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「真田丸」思い出巡り|和歌山大阪2023


コール&レスポンス 大坂城・真田丸

寒風吹きすさぶ12月下旬、友人たちと和歌山と大阪の旅に出かけた。今回の旅のテーマは「真田丸思い出巡り」である。どこぞの観光協会が企画しそうな字面であるが、それは僕らにも自覚はなくもない。

僕らは2016年大河ドラマ「真田丸」が大好きだ。どのくらい大好きかというと、飲み会で話しているといつの間にか真田丸の話に行き着くくらい大好きだ。

そのような背景から、真田丸のあった大阪城や真田家が流された九度山を巡りながら、真田丸思い出巡りをしようとなったわけである。つまり飲み会の会話と大差ない。

午前4時、友人の車にのそのそと乗り込み一路東名高速道路を西に向かう。もはや何度このメンバーで東名高速道路を走ったか分からないが、早朝に出発すると最初の休憩は必ず駿河湾SAだ。だが未だ早朝の駿河湾SAが開いているときに来たことがない。何があるのだろう駿河湾SA。

早朝出発のおかげで昼前には最初の目的地である大坂城に到着した。言わずと知れた大阪のシンボルである。豊臣秀吉の城というイメージが強く、ドラマ「真田丸」内でも重要な舞台であるが、現地で何より驚いたのは、

外国人の多さ。

敷地内には英語中国語表記が並び、土産物売り場はサムライ、ゲイシャ、フジヤマなグッズの数々、耳に聞こえてくるのはどこの国か分からない言葉と、フルコースである。インバウンド恐るべし。

大坂城を出た後に向かうのは真田丸跡。真田丸とは大坂城の出丸であるし、何も残ってはいないのだが、台地の縁に作られたという土地には訪れてみたい。できればドラマ内であった、

「城の名はなんとします?」
「決まっているだろう、真田丸よ!」

という最高の掛け合いをやりたい。最高のコール&レスポンスである。

地図を見ながら向かった場所は閑静な住宅街の中にある小さな寺。心眼寺というその寺には石碑があり、真田丸の跡とされている。真田幸村全乗っかりである。

住宅街のど真ん中だったので、派手にコール&レスポンスを楽しむことはできなかったが、真田丸跡に行くことができたのはよい記念だ。存分に真田丸に想いを馳せよう。

と感慨に耽っていると、友人曰く「古地図によると真田丸の場所は少しずれている」とのこと。想いを馳せるのを一時停止し彼の言う場所に向かうと、

駐車場だった。想いを馳せた。

鈴木さんの聖地 藤白神社

大坂城エリアの「真田丸」思い出を巡った後、僕らは和歌山へ移動し一泊。和歌浦湾を臨む宿は大変居心地のよい場所で、翌朝、目の前の浜辺を無闇に散歩できる場所だった。

朝一番で向かったのは藤白神社である。そこまでメジャーな神社ではないが、とある界隈では有名な場所である。

とある界隈とは、日本2位の多さを誇る鈴木姓界隈である。この藤白神社は鈴木姓発祥の地と言われており、全国の鈴木氏の総本家とされる。(和歌山で有名な雑賀孫一の本姓も鈴木氏)

境内には「全国の鈴木さんいらっしゃい」なるノボリがはためいており、全国の鈴木さんにとっては鈴木の中の鈴木、まさに聖地といっていい場所。

鈴木の永遠のライバルである佐藤の聖地はどこにあるのだろうか。

和歌山市内の歴史 養翠園・和歌山城

鈴木さんの聖地の後は、和歌山湾を臨む養翠園を訪れる。池泉回遊式の日本庭園であるが、湾に面していることから園内の池には海水を引き込んでいることが特徴。海の近くの庭園はあるものの、これだけ大規模な場所は都内の浜離宮くらいのものらしい。

またこの養翠園、日本で唯一の個人が所有する大名庭園。かつては全国の大名がこぞって自宅に作っていた庭園だが、それが現代ではここだけである。つまり現代ではどんな富豪でもそう簡単には所有できないのだ。残念でならない。

和歌山市街地に戻り、市内のメインである和歌山城を見学。和歌山城は豊臣秀吉の弟、秀長が築城した城であり、その後紀州徳川家の城となった由緒正しい城である。つまり規模が大きい。

そんな由緒正しい和歌山城の見どころの一つが「橋」である。御橋廊下という名のソレは、二の丸と庭園を行き来するための橋兼廊下で、当時は藩主とお付きの人しか通ることが許されなかったそうだ。今のものは復元ではあるものの、一般にも利用可能。

なのだが、すごく歩きにくい。

微妙に傾斜しており、段差の低い階段状になっているため、足先がつっかかる。12月の寒い日の足先は大事に扱わないといけないので、これは辛い。藩主とお付きの人も12月は気をつけてもらいたい。

真田ミュージアム 討ち果たす

和歌山市内の主だったところを観た後、九度山に向かう。九度山は高野山の麓にある町であり、なんといっても、関ヶ原の戦いで敗れた真田昌幸・信繁親子が流された地として有名な場所。そんな流された場所にあるのが「真田ミュージアム」である。九度山、真田親子に全乗っかりである。

真田ミュージアム、そこまで規模は大きくないものの、比較的新しい建物だ。真田の忍者伝説や真田十勇士伝説など、史実的な要素と講談などの伝説要素がミックスされた、親しみやすい場所だった。真田親子の九度山時代は、真田紐を作っていたくらいしかエピソードが無いので仕方がない。

ミュージアムの最後には、火縄銃に見立てたゴム鉄砲のコーナーがあり、戦国大名の人形に輪ゴムを当てる遊びができた。ここは真田ミュージアムだし、今回の旅は「真田丸思い出巡り」である。ドラマ「真田丸」最終回で火縄銃を家康に発砲した際のセリフ、

「私はお前を討ち果たさねばならぬのだ!」

とともに、無事に家康の人形を討ち果たした。

高野山 雪

無事に家康を討ち果たしたので、高野山にも登ることにした。どうも山の上は雪らしいという情報から、そこまで乗ってきた友人の車を九度山に残し、ケーブルカーで高野山へと向かうことにした。

高野山に到着すると、なるほど確かに雪景色だった。以前に来たときも雪だったので、雪じゃない高野山を僕は知らない。

高野山は金剛峯寺を中心にした仏教テーマパークのような場所で、全国から修行僧やら僧侶を目指す若者が集まっている。いわば高野山金剛峯寺=高野町であり、街ゆく人々の半分は僧侶にみえる。もう半分は同行二人に違いない。

まずは奥之院に向かう。奥之院は弘法大師空海が入定されているとされる地で、いまだ弘法大師への食事が運ばれている場所だ。また長い参道には有名企業の慰霊碑や、誰もが知る戦国大名の墓石が並んでいる。巨大な御廟は、信仰の中心の場所なので、僧侶の読経の声が響く荘厳な雰囲気。

奥之院からバスで移動し、高野山の中心である金剛峯寺本坊。高野山一帯の中心地である。金剛峯寺の境内と言った場合、高野山全体をさすそうで、高野町に多くある寺院は全て金剛峯寺の境内ということになる。そんな金剛峯寺オブ金剛峯寺がこの本坊なのだ。

建物内は重要文化財がごろごろある他、現役で儀式法要に使われる部屋などをみることができる。また、さすがに今は使われていないが、江戸時代から続く台所が現存しており、これ自体も重要文化財だというのだから、さすが高野山の中心地である。

本坊のすぐそばに壇上伽藍がある。壇上伽藍は密教思想の曼荼羅の世界観を表現した場所だそうで、奥の院と並ぶ高野山の聖地。聖地オブ聖地。この壇上伽藍、ちょっと縮尺がおかしいほど巨大。扉のサイズが人の身長の3倍はあるので、遠近感が狂う。逆東武ワールドスクエアである。

高野山を一周したところで、日も暮れてきたため急ぎ山を下り、麓の九度山へと戻る。そして一路、宿泊先である大阪へと向かった。

大阪 真田丸最終回

翌朝、僕らは天王寺公園の茶臼山へ。茶臼山は、大阪冬の陣で徳川家康の本陣、夏の陣では真田信繁の本陣となった場所である。

夏の陣の終盤、真田信繁が徳川家康への突撃をかけた場所であり、つまりは「私はお前を討ち果たさねばならぬのだ!」の場所である。

九度山の家康人形を討ち果たすことはできたが、歴史およびドラマ内では真田信繁は徳川家康を討ち果たすことはできず、真田信繁は敗走し、近くの安居神社で徳川軍により討死した。

そんな安居神社は小さいながら存在しており、ここがドラマ「真田丸」と今回の僕らの旅の最後となった。ドラマ内での最後のシーンを一通り再現して、今回の真田丸思い出巡りは幕を閉じた。

大河ドラマ「真田丸」は、もう10年近く前のドラマなのに、こんなにも僕らの心を掴んで離さないのはさすがだ。今後ともことあるたびに語りたい。


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