たまに短歌 滋賀県長浜市4 2024年9月30日 弁財天の島
弁天の琵琶の音いずこ本宅を
探し求めて島々巡る
べんてんの びわのねいずこ ほんたくを
さがしもとめて しまじまめぐる
長浜2日目は竹生島へ渡る。連絡船は往復で申し込むことになっていて、島の滞在時間は90分と決められている。時間で拘束されるのは嫌なので、90分で足りるかと心配していたのだが、大丈夫だった。
竹生島は湖北に位置する信仰の島で、宝厳寺と都久夫須麻神社がある。この島に参詣することも今回の旅行の目的の一つだ。高校生の頃、梅棹忠夫の『知的生産の技術』という本を読んで大変影響を受けた。京大式カードを調達し、タイプライターを買い、ローマ字でノートの整理を試みた。しかし、どうにも上手くいかず、白紙のカードと埃を被ったタイプライターだけが手元に残った。それでも私の梅棹熱は下がることがなく、後年、梅棹が初代館長を務めた国立民族学博物館の友の会にも入り、月刊の小冊子と季刊『民族学』を今なお愛読している。梅棹は日本経済新聞の「私の履歴書」にも登場する。それに加筆されたものが『行為と妄想』という題名で単行本にまとめられた。さらに加筆された同名の文庫版が2002年に発行され、私はその文庫を手元に置いている。その書き出しにこうある。
この一文が狭隘な私の脳裡の一画を占拠しており、竹生島を訪れないわけにはいかないと思っていたのである。
さらに、竹生島は『平家物語』にも登場している。先日のnoteに芭蕉の句について書いた。その句とも関連している。
『平家物語』では、木曾義仲との合戦を控え、平家方の副将軍の一人である平経正は琵琶湖北岸に留まっていた。当時すでに竹生島は信仰の島として有名で、経正は伴の者から目の前に浮かぶ島がその竹生島であると言われて早速参詣することにした。時は旧暦4月18日、松に藤の花が咲きかかり、ホトトギスがあちこちで囀っている。
新暦9月30日で、『平家物語』の「竹生島詣」の時期とは違うことを勘案しても、流石に「筆舌に尽くしがたい」とは思わなかったが、興味深い島だった。
竹生島宝厳寺の本尊は大弁財天で、神奈川県江ノ島、広島県厳島と並び「日本三弁財天」に数えられる。聖武天皇の勅命を受け行基が開眼したと伝えられる。由緒ある寺だが、現在ある本堂は1942年に再建されたもので、境内にある三重塔は2000年に再建された。開山が古い割りに建物のしつらえが新しく見えるのは、日頃の手入れが行き届いている所為があるには違いないのだが、そうした整備事業の寄与もあるだろう。現在は月定院が建物荒廃で非公開となっているほか、常行殿への道が工事中で通行禁止となっている。
目を引いたのは千手観世音菩薩を納めた観音堂の入口を飾る唐門だ。これは大坂城極楽橋の一部で、現存唯一の秀吉時代の大坂城遺構である。秀吉が築いた大坂城は1614年冬の陣と1615年夏の陣で落城し、現在の大阪城の元になっているのは徳川秀忠が再築したものだ。竹生島の観音堂唐門は秀吉時代の「豪華絢爛」と評された大坂城の遺構で、今見てもなるほど「豪華絢爛」だ。観音堂にしても、秀頼が父秀吉の遺命に従い京都東山に普請した豊国廟を移築したものだ。
その観音堂と都久夫須麻神社本殿との間は舟廊下で結ばれている。この船廊下は秀吉の御座船「日本丸」の骨組みを利用して建てられ、都久夫須麻神社本殿は秀吉が天皇を伏見城に迎えるために建設した日暮御殿を移築したものだ。
で、その「豪華絢爛」な唐門や日暮御殿がなぜ竹生島にあるのか。参詣人がタダモノではなかったということだろう。先に『平家物語』から引用したように源平合戦の頃には既に有名な島であった。なぜ有名だったのかは、私にはわからないが、寺の由緒書にこのような一節がある。
今は私如きでも気軽に参詣できる島だが、その昔は違ったということなのだろう。何がどのくらい違っていたのか。残念ながら今はわからないので、期限無しの宿題としておく。とりあえず島に上陸して弁天様にお参りできたことはよかった。
ついでだが、都久夫須麻神社には「かわらけ投げ」というものがある。素焼きの小皿を岸辺の鳥居に向かって投げ、鳥居をくぐれば願いが叶うらしい。私はやらなかったが、ツレがやった。何を願って投げたのか聞かなかったが、小皿は飛ぶどころか、ツレの手元から落下しただけだった。よく観光案内に使われる写真があるが、その鳥居が「かわらけ投げ」の的で、鳥居周辺に玉石のように敷き詰められているのが「かわらけ」だ。人の願いとは無惨というか、儚いものなのであるようだ。