠江は手に入れたばかりの領国で、本国の三河からみれば植民地にすぎない。というのに、徳川圏の首都岡崎を廃して遠江の浜松にそれを置くとはどういうことであろう。(中略)『浜松は、敵に近い』と、家康は言った。敵は東のほうの駿府からくるのである。この敵をふせぐためには最前線に指揮所をもつべきだというのである。」
石橋を叩いても「渡らな」そうな家康にとって、これは極めて大きな方向転換である。しかし桶狭間の戦いの後、尾張の信長は西へ西へと上洛を目指す一方、東隣りの三河の家康が目指すべきが東へとなるのは必然であった。桶狭間の戦いから二年ほどたつと、織田・徳川連合軍を生み出す「清洲同盟」が締結された。以降、家康の行動は常に信長の意向に振り回されることになる。ならばこの浜松の町も、豪華絢爛で派手好きな「信長マインド」でも残されているかと思うとそうでもなさそうだ。司馬さんは述べる。
「家康は信長の同盟者として信長に運命を託し、終始信長に引きずりまわされ、それほどに深い縁をむすんだわりには家康はついに信長の好みや思考法はまねず、(中略)秀吉に対してもおなじである。(中略)内々の場で家来たちにひそかに洩らす言葉は、秀吉のあの派手なやりかたに染まるな、ということであった。たとえば茶の湯がそうであろう。」
浜松は実直な街である。この町とその周辺が生んだ世界的企業のそうそうたる顔ぶれがそれを証明している。先述したヤマハやカワイだけでなく、自動車産業ならホンダ、スズキ、そしてお隣湖西市はトヨタグループの創業者豊田佐吉を生んでいる。人口規模からすると日本一地に足の着いたモノづくりの町といっても過言ではない。
中途半端な模擬天守でもかまわない浜松城
町はずれの三方原台地の隅に築いた浜松城を訪れた。東に遠州の大河、天竜川の激流が城下町を守る。名古屋城のような大きな天守はないが、石垣は城郭マニアもうなる野面積みの積み方が荒々しい。天守台に近づくと、「天守門」なる復元櫓門があるが、そこから除く模擬天守には違和感を覚えざるを得ない。天守台よりも模擬天守のほうがはるかに小さく、サイズがあっていないのだ。実に中途半端な感じである。
戦時中の浜松はモノづくりの町が災いし、軍需工場も密集していたため、またサイパンなどから関東、関西に飛来した米軍の爆撃機が最後にこの町に来て残った爆弾を投下され、さらに艦砲射撃まで受けたこともあり、この町は灰燼に帰した。
戦後1958年に城址公園として整備しなおし、模擬天守を建設した際、「台所事情」もあって天守台よりも3割ほど小さめに造らざるを得なかったという。ほとんどの城下町の住民ならばこんな中途半端なことはしない。城は住民のこころを反映する鏡でもあるからだ。それにしても天守というその町の「顔」ともいうべき建造物をそれほど立派にしないのは、この町の人々に城下町気質がさほど浸透していないからだと思う。むしろモノづくりを通して実直に稼ぐという道を歩ませたのは、家康的な嗜好かもしれない。司馬さんはいう。
「家康とその三河侍の集団は豊臣期の大名になっても農夫くさく、美術史で分類される安土桃山時代というものに、驚嘆すべきことにすこしも参加していない。かれらには他の大名を魅了した永徳も利休も南蛮好みもなにもなく、自分たちの野暮と田舎くささをあくまでもまもった。」
そういえば資料館になっている模擬天守の内部や浜松市博物館を見学しても、名古屋城本丸御殿のような豪華絢爛な常設展示物はほぼ見当たらなかった。むしろ司馬さんは家康の嗜好を次のようにまとめている。
「家康は味方の信長からまなばず、敵の信玄に心酔したところがいかにも妙で、三河者にとっては、商人のにおいのする尾張者よりも、おなじ農民のにおいのする甲州者により親近の思いがあったのかもしれない。」
同盟国の気風よりも敵対国のそれになじんだという点が実に興味深い。今の日本でいうと、米国の民主主義・資本主義よりも中国古来の徳治主義・農本主義が保守層の体質にあっており、人前で気の利いたメッセージを残す場合も、英語でスピーチをするより和紙に筆と墨で故事成語をしたためるようなものかもしれない。
三方ヶ原の戦い
しかもこの敵対国甲州者のカリスマ、武田信玄には人生最大の敗北を三方ヶ原で喫している。浜松築城のわずか三年後、武田軍は風前の灯火だった駿河の今川勢を蹂躙した勢いで、上洛すべく遠江にまで侵攻してきた。織田徳川連合軍に対する攻撃ではあるが、矢面に立たされたのは徳川がほとんどだ。司馬さんは述べる。
「このとき、戦国期を通じて稀有といっていいほどの律義さを発揮した。信長との同盟を守り、信玄と戦い、自滅を覚悟したほとんど信じられぬほどのふしぎな誠実さであった。」
はたして律義さのみで家康は動くだろうか。しかも同盟国とはいえ親分格の信長は冷たい。
「信長は、別の立場をとった。(中略)信長にすれば、進んで戦ったところで、負けることは負ける以上、士卒の損害だけがむだであった。三千の援兵派遣は、家康への義理立てだけにすぎない。」
まさに四面楚歌のなかを戦国最強の武田の騎馬隊に蹂躙されることを知りつつ立ち上がった健気なこの青年武将を、司馬さんはこう分析する。
「家康というこの人間を作りあげているその冷徹な打算能力が、それとはべつにその内面のどこかにある狂気のために、きわめてまれながら、敗れることがあるらしい。彼は全軍に出戦の支度をさせた。(中略)
ちなみに信長や秀吉と比べると、彼は負け戦を何度も経験している。司馬さんは
「この時代の名のある将のなかで家康ほど敗走の経験の多かった者はない。」
と述べている。浜松城の北方一キロに、台地の地形を利用した犀ヶ崖(さいががけ)という断崖絶壁がある。この古戦場に建てられた三方ヶ原の戦いの資料館に行ってみた。史実かはさておき、人形で合戦の様子がパノラマのように繰り広げられる大ジオラマが圧巻である。一方、戦没者を供養する「遠州大念佛」なるお盆行事の展示を見て気づいたことがある。禅宗や密教を信奉する他の名だたる戦国大名と異なり、家康は極楽往生を目指す浄土信仰の持ち主であったことを。
じわじわとしみいる合理性
だが、この行事が死者の極楽往生を祈るものであることが示すように、徳川軍は完敗であった。命からがら逃げ伸びて浜松城に戻った家康の心境を、司馬さんはこう述べる。
「この間の家康の苦痛がいかに大きかったかということは、かれは浜松城の奥にこもったきり、三日間決断をくださなかったことでもわかる。」
しかしいつまでもうじうじと悩んでいる家康ではない。立ち直りが早いのだ。
「家康は、物学びのすきな男である。(中略)かれはひそかに師を設定していた。それは甲斐のいまは亡い武田信玄であった。」
自分を完膚なきまでに倒した信玄を師として尊敬する。ある意味自分を超える人物から学ぶほうが上達も早く、またあの負け戦をいつまでも心に留めておくことで二の舞にならないようにするというのは合理的ですらある。そして司馬さんは家康に言わせている。
「自分は三方ヶ原で大敗けに敗けたが、この敗けがその後どれほど薬になったかわからない」
この種の「素直な合理性」は「合利的」な信長には見られない。日本刀でスパッと斬るような信長流の「合利性」と、じわりじわりと漢方薬のように体中にしみ込んでいく家康流の合理性は、似て非なるものだろう。
一乗谷の地味な衝撃
ここでしばらく「箸休め」に東海道を離れて、北陸は越前一乗谷を歩いてみたい。福井市一乗谷は朝倉氏の城下町であり、都の貴族たちを招聘して街並みを貴族風に改めた「元祖小京都」の一つと言えよう。このようなタイプの「小京都系城下町」は他にも今川氏の駿府や大内氏の山口などもあるが、現在街並みが200mにわたって推定復元されたところといえば一乗谷しかない。
静かな町で、2kmほどの細長い谷間に大きくはないが川が流れている。城戸(きど)の跡を通り過ぎ、しばらく進むと左岸に昔の街並みが復元されている。右岸には朝倉義景の時代の遺構が広がり、向かいの山は山城である。江戸時代のものらしいが唯一の建造物として夏草の中にぽつりとたたずむ京風の唐門が「兵どもの夢の跡」を物語っている。檜皮葺きのこの門をくぐると礎石がずらりと並び、館の規模をうかがわせる。足利義満の「花の御所」を思わせる建築だったという。
そして片隅には岩のかたまりがいくつか残っている。かつて朝倉氏たちが眺めたであろう石組だ。規模は小さいながらも風格を感じさせる。聞くと、足利義政の慈照寺庭園を模したものという。いかに京都の将軍家を意識していたかが分かる。
初めてここを訪れたときはここまで引きかえしたが、二回目にはつづら折りの坂を上って「湯殿跡庭園」を目にしたときには足が震えた。岩の荘厳さ。迫力。かつて岡本太郎をも震えさせたというこの庭の無言の凄味を十分に堪能した。同時代の京都の庭園でここまで気迫あふれる岩はあっただろうか。しばらく思い浮かばない。ここは復元ではなく、長い間土に埋まっていたのを掘り起こしたものというから、まさに朝倉義景らが将軍たちを接待して見せたところに違いない。
奔走する「志士」明智光秀と一乗谷
この小京都にしばらく草鞋を脱いではまた履いて去っていった戦国時代有数の文人武士がいる。若き日の明智光秀だ。清和源氏の後裔、美濃土岐氏の血筋を引き継ぐというが定かではない。福井方面から町に入る手前に、若かりし日の光秀が住んでいたという。この美濃人は「裏切り者」の烙印を押され過ぎたせいか、まともにその功績を見ようとしない傾向にあるようだが、司馬さんは彼をしてこう評している。
「この、武士としては史書や文学書を読みすぎている男は、たとえば諸葛孔明のような、たとえば文天祥のような、そういう生涯を欲した。(中略)この男を、どう理解すればよいか。自分の生涯を詩にしたいという願望は、つまりそういう願望を持つ気質は―男の中では、志士的気質というべきであろう。」
「修身斉家治国平天下」という言葉が「大学」にある。学問をして身を修め、それを一族に、そして国中に波及させれば天下泰平となる、つまり学問の意味は天下泰平にあるのであり、逆算すれば天下泰平の世を望むなら学問で身を修めよ、ということになる。光秀にとって学問とは天下泰平のためにあると司馬さんは考えているのだろう。さらにこうも言っている。
「この男は、「奔走家」という型に属する。余談だが、後世ならこの種の人物は出てくる。とくに徳川末期がそうである。(中略)戦国中期にあっては、志士・奔走家といえる人物は明智十兵衛光秀しかいない。」
司馬さんから見れば、下馬評では「裏切り者」にすぎない光秀こそ、時代が異なれば吉田松陰や高杉晋作、吉田松陰と並ぶような「志士」なのだという。確かに彼は、学問はあっても仕官先はない一介の素浪人であった。しかし結果的に朝倉家、足利家などを転々としながら織田家に落ち着くことになった点を見れば、「奔走する志士」である。朝倉家のような旧態依然とした中世そのままの大名に仕えながらも、彼自身は中世と近世の狭間に立ち、新時代を注意深く観察している。だからこそ上洛を急いで朝倉に頼ってきた流浪の将軍候補足利義昭を、主君に敵対する信長につなぐなどということができたのだろう。
「資本主義的戦争」を行う信長・秀吉ライン
また彼はいつでも自分を「士」として迎えてくれる人物がいないか探しているように思える。例えば織田家が近江を席巻しているのを見て、司馬さんは彼に
「芸がほろび、素人風のやり方がいい時代になったのかもしれない」
と言わせている。「兵法」に従って「やあやあ我こそは」と名乗りを挙げつつ「物理的」に戦うよりも、情報戦や新兵器などを積極的に活用する信長は、兵法の素人かもしれないが、光秀はそんな彼を嫌ってはいない。主君と肌は合わなくても、時代の移り変わりはそれなりに受け入れているようだ。また、近江攻略で大津を支配下におこうとしている信長を見た光秀はこうも言う。
「大津には、物と銭があつまる」(中略)(なるほど運上金⦅商品税⦆をとるためか)と、光秀は、信長の着眼のよさにうめくおもいであった。(中略)(信長の生国の尾張が、熱田のあたりを中心に早くから商いがさかんだったせいでもあろう。(中略)米でしか勘定のできぬ大名とちがい、信長は金銭というものを知っている)
刀や弓矢で純軍事的に戦うのではなく、貨幣を、経済をおさえることで敵を圧迫する「資本主義的戦争」を行った最初の日本人が信長であり、それを全国に展開したのが秀吉だったと考えてほぼ間違いないだろう。
ところでこの「資本主義的商人気質」の信長・秀吉ラインに対して光秀は決して反対はしないし純軍事的に攻めるだけの力も持っていない。あくまで傍観者である。司馬さんは信長のもとでこの二人がどうリアクションを取るか対比しながら描いている。
「やがて光秀が参上した。『数えろ』と信長はいった。癖で、言葉がみじかい。その信長の言葉癖を理解するにはよほど機転のきいた男か、よほど古くから近侍していなければわかるものではなかった。光秀はとまどった。」
ここでは「ツー」といっても「カー」と響かない光秀の勘の鈍さを描いている。この文はこう続く。
「たまたまそこに居合わせた木下藤吉郎秀吉が小声で光秀にささやき、『拝謁の礼式をでござる』と、たすけ舟を出してくれた。この藤吉郎という小者あがりの高級将校は、どういうわけか信長の叫び声が理解できるようであった。『十兵衛、聞こえぬか』と、信長はもういらいらしていた。」
陽気ではないが民政にたけた光秀
光秀は家格は高く学問もあるが勘が鈍い。一方、秀吉は180度対照的に描かれている。司馬さん自身が臨機応変に「ボケと突っ込み」をかまし、ひょうきんな一面を持つ大阪人であるからか、秀吉のこういうところが司馬さんごのみなのだろう。また光秀を評して曰く、
「光秀は謹直な男だが、陽気さがない。(中略)時勢の人気に投じ、新しい時代をひらく人格の機微は、人々の心をおのずと明るくする陽気というものであろう。」
このくだりを見て思い出したのが、幕末の志士でダントツに陽気に描かれている坂本龍馬である。いや、先ほど光秀を戦国唯一の「志士」として評したのではなかったか。確かにそうであろうが、志士は志士でも「陽性の志士」こそ新しい時代を開くというわけだ。それは信長にも家康にももちろん光秀にも不足しており、ただ秀吉のみが持ちえたキャラクターだった。
とはいえ司馬さんも光秀を認めないわけではない。乱世に必要とされるタイプが志士なのだろうが、彼は平時のほうがむしろ向いていたのかもしれない。一乗谷が陥落したあと、この地を一時任せられた光秀をこう評している。
「占領地司政官としての光秀の評はよかった。この男の才能の第一は、民政の能力であるらしい。かれが朝倉家にいたころに彼をいじめた連中も、いまとなってはひざまずいて自分の窮状を陳情しに来たが、いずれもこころよく応対してやった。」
少なくとも信長と比べると、なかなかハラのある人物に思えてくるではないか。
華やかながらも質実剛健な一乗谷
一乗谷に県立博物館がオープンした。その名も「朝倉氏一乗谷遺跡博物館」である。最大の見ものは先ほど歩いた礎石の上にあったはずの館(やかた)の内部が原寸サイズで復元されていることである。足利義昭が朝倉義景を頼ってきたときにここに座って三日三晩の宴会をしたのだろう。そして隣接地の中庭には花壇がある。花壇はこの時代最先端の南蛮文化のはずだ。かつて蝦夷地にまで輸出された濡れると青く光る地元の笏谷石(しゃくだにいし)で囲いをしたその花壇の中には、越前和紙で本物そっくりに作られた草花が「植えられて」いる。朝倉氏が京都のみならずその向こうの南蛮文化にまで精通していたことの証拠だろう。
資料館ではさらに明や欧州の舶来品まで展示されていて、グローバルでダイナミックな桃山時代の息吹を感じさせる。質実剛健を旨とするだけの三河者の家康とは大違いである。しかし地形のジオラマを見ると、山に囲まれた細長い盆地が上下の城戸で閉じられており、まるで巾着のようである。三方を山、南方を遠浅の海で囲まれた鎌倉を想起した。
さらに復元された街並みに見た数多くの笏谷石製の井戸は、この谷間がいかに水資源に恵まれていたかの表れであり、籠城に適していたかが分かる。朝倉氏は九州から蝦夷地をむすび、京都につながる日本海航路の要衝である三国や敦賀の港町をおさえていた。これで得た莫大の利益をもとに、桃山風にして京風の文化を取り入れてはいても、ここは町中が臨戦態勢である武家の町なのだということに気づかされる。とはいえ一世紀にわたって続いたこの町の繁栄は信長によって文字通り一晩にして灰燼に帰した。
敵対した朝倉義景と、自分を裏切って朝倉方についた近江小谷城主にして、妹お市の方の夫でもある浅井長政。この二人を信長はどうしたか、想像するだに精神の異常をきたしそうだ。「敵に対しては、たとえば朝倉義景・浅井長政の頭蓋骨を細工して酒杯にこしらえさせるほどに憎悪の深いこの男」と描いている。もっともこれに続けて「が、自分が庇護すべき庶民に対してはそれとおなじ奥深い場所で憐れみを感ずるたちであるらしい。」とフォローはしている。二重人格なのだろうが。もちろん敵将の頭蓋骨の漆塗りは敵に対する尊敬の念だという意見もあるのだが、それにしてもまともな精神構造とは思われない。
信長のこのような極端に残忍な性格が光秀に謀反を起こさせたという通説には基本的にその通りと思わないではいられない。
まっすぐな石畳の安土城
初めて安土城跡を訪れたときは18歳、自転車で関西を放浪しているときだった。夕暮れ時に安土につき、そのまま城跡で野宿をした。翌朝早く城跡を散策したのだが、当時はまだ「城郭リテラシー」がさほど高くなかったのか、小6のころから憧れてきた人物の墓参りを済ませたことぐらいしか覚えていない。
それから四半世紀ほど過ぎ、旅友たちと連れだってこの城を再訪した。その間、標高200m弱の山全体が特別史跡として整備され、生まれ変わっていた。城としての建造物が皆無であるにもかかわらず、入場料は700円だった。このような例は寡聞にしてしらない。歴史の教科書やドラマによる知名度の高さで「ブランド化」されている気もしたが、改めて入城すると驚いた。目の前にずーっとまっすぐの石畳の道が伸びていくではないか。城郭というのは曲がりくねった道にすることで見通しを悪くし、守りやすくするという機能があるのだが、その常識を覆している。
そしてその両側に家臣団の屋敷がその位に応じてひな壇のように連なる。どこかに似ていると思ったら国会議事堂の丘のふもとに関係省庁がずらりと並ぶ、あの姿そっくりだ。そういえば司馬さんも言っていた。
「家来たちを城下に常住させ、その知行地の行政や徴税は織田家の奉行が執行する。(中略)すべての土地と人民は、信長の直接支配におかれていた。いわば封建体制というより、中央集権制であった。」
これを視覚的に最も分かりやすくしたのがここからの眺めなのだろう。
信長×秀吉=取引関係>主従関係
18歳のころはこんなところを軽々と登ったのだと、自らの老いを嘆きながら胸突き八丁の石畳をハアハアいいながら登る。この石畳はやはり南蛮渡来のものだろうか。正面上にそびえる「事実上」日本初の本格的大天守の上階は赤、青、金、黒、白と豪華絢爛な見栄えだったはずだ。さらに信長はここをたまに一般人に有料で開放していたという。軍事基地であるはずの城郭、特に天守を権威の象徴としたのが信長や秀吉であるというのが通説だろうが、信長に至ってはそれを観光地化までしたのだ。そしてそれを見た人はその素晴らしさを吹聴したはずで、いわば信長の権力の大きさをタダで拡散してくれる、今でいうとSNSのような働きを期待していたに違いない。
途中、秀吉の屋敷とされる表示があった。パワハラ上司とも思われがちな信長だが、実は秀吉とは親戚の間柄だ。信長の四番目の息子、於次丸を養子に迎えたいという秀吉の願いを聞き入れたときの司馬さんの心理描写が面白い。
「猿という世にもえがたい家来をよろこばせ、鼓舞させ、今後いよいよ働かせてゆくのに、これほど廉(やす)いほうびはないであろう。廉いだけでなく、よくよくおもえば信長にとってはとほうもなく利益をよぶ取引であった。信長の発想点は、つねに取引きである。(猿もそうだが)」
つまり少なくともこの二人にあっては、表面上主従関係を取り繕いながら、実は取引きだったのだと司馬さんは考えるようだ。
アフリカから来た家来
天守台についた。不等辺七角形という、ありえない形のこの天守台にあったはずのものは「天主」と表記される。例えば「天主教」といえばカトリックを表すので、南蛮趣味の秀吉が後に「日本史」を執筆したイエズス会のルイス・フロイスや天正遣欧使節をローマに派遣したヴァリニャーノ、あるいは安土城下に日本初の神学校「セミナリヨ」を開いたオルガンティーノあたりに西洋の天主堂について聞いた、吹き抜けの空間をイメージしたものなのだろう。
ところで南蛮好きの信長が宣教師から受け取った「プレゼント」があった。彼らがはるばる日本まで連れてきた黒人奴隷だった。司馬さんはこの「弥助」と名付けられ、正式に信長の家来として加えられた六尺の大男に対する信長の好奇心をこう記している。
「信長はそれを珍重し、武士に仕立てて身辺で使ったが、その黒人が献上された早々、信長は本当に黒いかどうかを試すために人に命じて洗わせ、それでも黒いとわかってはじめてよろこんだというほどに実証的な性格の持ち主であった。」
プラグマティスト信長の意識を支えるのは、自分が納得するまで実験し続ける点なのかもしれないが、彼の好奇心の強さとグローバルな考えも同時に感じられるエピソードだ。
豪華絢爛な桃山文化を再現した信長の館
坂を下って城跡を去り、田園の中にある「信長の館」という施設に立ち寄った。ここは安土城天主の上層部(五、六階)が推定復元されており、間近で見ることができる。なんだ、上層部だけか、とはじめは思ったのだが、よく考えると他の城の場合、天守の上層部は見上げることしかできず、間近で見る経験はできない。ユニークな見方を提供してくれる施設だ。朝倉館もそうだが、詳細が定かでない城郭建造物をコンクリートで作るのが昭和型なら、少し離れたところに、あくまで推定であることを前提に体験施設を作るのが21世紀型なのだろう。
ところで一向宗門徒を大虐殺し、比叡山を焼討したことから反佛教的に思われがちの信長だが、八角堂のような下層(五階部分)には極楽浄土とはかくもあらんと思わせる黄金の空間に如来をはじめとする諸仏が描かれている。そして上階には外壁のすべてに金箔が張られている。つまり法隆寺夢殿の上に金閣寺が乗せられたかのような格好なのだ。バランスのとり方の妙はさておき、これ以上ないほどの豪華絢爛さである。これぞ家康が「尾張者の気風に染まるな。」と戒めた桃山文化の極致であろう。
生涯ただ一度の物見遊山
信長がこの安土を拠点として東奔西走した期間は実は1年に満たない。ただこの城が何者かに燃やされる直前、宿敵武田氏を家康とともに破った信長は、1582年5月に生涯ただ一回の「物見遊山」をしたと司馬さんはいう。
「信長のこの凱旋旅行の期間は、わずか十一日間でしかない。四月二十一日、ぶじ近江安土城に帰ったが、かれの多忙をきわめたその生涯のなかでこの十一日間は唯一の遊覧旅行であった。」
その行き先は富士見物であった。そしてそれを導いたのが家康だった。司馬さん曰く、
「富士は東海道の駿河路から見るのがもっともうつくしいであろう。それが古来の定評でもあった。(中略)『ぜひ、この機会に駿河路にて富士をご覧あそばしますように』と、家康が信長の陣屋へゆき、かれのほうから乞うた。駿河はかれの新領土なのである。」
と、家康が招待したことになっている。三河までは足を延ばしたことはあっても、尾張人の信長は意外にも富士山を拝んだことはなかったのだ。初めて見る霊峰富士に感動した信長は接待してくれた家康に心から感謝したという。
「信長が、家康の居城浜松城にとまったときはもはや感謝の言葉も尽き、『徳川どのにどういう返礼をしてよいか、これは思いまどう』と言い、とりあえず黄金五十枚を謝礼として置き、さらにかつて信長が武田勢との対戦の用意のためにこの地に貯蔵してあった兵糧米八千余俵を、接待のために奔走した徳川家の家来への礼として送った。」
この男がここまで喜びを表すこともない。そして形式上信長から駿河を「拝領」したため、お礼参りに来たのがこの安土だった。城が焼け落ちるわずか半月ほど前だった。
そして家康の接待を命じられたのが明智光秀である。今は一面の田園地帯ではあるが、この安土の町が最も輝いた年は、この1582年だったことに間違いはあるまい。
本能寺の変が起こった場所はどこか
安土で家康を接待する饗応係としての光秀はすぐにお役御免となった。中国地方の毛利を攻める先鋒隊として送られていた秀吉からSOSがきたため、援軍の将として派遣されることになったからだ。その後を追うようにして信長は京都にむかい、本能寺に逗留した。これについて司馬さんはこう述べている。
「信長自身は、つねに寺で泊まった。(中略)信長の経済感覚が、そうさせているようにおもわれる。建物は建造費もさることながら維持費が大きい。いささかの金でも天下経略のためにつかおうというこの合理主義者にとっては、無用の費えであった。そのかわり、本能寺を大きく城郭式に改造している。」
本能寺といえば14歳の時の修学旅行を思い出す。その時の京都でのホテルが「本能寺会館」というところで、まさにあの有名な本能寺の隣接地だったからだ。もちろん信長の時代のものはその時焼失し、その後も何度か焼失していたことは知っていたが、翌朝の明け方こっそりと単独行動でお参りし、線香をあげたものだ。大人になってから知ったことだが、信長時代の本能寺の位置は現在の位置からみて西南西1㎞あまりのところにあったというが、周囲の高度より若干低く、規模もほぼ100m四方よりやや大きいだけで、攻撃されやすかったようだ。しかし京の都は信頼置ける家臣が守っているので、信長は安心しきっていた。そしてその家臣こそ明智光秀だった。あの信長でも人を信じ切ってしまうことがあったのだ。
信長と茶の湯
光秀の襲撃を受ける前夜、信長は本能寺で茶会を開いたという。実は彼は相当の茶の湯好きであり、司馬さんもこう述べている。
「信長は、連歌より茶を好んだ。文芸より美術趣味がつよかったともいえるであろう。(中略)信長の茶道好みは、体質的なものであろう。(中略)信長の好みが、時代に反映した。茶道は京と堺を中心に空前の盛況を示しつつある。」
信長が茶の湯のどこに惹かれたのか分からないが、おそらく茶室で茶をたてて四季の移ろいに感じ入りながらいただくだけの私などとは根本的なものが異なっているようだ。おそらく彼は茶の湯を政治の道具にしていたに違いない。彼は家臣に許可なく茶会を開くことを禁じた。茶会が開けるということは功労者の特権だったのだ。また功労者には高価な茶器を与えた。中には土地よりも茶器を欲しがる滝川一益のような部将すらいたほどだ。そして褒美として茶器を拝領したトップランナーが秀吉であり、実子をはさんで三番手が光秀だった。
千利休が茶の湯のこころとして説いた「一期一会」は、まさに1582年6月1日の本能寺における最後の茶会のためにあったのかもしれない。
翌日未明にここが光秀軍に包囲され、炎の中で信長が応戦し、最後に寺に火をつけるシーンは、史実か否かはさておき大河ドラマなどであまりに有名だ。そのあと白い寝間着をまとった信長が扇子を片手に「人間五十年 化転の内にくらぶれば 夢幻のごとくなり…」と、幸若舞の「敦盛」を舞うシーンなどは時代劇の定番中の定番だろう。
ちなみに奴隷として信長に「献上」されたアフリカ人弥助は、このとき主君を守って最後まで戦った結果、つかまったというが、その後のことは不明である。
備中高松城と秀吉
信長が本能寺で倒れたころ、秀吉は現岡山市の高松城址を囲んでいた。木枯らしが冷たい冬の日にここを訪れたことがある。広い田園地帯の真っただ中だ。城郭としてあまりの無防備さに驚く。秀吉はここにたてこもった毛利方の部将、清水宗治を攻めるべく、金にものを言わせて周囲の農民から土嚢を購入してこの平地にずらりと積み、川の水を引いて高松城に注がせた。軍師黒田官兵衛の秘策として名高い「水攻め」である。
秀吉が本能寺の変の一報を備中で得たとき、大泣きに泣いたという。が、司馬さんの言葉を借り、官兵衛の目で見ればこうなる。
「官兵衛は思う。この秀吉という人間の傑作ともいうべき人物は、片面で嬰児のように号泣しつつ心のどこかではこの事態のゆくすえを冴えざえと見ぬきはじめているのではないか。」
それが証拠にか、秀吉はただちに毛利方と交渉し、清水宗治の切腹のみを条件とし、毛利氏に対して本領安堵を約束するやいなや馬にまたがり京都を目指した。目的はもちろん、打倒明智光秀である。じきに本能寺の変のことは毛利方の耳にも入ってきたが、追いかけてはこない。司馬さん曰く
「中国地方には、一つの気風がある。(中略)―中国者の律義。(中略)これは山陽道の風土によるものだろうか。ではないであろう。この地方の征服者であった毛利元就の政治的性格によるものらしい。」
つまり、律儀なまでに秀吉との約束を守ったのだろう。さらに官兵衛の視点を借りてこうも言う。
「毛利は、なるほど堅実で律儀であろう。しかし家風に弾みがなく、暗く、華やぎというものがない。(中略)官兵衛がおもうに、人も家風も、華やぎ、華やかさというものがなければならない。でなければ人は寄って来ぬ。」
華やかさ重視という点は官兵衛も「尾張的」あるいは「上方的」である。
家康の伊賀越え
本能寺の変の一報を聞いて、秀吉と対照的な反応を見せたのが家康である。その時彼は堺の町を見物していたが、周囲に三十数名の側近しかいないため慌てふためき、おののいたという。「知恩院に入って死ぬ」と周りに言いだす始末で、その時のろうばいぶりを司馬さんはこのように書いている。
「ともあれ、家康はとりみだしている。かれは家計がそうであるだけにごく自然なかたちでの念佛信者で、戦陣には『欣求浄土』の文字をもって旗ジルシとし、その晩年、日課念佛の行を怠らなかったが、かれはまわりの三河人たちも、なにしろ三河一向一揆をおこした国柄だけに浄土を欣求する心はつよく、家康が口走った『死』というものについては、信長とその配下やあるいは後世の感覚とはだいぶちがっていた。」
厳密にいえば知恩院を本山とし、家康の信ずる浄土宗と、本願寺を本山とし、三河の土民が信仰してきた浄土真宗とは異なる。が、共通して言えるのは死後は極楽浄土に往生することを願う点である。言い換えれば死を身近に感じる点といってもよい。無神論者の信長は、おそらく地獄も極楽もなく、あるのはこの世だけと思うのだろうが、家康にとっては生の時間よりも死んでからのほうが長いということを信じているのだ。
ただ別の解釈もある。彼の戦場で翻った「欣求浄土 厭離穢土」の旗印の真意は「この汚い世の中を浄土に作り変える」という積極的な意味だ、という人もいるのだ。
とはいえ周囲の側近たちは気が動転した主君をなだめすかしながら、光秀軍からの攻撃をかわすかのように伊賀越えをし、伊勢湾を渡って命からがら三河に戻ることに成功した。その時の功労者が服部半蔵という。
農夫家康VS狂言師秀吉
ともあれ、かくして戦国の世に終止符を打とうとした風雲児、信長の時代は終わり、時代は確実に秀吉のものになっていった。山崎の合戦で光秀の首を取った彼は、「羽柴」の苗字のもととなる丹羽長秀、柴田勝家ら古参の部将を清洲会議でおさえ、信長の嫡孫三法子の後見人となった。さらに翌年賤ヶ岳の戦いで古参の柴田勝家らを滅ぼし、名実ともに信長の後継者となった。
司馬さんは信長の死後「棚から牡丹餅」とまでは言わないが「土地ころがし」のように版図を増やしたこの尾張人と、家康という実直な三河人を比較してこう述べている。まずは家康である。
「家康のいままでの領土のふやしかたはおよそ英雄的ではなく、農夫が汗水をながして田畑を耕し、その収穫の余情をもってまた他の田畑を飼うというやりかたであった。」
そして秀吉はというと、
「秀吉は、それとはまるで逆であった。その持ち味である大度をもって世間を魅きつけ、さらにはひとびとが惹き入れられ、あらそって秀吉の傘下に入ってゆくような人気と企てをつぎつぎに作りあげつつ、大小の既成勢力群をまるめ、その上に乗っかり、さらにそれを再編成し、いつのまにか織田名義を羽柴名義に切りかえてしまうというやりかたであり、いわば大幻影を大実像に仕立てあげるようなこのやりかたは、天才以外にできるしごとではなく、(中略)この時期の家康は自分のもっている想像力のすべてを動員しても秀吉のもっている天才を理解することができなかった。」
秀吉が天才なら家康は凡才なのだろうか。それはともかく最後に家康にこうぼやかせる。
「『要するに木下は幻の上で踊っているだけだ。いまにみよ、あの男は崖からころがりおちるだろう』という目でしか見ることができず、それ以外には思いようもなかったのである。」
そういえば当の本人も若いころから人生を狂言とみなしていたことを思い出す。
敵にこそ学べる家康
家康はその後も極めて実直に、農夫が一振り一振り鍬で田畑を起こすかのようにして版図を拡大していった。武田家滅亡後は信長承認の上で甲州、信州、駿河を支配下におき、それと前後して徳川軍に新たな軍勢が加わった。武田軍である。
「武田勝頼が滅亡したあと、家康はすぐ信長のゆるしをうけ、大量に甲州人を召しかかえた。人間を採用するだけでなく、甲州軍法まで採用し、徳川家の従来の軍法を、大幅に甲州流に変えた。(中略)家康は大量にかかえた甲州人を井伊直政に配属させたが、この新参部隊をことごとく赤備えにしたくらいの惚れこみようであった。赤備えとは、旗も具足もことごとく赤で色彩統一された部隊のことを言い、かつての武田軍の特徴の一つであった。」
長篠の戦以降落ち目だった武田勝頼だが、甲州軍としてみるとまだまだあの三河勢をも恐れさせる軍隊だったらしい。自分を打ち負かすほどの敵から学ぶ。これが家康の強みである。それも兵法までをも旧敵国にまなぶという入れ込みようである。とはいえ、その本当の理由は別のところにありそうだ。家康のナンバーワンの側近が秀吉方に寝返ったため、軍法まですっかり変える必要があったからとも考えられるからだ。とはいえそれも家康の甲州びいきという基礎があってのことだろう。
「甲州の士卒は信玄の陣法になずみ、その訓練を経ているために他家の士卒とは一見してちがっていた。(中略)『このため甲州兵がおおぜいならぶと、陣列がおのずから剛強に見えるのだ』と家康がいった(後略)」
司馬さんはこのように最大の賛辞を家康に送らせているのだ。
「資本主義社会の光」を知ってしまった農民、石川数正
ここで尾張人秀吉と三河人家康の間に立ち、苦悩した人物のことを書き記すべきだろう。その名は家康に幼いころから仕えてきた三河人、石川数正である。彼の名はおそらく通訳案内士試験にも日本史の教科書にも出てこないだろう。彼だけでなく家康の側近で時代劇には出てきても日本史には名を残さない人物は少なくない。これについて司馬さんはこう述べている。
「家康がつくりあげた家風の最大の特徴は、その家臣どもの知名度がきわめて低いことである。実質を離れて名ばかりが華やかになることは三河者の好まぬところであったらしく、家康はこの傾向を意識的に家風として仕立てあげた。」
表に出ずに蔭で主君を支える。この「縁の下の力持ち」の礼賛が徳川三百年の安泰を通して津々浦々まで広がり、政財界人や芸術家など「表で活躍する人物」を見たら反射的に「裏方も注視する」という日本人気質に広がっていったのかもしれない。
さて、この石川数正のたどった数奇な運命は、信長存命時から尾張との折衝を任せられたことにある。司馬さんはこう述べる。
「家康はつねにこの人物(石川数正)を織田家に派遣した。自然、数正は三河のやや暗い閉鎖的な侍集団のふんいきよりも、織田家の開放的な、働きがあればたとえ徒士侍でも騎乗士(うまのり)にひきあげられ、功があれば戦闘の真最中でも大将の信長みずからが金箔に手を突っ込み銀の粒をつかみどりにして与えてくれるという家風に親しみを持った。「尾張ではこうぞ」と、数正は口癖にいう。が、三河者からいえば、尾張の風というのはなるほど陽気ではあったが、反面、侍どもに必要以上に射幸心をかきたてさせ、主君に対する忠義よりもむしろおのれの功利心で働くというところが露骨で、まだ中世の気風をのこしている三河者からみれば、―尾張衆は武士か商人かわからぬ。と罵りたくなるような気分である。」
これでは嫌われるだろう。今でいえば、日本企業に勤務しながらニューヨーク支社にしばしば行き来し、英語ペラペラの人材がいたとする。そして日本での非効率的に見える働き方を見て「NYではそんなことしない」とか「アメリカでは実力次第でこんなにもらえる」などと言うようなものではないか。彼は三河の農村社会にどっぷりつかりながら、輝かしいばかりの「資本主義の光」を繰り返し見てしまったのだ。
しかし今でこそ同じ愛知県とはいえども、三河人にとっては隣国尾張よりも甲州や、場合によっては「律儀者」毛利氏の治める中国地方のほうが性に合ったのかもしれない。
小牧・長久手の戦い
だが数正は若き主君家康に出奔の直前まで忠誠をつくし続けてきた。信長との間の清洲同盟に貢献し、姉川の戦いでは浅井・朝倉連合軍を、長篠の戦では武田勝頼軍を倒すのに貢献してきた。また信長の子、信雄(のぶかつ)が秀吉と覇権を争うために家康と同盟を組んで戦った小牧・長久手の戦いのときは「対尾張外交」で培った外交能力を発揮して和睦にこぎつける手筈を整えた。家康配下の功労者の筆頭である。が、その交渉中、数正の心はすでに尾張方に動いていた。
安土城をしのばせるまっすぐな石段をはじめ、空堀や土塁がそのままの形で整備されている小牧山城を歩きながら感じた。規模は小さくとも実に堅牢な城である。信長が築いたこの城に信雄・家康が入城し、秀吉軍を迎えうつことからこの戦は始まり、南東20㎞あまりの長久手で両軍は激戦を繰り広げた。
2020年代には某社の「住みごこちランキング」トップに躍り出た長久手市だが、市民が集まるイオンモール一帯では秀吉軍に2500人以上もの死者を出させたためか、駅名はそのまま「長久手古戦場駅」である。さらに付近には「血の池公園」などという子どもたちの遊ぶ公園の名前には似つかわしくないネーミングの児童公園もある。約八か月も続いたこの戦は「小牧・長久手の戦い」とは言えども、尾張だけでなく伊勢、美濃、さらには関東、関西、四国、北陸にまで飛び火し、戦闘を繰り広げさせる「関ヶ原状態」になった。
結局秀吉軍のほうが軍事的損失は大きかったが、講和中の1586年1月に石川数正は突如家族を率いて秀吉方に寝返った。ただその直後天正大地震が起こり、双方とも戦争継続ができぬほど大打撃を受けたため、秀吉と信雄は「痛み分け」という形で手を打った。そうなると家康も戦う大義名分がなくなったため、次男於義丸(結城信康)を秀吉の養子とする条件で、秀吉方と講和した。このときの石川数正の心理が読みきれなかった家康について、司馬さんはこう述べる。
「家康といえども知らなかったのは、三河衆のなかにおける数正という世間広い人物が持った孤独というものであるにちがいない。というより、三河衆は、数正が世間広い感覚をもっているがゆえに、ただそれだけで猜疑し、「誑(たぶら)かされておるわ」と、ただちに、数正が秀吉に内通しているものとうけとり、数正の言動のひとつひとつをその目で見るというおそるべき作業を集団でやりはじめた。三河衆はなるほど諸国には類のないほどに統一がとれていたが、それだけに閉鎖的であり、外来の風を警戒し、そういう外からのにおいをもつ者にたいしては矮小な想像力をはたらかせて裏切者―というよりは魔物―といったふうな農民社会そのものの印象をもった。(中略)数正は、これ以上この三河衆の世界に居ればどういう疑いをうけ、どういう破滅を見るかもしれないと思い、いわば居たたまれずに出奔を決意したのだろう。」
日本社会は「空気」が支配する。その「空気」に苦しめられた挙句の行動であったと司馬さんは見ているのだ。
秀吉ですら勝てなかった「世間の空気」
大坂城へ向かう。一般的にこの城は太閤秀吉の城ということになってはいるが、私も城郭マニアの端くれである。ここはそもそも本願寺の一向宗が一世紀にわたって自治を行い、信長が天下に号令する大本営として狙いを定めたが十年攻撃しても落とせず、交渉の結果出て行ってもらった場所であることぐらいは十代のころから知っていた。しかし信長はすでに安土城を建造中だったうえに本能寺の変で倒れたため、秀吉がわずか二年で建造し、世界最大規模の城郭となった。とはいえ秀吉の死後、家康が西の丸にも天守を築き、本丸の豊臣家に対抗し、結果的には大坂の陣ですべて土の中に埋められてしまった。よって今目の前に飛び込んでくる圧倒されるほど巨大な高さ30m弱の石垣群も、大坂の陣後、秀忠時代のものである。
そんなことは百も承知だが、やはりここを歩くと秀吉の城であるという思いが捨てられない。
秀吉と家康の矛を交えた対決は1584年の小牧・長久手の戦いだけである。ただその後も「冷戦」は続く。司馬さんによれば「世間の空気」に苦しめられたのは農村的雰囲気の濃い三河人石川数正だけでなく、秀吉とておなじである。戦のあとは秀吉の地位が織田信雄を上回ったとはいえ、「世間の空気」が秀吉を脅かした。
「秀吉にとってこの信雄という存在が頭痛のたねであるのは、(うしろに、世間がいる)ということであった。―猿めが、織田家の天下を奪った。といわれては、秀吉はたちまちに人心をうしなうのである。どう演技すればそれがうまくゆくか。」
そこで「演技」をせねばと考えるのが、人生を狂言と位置付ける秀吉らしい。なぜ日本最高の権力者になってすら世間の空気を味方につけねばならないのか。司馬さんはこう考える。
「無理に無理をかさねた上に積みあげられた積木細工のようなものであり、そよ風にも倒れるかもしれぬものであった。その理由の第一は秀吉には直属家臣というのがわずかしかいないことであろう。(中略)かれの配下の諸将といっても、みな借りものであった、その幾万の借りものどもをかろうじて一つ軍団に統御しえているのは、この男がもっている稀代の才気と稀代の大気と稀代の演出力だけであった。」
秀吉一世一代の狂言に付き合った家康
そしてそんな彼の一世一代の檜舞台が小牧・長久手の戦いが終わった翌1586年の大坂城である。貴族としての最高位である関白に就任した秀吉に「臣従」する様子を諸大名に見せるために家康をこの城に呼んだのだ。しかもそれは秀吉から再三再四「出演依頼」が来て、断り切れなくなったから家康も秀吉の狂言に付き合うことになったにすぎない。なにしろ天下の諸大名の前であの「東国の覇者」徳川殿まで臣従した、というイメージを持たせれば、丸く収まるからだ。神妙に臣従するふりを見せた家康を評して、秀吉の正室寧々は夫とこのような会話を交わしている。
「『あの徳川どのが、よくそのような出過ぎ口をきかれましたな』と、寧々は家康の変貌におどろいた。秀吉は寝ころびながら、『なに、狂言よ』といった。あらかじめ秀吉が立案し、弟の秀長をして家康に耳うちせしめ、その狂言をなすよう頼んだのである。」
まさに狂言のなかの狂言、いや、付き合わされた家康はそれこそ「猿芝居」として見ていたに違いない。猿芝居のために秀吉は自分の妹を離縁させ、家康に嫁がせたりまでしている。家康からすれば迷惑千万な話だろう。そして秀吉は人生の終わりに自分の人生を振り返る。
「おれの天下も、あの狂言できまったわさ」といいつつ、ふと秀吉は、織田家に仕えた自分の生涯のふりだしのそもそもから狂言であったような気がした。
私には秀吉という男が狂言師であると同時に演出家でもあるように思えてきてならない。
改札口でみるナニワへの思い
大阪城公園を去り、最寄りの大阪城公園駅に向かった。そこには司馬さんがナニワの町への熱い思いが、改札口の陶板に書き連ねてある。長い長いポエムである。駅の雑踏の中、それを最後まで読んでいるうちに、司馬さんのナニワに対する熱い思いが伝わってくる。長いので特に胸にグッとくる部分を抜き出してみた。
・目の前の台地は島根のごとくせりあがり、まわりを淡水(まみず)が音をたてて流れ、大和や近江の玉砂を運び、やがては海を浅め、水が葦(あし)を飼い、葦が土砂を溜めつつ、やがては洲(しま)になりはててゆく姿は、たれの目にもうかべることができる。
・八十(やそ)の洲(しま) それがいまの大阪の市街であることを。冬の日、この駅から職場へいそぐ赤いポシェットの乙女らの心にふとかすめるに違いない。創世の若さ、なんと年老いざる土(くに)であることか。
・海鼠形の台地の北の端は、いま私どもが眺めている。ここに西方(さいほう)浄土にあこがれた不思議の経典を誦(ず)する堂宇ができたとき、地は生玉荘(いくたまのしょう)とよばれ、坂があった。おさかとよばれた。堂宇の地は礫(こいし)多く、石山とよばれていたが、ここに町屋(まちや)がならんだとき、この台上にはじめてささやかな賑わいができた。
・威と美を多層であらわした世界最大の木造構造物は、大航海時代の申し子というべく、その威容を海から見られるべく意識した。事実、この海域に入った南蛮船は、極東のはてに世界意識をもった文明があることを象徴として知った。
・城の台上から西へ降りた低地はすでに八十洲(やそしま)ではなくなり、網模様のように堀川がうがたれ、大小の商家がひしめき、日本國のあらゆる商品がいったんそこに運ばれ、市(いち)が立ち、値がさだまり、やがて諸国に散じた。この前例のない仕組みそのものが天下統一の独創から出ており、にぎわいは空前のものとなった。
・台上の城には、あざやかな意志があった。台下の商権と表裏をなしつつそれを保護し、さらには海外を意識し、やがて思想なき過剰な自信が自己肥大をまねき、精神の重心が舞いあがるとともに暴発し、他國に災をあたえ、みずからも同じ火のなかでほろんだ。人の世にあることのかがやきと、世に在りつづけることの難(かた)さをこれほど詩的に象徴した建造物が他にあるだろうか。
・つぎの政権は、篤農家のように油断なく、諸事控えめで、無理をつつしみ、この地の商権もまた前時代と同様、手あつく保護した。信じられるだろうか、二百七十年ものあいだ、この一都市が六十余州の津々浦々に商品と文化をくばりつづけたことを。
・さらには、評価の街でもあった。物の見方、物の質、物の値段……多様な具象物(ぐしょうぶつ)が数字とし抽象化されてゆくとき、ひとびとの心に非條理の情念が消え、人文科学としか言いようのない思想が萌芽した。さらには自然科学もこの地で芽生える一方、人の世のわりなきこと、恋のつらさ、人の情の頼もしさ、はかなさが、ことばの芸術をうみ、歌舞音曲を育て、ひとびとの心を満たした。
・右の二世紀半、ひとびとは巨大なシャボン玉のなかにいた。あるいは六十余州だけがべつの内圧のなかにいた。数隻の蒸気船の到来によって破れ、ただの地球の気圧と均等(ひとしなみ)になったとき、暴風がおこった。この城は、ふたたび情勢の中心となり、政府軍が篭り、淀川十三里のかなたの京の新勢力と対峙(たいじ)した。ついには、やぶれた。二度目の落城であり、二度ともやぶれることによって歴史が旋回した。この神秘さを感ずるとき、城はただの構造物から人格になっていると感じてもよいのではないか。
・やがて、首都を頭脳とする日本國が、十九世紀の欧州の膨張主義を妄想しはじめるとともに、この場所の設備も拡大され、やがて共同妄想が業火とともに燃えおちた日、この城のまわりの鉄という鉄が熔け、人という人が鬼籍に入った。城は三度目の業火を見た。
まるでシアターの中で大坂の町が出来上がっていく様子を見せられているかのようではないか。そしてふるさとに対する歴史家としての儚い愛情が感じられる。そして大坂城の歩んできた歴史が夢のように流れていく一編の詩でもある。夢といえば、秀吉の辞世の歌はあまりにも有名だ。
「露と置き露と消えぬるわが身かな 浪華のことは夢のまた夢」
そして還暦を過ぎたばかりの彼もこの世を去っていった。六十余年の狂言も、朝鮮出兵という最大の失態の後始末もせぬままお開きとなった。この歌も、彼を拾ってくれた信長の愛唱した幸若舞の「人間五十年 化転の内にくらぶれば 夢幻のごとくなり…」からインスピレーションを得たものだろう。
ただ「秀吉座狂言」の幕を引く前に今一度、彼には「天下統一」の締めくくりとなる小田原攻めに登場してもらわねばならない。
江戸期の小田原城で戦国の北条をしのぶ
大阪から一気に箱根の峠を越え、関東に向かう。北条早雲を祖とする北条五代は小田原を拠点に一世紀にわたり関東を支配してきた。小田原駅西口には馬に乗った初代早雲の巨大な銅像があるが、その斜め上には子牛の姿が見える。そしてその角には炎が見える。伊勢新九郎と名乗っていたらしい早雲は京都で将軍家に仕えるそれなりの身分ある者だったが、15世紀末に伊豆に流れ出てこれを平定し、同時に大森氏が守る小田原を攻めた。その際、史実はともかく千頭の牛の角に火をつけて夜襲し、敵を恐怖に陥れたという故事に基づいた銅像だ。
本来なら北条氏は小田原市民にとって氏素性の知れない流れ者なのだろうが、彼の子孫たちの善政によって「おらが町の殿様」となっていった。「北條五代祭り」がゴールデンウィークに開催されることからも分かるように、一族は今なお市民から愛されている。
駅の東口を出ると右手に白亜の小田原城天守が見えるように街づくりがなされており、近づくと立派な石塁が城を囲むが、これらは江戸時代のもので北条時代には天守はおろか石塁さえなかった。復元された江戸時代の城を見ながら戦国時代の北条氏をしのぶ構図は、宿敵秀吉の大坂城と同じであるが、実はここには日本最大の「惣構(そうがまえ)」と呼ばれる城下町を取り囲むほどの実戦的な城郭があった。
江戸期のものを復元した数々の櫓門を通り、復興天守に登る。小田原の陣の布陣など、興味深い資料が秀吉側ではなく北条側の視点でつづられる。私が最も感銘を受けたものは、「禄寿応穏」の印鑑である。「民が穏やかに暮らせ、長生きできるように」という願いを込めたこの北条氏の公文書に押された印を、信長の「天下布武」の印と比べるとどちらが領民思いか一目瞭然であろう。
東三河の酒井忠次と西三河の石川数正
そもそも鎌倉時代の執権北条氏の血縁でもないのに「北条」を名乗るには、関東という「世間」の承認が必要だ。早雲の子、氏綱は関東人の精神的支柱であり続けながら焼失していた鶴岡八幡宮を改築し、さらに関東一帯の部将たちに援軍を送ることで「北条」を名乗ることを認められた。そして三代氏康の時代には小田原城をあの戦の天才上杉謙信や武田信玄の侵攻をも退けるほどの難攻不落の城郭にした。
徳川と同盟を結ぶ際、活躍したのが家康の側近、酒井忠次である。司馬さん曰く
「忠次は、東方への理解者になった。東方好きでさえあった。東方の連中の思考法などに馴れていたから、『どうも上方衆はゆだんできぬ』と、たえずいっていた。上方というのは京都を中心にしたあたりをさすのだが、三河では尾張をふくめたその以西を上方とよぶようになっている。」
ここで認識を新たにせざるを得なくなった。私はこの文を読むまで、東海における東日本と西日本の境は静岡県と愛知県の県境あたりではないかと何気なく思っていた。しかし意識の上では東日本に近いのかもしれない。特に忠次の治めていた吉田城は豊橋市、つまり東三河なのだ。司馬さんはこれに続けて秀吉に寝返った西三河の石川数正とを比較して述べる。
「そのえたいの知れぬ上方と上方衆へのただひとりの接触者であり理解者として存在したのが、石川伯耆数正であった。数正の不幸はそこにあったが、数正自身は気づいていない。」
尾張VS三河という対立項は、どうやら尾張VS(東三河VS西三河)というべきなのかもしれない。
北条氏は時勢遅れの田舎者だったのか
話を小田原に戻そう。家康と同盟をむすんでいた四代氏政に対して秀吉は再三再度上洛を促すがこれに従わず、1590年、東北・関東を除く全国約20万の兵で小田原城を囲んだ。司馬さんの北条氏に対する見方は、「世間の情勢に疎い田舎侍」に近い。
「北条氏は、時勢を観望する能力をまったく欠いており、たとえば秀吉の勃興というものを北条氏ほど軽く評価していたものはない。『小田原はいつも去年の暦をつかっている』と、小田原へ使いした家来がそのようにいった。三河衆そのものが時勢感覚に鋭敏でないのだが、その三河衆からみても北条氏の感覚はつねにテンポが遅れているらしい。」
つまり、尾張から見れば三河は時勢遅れの田舎者だが、それを上回るのが関東だというのだ。一方で北条氏は同盟をむすんできた家康をどう見ていたか。
「『三河殿は質朴である』と、北条氏の側では家康の評判はわるくない。が、家康の質朴は演技にすぎず、かれの北条氏への対し方は、おそろしいばかりに巧緻であり、それを方丈側が気づかないだけであった。」
つまり北条氏は朴訥すぎて、家康の「腹黒さ」を見抜けなかったとみている。その点、秀吉の家康への見方の変化はさすがである。
「秀吉の家康観をあらためさせたのは、あの好人物であるはずの男が、体のどこにそれを蔵(しま)いかくしていたのか、人としての凄味をみせはじめていることであった。(中略)(あの男に、そういう芸があったのか)と、秀吉は驚かざるを得なかった。」
そのような家康に対する見方の相違はともかく、北条氏は「天下人」秀吉に対して純軍事的に戦おうとした。現在の市街地をほとんど覆うほどの面積を囲む「惣構」という土塁を築いて城下町を守ったのだ。民はその作業に駆り出されはしたが、戦になって包囲されても城下で普段通り農業や商工業にいそしむことができた。よって数年の籠城も可能なはずで、そのうち秀吉軍が分裂したりするのを待てばよいと考えていたのだ。
しかし秀吉はまたもや心理戦と土木工事で小田原を攻めたのだ。
石垣山城
小田原駅の西隣に早川という駅がある。その真西に石垣山城跡公園があるので登ってみた。晩秋の早朝だったが暖かい。山の途中はミカンがたわわになっていた。公園の展望台から見ると眼下に青黒い太平洋が広がる。まるで黒潮が目に見えるかのようだ。
にわか作りとは思えない石垣があちこちに点在する。そしてそれが大規模に崩壊したような岩の塊がごろごろしている。かつてはさらに巨大な石塁群がここにあったという。
一方北条時代の小田原城は石塁をほぼ使用していない。彼らも支配地域の八王子城などには石塁を築いているので、彼らが石塁の使用法を知らなかったわけではないが、西日本には稀な赤土がこの地を覆っている。いわゆる関東ローム層である。そして赤土は水にぬれるとぬめり、すべる。それを利用した空堀こそ北条氏の武器だったのだ。
それに対して秀吉はそれをさらに囲むほどの土塁を築いただけでなく、近江からプロの石工、穴太(あのう)衆を率いて山の上に累々と石を積み、その上に関東では見たこともない天守や御殿を突貫工事で建て、周囲の樹木を一斉に伐採した。小田原城の中心から約3㎞ということは北条側からもよく見えたはずだから、この「一夜城」にさしもの北条氏も衝撃を受けたのだろう。十日後には降伏した。「ナニ、これもまた狂言よ」と秀吉が言っているかのようだった。
石垣山城の展望台から小田原城を眺めながら、このときの様子をしばし空想した。海上には九鬼水軍や毛利水軍、長曾我部などの水軍が船を浮かべ、東海甲信の徳川、山陰山陽の毛利、越後の上杉、北陸の前田、岡山の宇喜田など五大老や、石田三成ら五奉行など名立たる戦国大名のオールスターキャストで囲まれていたはずだ。そして大河ドラマでおなじみの、秀吉が家康に小田原の町を見ながら立小便をしつつ、関八州を家康に与え、江戸城を本拠地とすることを打診するというあのシーンを思い出しつつ、歩いて城を下り、早川駅に戻っていった。
丸の内:日本はぐるぐる、中国カクカク
東京駅についた。丸の内口をでるとそこはすでに江戸城である。江戸城=皇居ではない。江戸城>皇居というべきだろう。小田原合戦の後、家康が江戸城を築き始めて半世紀でようやく完成したこの世界最大級の城郭は、現在の皇居を中心として渦巻き状の堀がこの世界有数の都市をぐるぐると回っている。現在の中央区と千代田区のほとんどが城内というほどだ。
この「ぐるぐる」というオノマトペが日本の城郭の本質を表している。私は二百近く城郭をあるいてきたが、戦国時代の城郭には難攻不落の山城が多い。その場合、山頂付近を本丸、その下を二の丸、さらに下が三の丸になるケースが多いが、それを上空から見ると三回転した蚊取り線香のようにみえる。これが「日本の城郭=ぐるぐる」の意味である。そしてそれがこの江戸城のような平地においても、多少小高い丘の上に本丸を置き、周囲に二の丸、三の丸を置き、さらに周りにらせん状に堀をめぐらすという構造を取っている。東京駅を出てすぐの地名もこのぐるぐる巡る「丸」の内側という意味なのだ。
中国ではそうではない。「地方」という言葉があるが、その本来の意味は「大地は方形」という意味である。世界は四角形なので、その縮図の城郭も四角形に作るのだ。唐の都長安にせよ、北京の紫禁城にせよ、中央の四角形の城郭の外にまた四角い空間を造り、これを「環」とよぶ。日本の城郭が「二の丸」「三の丸」とらせん状に広がっていくのに対し、中国の城市は「二環」「三環」と、小さい枡が大きな枡に入るかのように広がっていく。「日本の城郭=ぐるぐる」に比べると、「中国の城市=カクカク」である。
そして中国では城市の中に住民を住まわせるが、日本では北条氏の小田原城や朝倉氏の一乗谷のように城郭内に住民を住まわせるのは例外中の例外で、非戦闘員は原則城外に住む。中国の「城」は生活の場、日本の「城」は軍事施設であるからだ。
軍事施設としての江戸城
江戸城を歩くたびにつくづく実感するのが、この城郭の巨大さ、そして城郭としての防御の完璧さである。例えば我々が敵として侵入していくとしよう。幾多の堀を乗り越えて、大手門や桜田門などに討ち入っても、「桝形」という巨大な立方体の空間に閉じ込められ、十字砲火を浴びせられる場面が目に浮かんでくる。そうした防衛機能としての完璧さが、鋭く牙をむくのがこの城だ。
一方、大手門、すなわち今の東御苑から二の丸に入ると優美な庭園があり、巨大で四角く成型した岩をいくつも重ねた石垣が出迎えてくれる。その石垣の規模には圧倒されずにはいられない。さらにくねくね曲がって本丸に入ると、幕末に焼失するまで存在していた本丸御殿の礎石がその規模を想像させる。二条城二の丸御殿や、復元された名古屋城・熊本城本丸御殿を合わせたよりもはるかに巨大なものだったという。そしてその奥の天守台には1657年の明暦の大火までは高さ60mの日本一の天守がそびえていたはずだ。これらが残っていれば、姫路城をしのぐ世界遺産登録は間違いなしだろう。
天守を建て直さないことへの誇り
ちなみに明暦の大火で焼失した天守はすでに三代目だった。平均すると一棟の天守の寿命は20年弱だったのだ。四代目を再再再建しようとしたとき、反対者がいた。三代将軍家光の異母弟にして会津藩主、保科正之(ほしなまさゆき)である。彼が幕府の威信をかけた天守再建に反対した理由は、幕府の威信よりも民の生活を重視しなければ幕政の根本が揺らぎかねないことに気づいていたからだ。だから彼が震災直後に提案したのは、蔵を空にしてでも被災者に炊き出しと現金給付をすることだった。他の幕閣から反対意見があっても、これを断行した。
華美で豪勢な「尾張者」のようになるなという三河武士、家康のDNAをきちんと受け継いだのは、本家ではなく、分家の保科正之であったのは実に興味深い。彼ははじめ信玄の娘の見証院という尼僧に預けられ、その後、旧武田家家臣だった信州高遠藩主保科家に預けられた。父親の秀忠は、正室お江(浅井長政とお市の三女)に内緒で身分の低い女に「お手付き」して生ませた息子を、父家康の大敵ながらも心の師としていた信玄の娘や、その家臣に預けた。これは狂言のような尾張≒上方的な西国貴族的あり方よりも、地に足の着いた三河≒甲斐的な東国武士的あり方をこの私生児に託したかったのではなかろうか。そんな保科が藩祖となったのがあの会津藩である。子の世代に苗字を保科から父祖の「松平」に戻したが、会津藩にそのDNAが受け継がれたのは幕末の彼らの動きがそれを証明している。
司馬さんは家康に若き日のひもじい思い出を想起させている。
「あるとき美濃を流浪して三河へゆこうとし、野山を歩いた。いくつのときであったか、とにかくこのあたりの物狂坂にさしかかったが、そのときのひもじさをいまでもおぼえている。空腹のために足が萎え、この坂をのぼれなくなった。たまたまたんぽぽをみつけ、夢中で摘み、その茎の汁を吸い、花を食った。口中のなんとにがかったことであろう。」
「神君家康公」にしても飢えのあまり歩けず、苦いたんぽぽを口にしたことが忘れられない。焼け出された庶民の心境がいかばかりか、分からないほうがおかしい。
現桔梗門派出署から公衆トイレのあたりまでが保科正之ら会津藩の江戸屋敷があったところという。かつてはここからも壮麗な天守が見られたはずだ。今は反対方向に皇居前広場を挟んで、遠く南に永田町や霞が関のビル群が見える。日本経済も全盛期から三十年もたつと疲弊してきたが、国家の威信をかけて五輪や万博に巨額の資金をつぎ込んで大増税で賄う昨今の動きを、保科正之は草葉の陰でどうみているだろうか。
天守を建て直していれば世界遺産になっていただろうが、建て直さずにひもじさのあまりたんぽぽをかみしめたであろう民を救うべく民政を最優先したことは、普遍的な価値を持つ無形文化遺産であり、より誇るべきことではなかろうか。なにやらむなしい思いでかつて「江戸城西の丸下」と呼ばれ、大名屋敷が連なっていた皇居前広場を歩いていった。
譜代=権力>石高、外様=石高>権力
ところでこの世界最大級の城郭も、実は独創的で目新しいことは何もない。堀や土塁は弥生時代からあった。御殿の源流は平安時代の寝殿造ともいえよう。天守は戦国時代、桝形は同時代の城郭では普通にある。そして独創的で目新しいものがないことが徳川幕府の特徴だと司馬さんはいう。
「独創的な案とは、多量の危険性をもち、それを実行することは骰子(さいころ)を投ずるようなもので、いわば賭博であった。模倣ならば、すでにテスト済みの案であり、安全性は高い。(中略)徳川幕府は、進歩と独創を最大の罪悪として、三百年間、それを抑圧しつづけた。あらたに道具を発明する者があればそれを禁じ、新説に対しては妖言・異説としてそれを禁じた。異とは独創のことである。異を立ててはならないというのが徳川幕府史をつらぬくところの一大政治思想であり、そのもとはことごとく家康がつくった。」
現在でも日本各地で出る杭は打たれる傾向が強いとするなら、その源流が家康の政治思想にあるのだろう。戦乱の世にこれではいけない。しかし鎖国して安定を目指すならばそれがベストだったのかもしれない。
その後、家康はこの巨大な城郭を築城することを理由に、秀吉の朝鮮出兵にも応じず、温存しておいた兵力を利用して関ケ原も乗り越えた。その後の家康について司馬さんはこう述べる。
「家康は関ヶ原の一勝で天下をとったあと、これに協力した豊臣系諸侯(いわゆる外様大名)には気前よく大領をわけあたえた。(中略)外様大名に大盤ぶるまいをすることによって、一気に天下の鬱気を散じ、政情を安定させたのである。」
一方、譜代の三河衆に対してはどうだったか。
「譜代の臣は薄禄だが、外様大名よりは格は上であるとし、さらに幕閣の政務はすべて譜代の臣にとらせるという名誉をあたえ、外様大名は大封をもつとはいえ天下の政治に対する参政権をあたえないということで差別をした。」
ちなみに今歩いている皇居前広場、つまり江戸城に隣接する旧西の丸下こそ、彼ら譜代大名たちの屋敷が集中しているところだったのだ。石高=GDPだった時代に、身内には米よりも実権を与え、他人には実権を奪って米を与えた。それは「士農工商」の身分制度で米や金を持つ豪農や豪商には参政権はなく、武士に対しては「食わねど高楊枝」ならぬ、「武士は食わねど参政権」でバランスを取ったのにも似ている。そのあり方こそ三河武士家康の価値観を拡大していったものと言えまいか。
こひゃん鶴橋
何年もかけて江戸から大坂まで東海道の城郭を歩きつつ、信長、秀吉、家康の生き様を見てきた。そして春先に改めて大阪を訪れた。この日も小1の息子を連れて鶴橋の雑踏を歩いていた。「こひゃん高齢者ハウス」「うりちぷデイサービス」などという在日コリアン向けの施設があった。「こひゃん」とは故郷、「うりちぷ」とは我が家の意味である。在日コリアンでも朝鮮文字よりひらがなのほうが分かりやすいこともあるからだろう。
その横に、シャッターに薄汚れたポスターが十数枚貼られた薬局を見た。いや、薬局だと気づいたのは、「동의처방원」と、朝鮮文字で書いてあるだけの看板を「東医処方院」と漢字変換できるだけの語学力があったからだろう。そのはげかけたポスターのうちの一枚に「司馬さんの幼いころのふるさとは鶴橋2丁目福田薬局」と日本語だけで書いてあった。ポスターに記された略地図を見ると、どうやらそのシャッターの真裏らしい。路地裏に入ってみると、おそらく司馬さんの幼少時代に使っていたかもしれない古井戸が、落ちないようにベニヤ板で覆ってあった。司馬さんが鶴橋生まれだということは覚えていたが、闇市のようなところなので、生家などはないだろうと決めてかかっていた。そしてたまたま歩いていてそれを見つけたため、まるで司馬さんに呼ばれているような気がしてきて「司馬さん、ついに来ましたよ」とあの世の司馬さんに挨拶してその場を立ち去った。
鶴橋駅に向かいながらつくづく思った。司馬さんがあの世代の人にしては中国や朝鮮に偏見を持たず、知的にも心情的にも関心を持ち続けてきたのは、ふるさとがこんな在日朝鮮人だらけの「こひゃん」であり、「アジア人リテラシー」があったからなのだと確信した。
司馬遼太郎記念館
そして東大阪市にある司馬遼太郎記念館に向かった。司馬さんは1964年から亡くなる96年までの三十年以上をここで過ごした。私が読んできた戦国物もみなここで執筆されたことになる。亡くなった時と全く位置を変えていないという書斎を見ていると、司馬さんが愛した雑木林風の庭の片隅に、息子が何かを発見し、私を呼んだ。
驚いた。たたらの残存物、 鉧(けら) のかけらが数十センチほど固まって置かれているではないか。私も息子も奥出雲のたたら師の長、村下(ムラゲ)の子孫である。先祖と繋がるものを何も知らぬ息子が見つけたのも何かの縁か。まるで司馬さんが「ぼん、ようきたなあ、これはケラいうてなあ、ぼんのご先祖はんからもろたんや」とか言いながら見せてくれているような気がしてきた。私たちはゴツゴツイガイガしたケラの感触を大小二つの手のひらで確かめてから、安藤忠雄設計の館内に入った。
司馬さんに関する資料は特に豊富なわけではないが、地下一階、地上二階の高さ十数メートルの空間に高い高い本棚がそびえ、司馬さんが買いそろえた六万冊もの書籍がずらりと並ぶ。「知」というものが物質性を帯びて大厦(たいか)をなしているかのようで圧倒される。まさに「知の城塞」だ。そういえば今回は割愛したが大坂の陣と大坂城をテーマにした傑作のタイトルも「城塞」だった。
「街道をゆく」ー西の知の旅人と東の情の旅人
司馬さんと戦国城郭と東海の旅も終わりを告げようとしている。館内で展示されている「街道をゆく」シリーズ全43巻が目に留まった。これは司馬さんの著作の中で私が最も影響を受けたシリーズであり、旅に出る前には必ず手にするガイドブックでもある。そして私の生まれた1971年から司馬さんの亡くなる直前の1996年まで、四半世紀にわたってこの国を旅してきた、いわば司馬さんの旅日記の集大成でもある。日本列島を津々浦々巡るだけではなく、東アジアや欧米にまで足を運んできた書き続けていた司馬さんが、最後に未完のまま上梓せざるを得なかったのが東海地方の戦国三英傑とその周りの人物をまとめた「濃尾参州記」である。数ある司馬さんの名作集の中でも今回この地域を選んだのも、結果的には司馬さんがそうさせたような気がしてきた。
後で気づいたのだが、この旅人が津々浦々歩きながらこの全43巻を執筆し、日本中の大衆を知的に楽しませ、泣かせ、奮い立たせている期間と同じころ、日本中を歩いて前48作の映画に出演し、日本中の大衆に腹を抱えて笑わせ、ほろりとさせ、元気をくれる情的な旅人がいた。葛飾柴又の寅さんである。大阪の朝鮮人街で生まれた知の旅人と東京の下町で生まれた情の旅人が交わることはなかったろうが、この二人は旅をするときの私の中に確実にいる。
現代アートのような空間のミュージアムを出て、再び庭を歩く。書斎の机といすがまた見えた。最後の原稿用紙も先ほどの書斎で書かれたのだろう。
「二十一世紀に生きる君たちへ」
最寄り駅に向かう途中、司馬さんが1989年の小学六年生の教科書に寄稿したエッセイ「二十一世紀に生きる君たちへ」が彫られた文学碑を見つけた。むかし小学生に国語を教えているときに学んだことがある文だ。夜、ホテルに戻ってネットでこのエッセイを探してみた。読みなおしているうち、ところどころ熱いものがこみだしてくる。
「私がもっていなくて、君たちだけが持っている大きなものがある。未来というものである。 私の人生は、すでに持ち時間が少ない。例えば、二十一世紀というものを見ることができないにちがいない。 君たちは、ちがう。 二十一世紀をたっぷり見ることができるばかりか、そのかがや かしいにない手でもある。 もし、『未来』という街角で、私が君たちを呼び止めることが できたら、どんなにいいだろう。」
司馬さんが亡くなって四半世紀あまり経った。これが書かれたときにはまだ私は十代だった。司馬さんに「君たち」と呼びかけられたぎりぎりの世代でもある。そして司馬さんが亡くなった時に比べ、技術は進歩したが世の中はとりわけよくはなっていないように思えて申し訳ない。司馬さんは続ける。
「自然物としての人間は、決して孤立して生きられるようにはつくられていない。 このため、助け合う、ということが、人間にとって、大きな道徳になっている。助け合うという気持ちや行動のもとは、いたわりという感情である。 他人の痛みを感じることと言ってもいい。 やさしさと言いかえてもいい。 「やさしさ」「おもいやり」「いたわり」「他人の痛みを感じること」みな似たような言葉である。 これらの言葉は、もともと一つの根から出ている。根といっても、本能ではない。だから、私たちは訓練をして それを身につけねばならない。
私はこれまで司馬さんのフィルターを通して信長、秀吉、家康を見てきた。十代のころは信長に憧れていた私も、五十代になるや三河人家康に共感するようになった。それは個人的にはふるさとの山陰気質が三河気質に通じるためだが、十代のころはそれが重苦しくて仕方なかったからであることは以前にも述べた。そして社会全体を眺めると、私が信長に憧れた八十年代は日本経済が右肩上がりで、新しい商品が日本からバンバン出ていく、たとえるなら「ニッポン信長時代」だった。
しかし2010年にGDP総額が中国に抜かれ、2023年にはドイツに抜かれ、また東京五輪は事実上失敗し、大阪万博も開催が危ぶまれる昨今、大切なのは信長や秀吉のような狂言と知って打ち上げ花火をあげまくる金があるのなら、国民の暮らしを保証し、質の高い教育を平等に与えることに使うべきだと考える。この思考法は家康の三河人気質そのものではないか。
「やさしさ」の訓練
また司馬さんは「やさしさ」、つまり他人の痛みを感じることが大切だという。だが三英傑の中で、家康はやさしさをもっていたのだろうか。信長に備わってはなさそうだが、秀吉はどうだったろうか。そして「訓練をしてそれを身につける」というのは、どうすればよいのだろうか。司馬さんは教えてくれる。
「その訓練とは、簡単なことだ。例えば、友達がころぶ。ああ痛かったろうな、と感じる気持ちを、そのつど自分でつくりあげていきさえすればよい。 この根っこの感情が、自己の中でしっかり根づいていけば、 他民族へのいたわりという気持ちもわき出てくる。 君たちさえ、そういう自己をつくっていけば、二十一世紀は人類が仲良しで暮らせる時代になるにちがいない。 」
ここの部分をみて思い出した。賤ケ岳の戦いで死傷者がたくさん出たとき、最もやさしく描かれていたのは秀吉だった。
「どの峰にもどの谷にも負傷者がころがっていた。秀吉は小人頭に命じて集福寺村にゆかせ、高値(こうじき)な金を払わせて笠や蓑をあつめさせた。それらを負傷者にかけさせ、せめて烈日の直射だけでもそれによってふせがせた。この男は、こういう気づかいが自然に出る男であった。可哀そうだ、という感情がひと一倍過剰で、べつに演技ではなかった。」
「人生即狂言」の秀吉も、弱者には憐憫の情がわくようなのだ。いや、浅井長政と朝倉義景の髑髏を塗りものにして酒を飲む信長に対してさえ、
「自分が庇護すべき庶民に対してはそれとおなじ奥深い場所で憐れみを感ずるたちであるらしい。」
と述べている。虫けらのように命が消耗されていく戦国の世だったので、かえって憐れみのこころも出てきたのかもしれない。
司馬さんの解説で三人を見つつ、戦国の東海道を歩いてきた。最終的に司馬さんのメッセージはこの「やさしさ」の訓練をせよということだったと思いつつ、いったんはお開きにしたい。
司馬さんとの旅はまだまだ続きそうだ。(了)