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森ノ宮遺跡展示室(2023/8/20)


1.はじめに

 おはようございます。こんにちは。こんばんは。IWAOです。今回は、森ノ宮遺跡とその出土品について紹介していきます。この森ノ宮遺跡は、博物館施設の中で出土品が展示されているというものではなく、森ノ宮ピロティホールという施設の一室で、年に計10日開催されるのかどうかの短期間のみ一般公開される施設になります。今回、森ノ宮遺跡の出土品は、どのようなもので、どのような遺跡だったのかについて紹介していきます。
(*大阪自然史博物館の常設展示の内容も含みます。森ノ宮ピロティホールで見れるとは限りません。ご了承ください。)

2.構成

 この森ノ宮遺跡は、複合遺跡になり、縄文時代から江戸時代までの遺物が出土しています。主に、縄文時代の遺物の展示が中心になりますが、それぞれの時代ごとに出土品が展示されています。
 また、森ノ宮遺跡を注目させた人骨などの骨も別でスペースが作られ、展示されていました。

展示施設の図面になります。
(*筆者作成)

3.縄文時代

 森ノ宮遺跡は、縄文時代中期から作られるようになり、森ノ宮遺跡の始まりになります。この時代から出てきた人骨が、森ノ宮遺跡を非常に注目させることになりましたが、人骨の何が注目されたのかについては、後に説明させていただきます。人骨を除いてもこの遺跡の出土品は、驚かされるものばかりが出てきます。

土器

 まず、注目される出土品は、土器ですが、「堀之内式土器」と「亀ヶ岡式土器」の2種類になります。この2種類の土器は、森ノ宮遺跡周辺の土器ではなく、「関東地方」と「東北地方」の土器です。この2種類の土器だけでなく、他にも九州地方の西平式など、日本各地の土器が見つかっています。つまり、この森ノ宮遺跡は、交易を行っており、これらの土器が、森ノ宮遺跡が全国と繋がっていたことの証拠となります。

まさか、関西で東日本の土器を見れるとは思いもしませんでした。

 土器で注目してほしい点は、別にもあり、それは、「時期での変遷」になります。この森ノ宮遺跡は、縄文時代中期から始まり、遺跡も持続的に作られました。縄文時代という長い時間で、土器がどのように変化していったのかがこの展示から分かります。中期は、縄を棒に巻き付け、それを土器に押して文様を作っています。後期になると、巻貝を転がせる、又は、太い沈線を削り、文様を区画するなどと土器の文様の作り方の変遷も見ることができます。

縄文時代の土器の変遷になります。
中期から晩期までの変遷がここで分かります。

貝塚

 次に、注目してほしいのは、「貝塚」になります。森ノ宮遺跡は、貝塚が作られ、貝塚を調査した結果、様々な動物を利用していたことが分かりました。貝だけでなく、山の動物、海や川に生息する魚や鯨類などと食性が多様だったことが分かります。

森ノ宮遺跡から出土した動物遺存体全般になります。
こちらは常設展示となっているため、まずは、ここから見るのがいいでしょう。
(*大阪自然史博物館にて撮影)

 特に、この貝塚で注目してほしいのでは、出土する動物と貝が「変化すること」です。この変化は、時代によって、人間が行動そのものを変えたのではなく、「大阪の地形が大きく変わったこと」です。森ノ宮遺跡の貝塚は、初めは、マガキの貝層が中心となって作られていましたが、次第にセタシジミの貝層へと変化していきました。貝の利用の変化に合わせて海寄りの生き物の利用から内湾・汽水~淡水寄りの生物を利用するように変わっていきました。

実際に出土した貝になります。
弥生時代に近づくにつれ、左のマガキから右のセタシジミへと変化していきます。
大阪自然史博物館では、色のついたマークに注目してほしいです。
どの生き物をどの時期に利用したのかが分かるようになっています。

 この生物の利用の変化は、「縄文海進」が大きく関わっています。まず、縄文時代中期は、気候が温暖で、海岸線が今以上に奥の方へと進出していたということを知っている人が多いと思います。大阪では、この頃、今の大阪市辺りは、河地湾という海の中にありました。ただ、後期から海進が止まり、河地湾に土砂がたまり込んで、河地潟、河地湖へと変わっていき、最終的には、河地平野へと変わっていきました。

https://www.suito-osaka.jp/special/history/history_2.htmlより引用

 ただ、縄文海進は、「温暖化したから水の量が増え、日本にその水が流れ込んだわけではない」ということが、最近の定説になっています。最近唱の定説は、「アイソスタシー」になります。これは、北極圏と南極圏の氷床とマントルの動きが大きく関わっています。このアイソスタシーについては、下記で、その詳細が書かれています。

 氷期には、高緯度地方に大規模な氷床ができます。氷床の下にある地殻は、氷床の重みにより沈降します。 その影響は地殻の下にあるマントルにもおよび、マントルは氷床から離れたところへとゆっくりと移動します。

 間氷期になると、氷床が融解し、氷床周辺の地域では地殻が隆起します。 一方、氷床が融解し海水が増えたことにより、氷床から離れた地域では、海水による重みが増した海底が沈降します。 マントルは粘性体であるためすぐには反応しませんが、ゆっくりと時間をかけて、海底の下にあるマントルが陸側に移動します。 その結果、陸域が隆起し、見かけ上、海面水位が低下するという現象が起きます。

 例えば、氷床から離れたところに位置する日本では、最終氷期(約7万~1万年前)以降、氷床の融解が進み、約7000年前に海面水位が最も高くなりました(縄文海進)。 その後、海水による重みが増え、海底の下にあるマントルが陸側に移動しました。その結果、陸地が隆起し、見かけ上、海面水位が低下しました。 最終氷期以降に起こったこの陸地の隆起は現在も継続していると考えられています。

「https://www.data.jma.go.jp/gmd/kaiyou/db/tide/knowledge/sl_trend/GIA.html」より引用

地球はサッカーボールのようなもので、外からの力で変形するという。氷河が解ける過程で、高緯度の陸地ほど重しがなくなり激しく隆起した。「アイソスタシー」と呼ばれる地殻均衡の理論だ。堆積物や地震なら地域差が出るが、アイソスタシーだから関東平野も同じように陸地化した。

長い年月の隆起で、大阪平野を覆っていた「河内湾」は「河内潟」そして「河内湖」になり、面積を小さくしていった。

「https://www.nikkei.com/article/DGXNASHD0201D_S4A700C1AA1P00/」より引用
図にしたものになります。
(*https://www.data.jma.go.jp/gmd/kaiyou/db/tide/knowledge/sl_trend/GIA.htmlより引用)

 縄文時代は、温暖な時代であると言われており、温暖な時代なら、水の量が増え、海の面積が大きくなると考えることができますが、気候だけで決まるわけではないことが分かります。ここが、非常に難しい所ですが、同時に、面白い所でもあります。
 森ノ宮遺跡の貝塚の生物相の変化は、人の行動や生活の変化を示していますが、それだけでなく、地球の歴史も反映している結果でもあります。

*ここで弥生時代の朝日遺跡についても紹介させてください。時代が違いますが、生物の利用という意味では、比較するのが、面白いと思います。是非、ご覧ください。

4.弥生時代

 この時期から、稲作が行われるようになり、大陸から伝わる関係のものが出土し、展示されています。ここで注目してほしい展示は3あります。
 一つ目は、籾痕のついた土器、土器圧痕になります。隣に石包丁が展示されており、この籾の跡に加えて、石包丁があることで、稲作が行われた証拠になると言えます。

モミの跡がある土器になります。
今回は、違うと思いますが、土器によっては、意図的に植物を付けたまたは混ざた思われるものもあるそうです。
石包丁になります。

 次に注目してほしいのは、「卜骨」になります。獣骨に点火した細い棒状のものを押し付け、どのようにして骨にひびが入るのかを観察し、その状況から出来事の吉凶を占うというものです。この風習は、中国から伝わった者になります。また、この風習の詳細は、『魏志倭人伝』にもありました。

黒い所で焼かれており、そこからどのようにして傷が広がるのかを見ます。

その習俗は、挙事(事をあげ行う、事業や仕事を始める)や往来などの時は、骨を焼いて卜し、吉凶を占い、まず卜するところを告げる。その辞は令亀の法のように、火のさけ目をみて兆(しるし)を占う。

 石原道博訳編 『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・ 宋書倭国伝・隋書倭国伝』83~84頁を引用 

 最後は、「タコツボ」になります。タコツボは、池上曽根遺跡で多く出土しており、まさか、森ノ宮遺跡でも見れるとは思いもしませんでした。このタコツボは、これまで見てきたものと同じく「小さい」というのが特徴になります。よって、イイダコを狙うために使用されたの出ないかと感じました。
(*ニフレルでは、復元したタコツボとイイダコを展示しています。)

 以上が、弥生時代の出土品になります。この展示では、「大陸(または外国)と繋がる」ということを強く感じさせてくれる展示品が多かったと思います。

5.歴史時代

 弥生時代以降でも森ノ宮遺跡からは、歴史の遺物は多く出土します。森ノ宮遺跡周辺の歴史だと、7世紀中ごろに前期難波宮が、8世紀ごろには、後期難波宮が造立され、中央権力が、森之宮の近くにありました。
(*大阪歴史博物館では、難波宮とは、どのような都だったのかについて詳細な解説と展示がされています。是非、大阪歴史博物館に行ってみてください。)

*難波宮とは
・前期難波宮・・・大化改新(645年)の後、孝徳天皇の時に、造営された都
・後期難波宮・・・聖武天皇の時に行われた遷都の際の一つ

後期難波宮の跡になります。
(*大阪歴史博物館から撮影)

 中世以降も森之宮は、権力と全く無関係ではありません。森之宮の周辺では、「石山本願寺」が建てられた上、石山本願寺の跡地に豊臣秀吉による大坂城が建てられました。また、豊臣秀吉の大坂城の上に徳川期の大坂城が建てられています。
 私が、面白いなと思った点は、「権力の移り変わりの激しさ」が生で見れるという点です。それまでの権力を否定するために、過去にあったもの、倒したものをぶっ潰し、否定することで、自分達のものを建て、自身の権力を正当化する意図が見えます。権力の移り変わりが、ビルドアンドスクラップになっているなとも感じました。

図にするとこんな感じです。

 ここでは、豊臣期の大坂城の瓦が展示されていました。秀吉と言ったら、「金」や「豪華」を想起させるのが、この展示で分かります。

今の大坂城は、徳川期のもので、石垣なども全て一から徳川が立て直しました。
そういう意味では、豊臣期の大坂城の遺産は、非常に貴重な遺産です。

6.人骨・動物骨

人骨

 この森之宮遺跡を有名にしたのは、「人骨」が出土したことがその理由になります。調査した分だけで、全部で24体分の人骨が見つかり、その中でも注目されるものが展示されています。そもそも森之宮遺跡は、労働会館を建てる時に、貝塚があることが分かり、そこから調査が始まりました。
 森之宮遺跡を有名にした立役者となる人骨は、「第3次1号人骨」になります。大阪市内で初めて見つかった人骨になり、大坂市民第一号と呼ばれました。この人骨の特徴になりますが、「抜歯されていない」ことがわかります。つまり、抜歯がないことを理由の一つにこの人骨は、「成人していない」ということが分かります。また、親知らずもないことも成人していない根拠になります。

こちらが、「第3次1号人骨」です。

 「第4次8号人骨」も注目されます。これは、下顎の骨になりますが、明らかに「加工された痕跡」があります。歯の出てくる所が削られているのが、人骨を見ればわかります。この下顎は、小児の墓から出土しています。また、顎の幅があまり大きくないことを理由にこの骨は、「女性」と考えられます。上記の情報から分かることは、「この顎は、子供の母親のものであり、子供の装身具として使わせていた」、つまり、「お守り」として使っていたのではないかということです。
 人骨を加工したという事実だけでは、恐ろしいですが、当時の社会などを考えた場合、「子供の安全を願う」という気持ちがあったのでしょうか。非常に興味深い展示でした。

「第4次8号人骨」です。
上から光を当てて撮影しましたが、光沢があるので、削ったと分かります。

 第4次2号人骨も注目すべき展示になります。これは、出土した時の様子が分かる状態で展示されています。また、この人骨の注目すべき点は、人物像が明らかになっているという点になります。30代位の女性であったことと少なくとも妊娠したであろうことが分かっています。

第4次2号人骨です。
第4次2号人骨の復元シルエットです。

 まず、女性である根拠は、「骨盤の広さ」になります。妊娠した場合、骨盤が大きくないと胎児を支えられないため、広くなります。また、寛骨の内側のカーブが急になることも女性の特徴になります。妊娠したであろうことは、「妊娠痕」があったことになります。胎児の重みでできる痕跡になり、今回、この人骨で確認できたことが、根拠になります。

図の赤枠部分が、妊娠痕になります。

動物骨

 ここでは、大型の動物骨も出土しており、私が、面白いと思ったものを紹介します。
 まずは、シカの骨です。オスの頭部と下顎の骨が縄文時代の地層から見つかりました。年齢は、8~10歳くらいで、思ったより長生きしているのかなと感じました。このシカの骨で注目される部分は、2つあります。
 1つ目は、「角が折られている」という点になります。シカの角は、当時の縄文人の生活の道具として大切なものになります。なので、利用できる部分は、全て使うようにすると思われますが、これでは、雑だなと感じました。何故、底の部分から切るのではなく、中途半端に折ったのかが気になりました。
 2つ目は、「角が残っている」ということになります。シカの角は、秋に自然に取れ、春からまたはえるという特徴があります。今回の場合、角が残っているということは、少なくとも冬になることには獲られてないことの証拠になります。つまり、シカは、いつ、どのように利用されていたのかを知るためのヒントになるということです。

こちらが、シカの頭骨になります。
水色の部分から分かると思いますが、折れています。

 次は、「マイルカの頭骨」になります。マイルカは、日本列島の近海に生息し、群れで内湾に来ることもあります。この個体は、大坂が内湾だった時に来たものを捕らえたのではないかと考えられます。日本の貝塚からイルカなどの鯨類は、出土しますが、実は、そこまで数は多くないことが分かっており、森之宮遺跡もあまり多くはないらしです。このことから、狩りで捕まえたというよりも漂着したものを利用していたのではないかということが考えられます。

マイルカの頭骨です。

 シカとイルカが、中心となりましたが、動物をどのように利用していたのかで、自然との向き合い方や付き合い方が分かります。私は、生物をしることの面白さは、ここにあると感じます。

7.まとめ

 以上が、森之宮遺跡展示室の紹介になります。一番感じたことは、「歴史を積み重ねてできた遺跡である」ということになります。特に、縄文時代の出土品が注目されますが、縄文時代から途切れることなく、遺物が積み重なってきたからこそできた遺跡になります。この遺跡の積み重ねこそ、素晴らしと思います。
 また、権力の移り変わりであったり、地球の歴史の反映など、見る時代一つで見れるものがここまで違うとは、思いもしませんでした。一つの遺跡でここまで見れるものがあっていいのかと驚かざるを得ませんでした。
 このように取り上げれば、森之宮遺跡の凄さは、キリがありません。しかし、期間限定の超短期間でしか見られないのは、非常に残念です。ある意味伝説の博物館だと思います。また、このピロティホールでの展示のことも知らない人が多いとも言われました。もっと多くの人にこの遺跡の凄さを知ってほしいですし、開催されることを知ったら、開催日に近い時に必ず告知を入れるようにしていきます。
 最後になりますが、ピロティホールの開催期間ではないが、どうしても森之宮遺跡に関する展示品が見たい場合は、大阪自然史博物館へ行くことをお勧めします。こちらは、動物骨が中心になりますが、どのような生物の利用を行っているのかが分かります。これだけでも十分にすごい展示なので、行ける機会があれば、必ず行ってほしいです。

 以上になります。ここまで読んでくださり、ありがとうございます。

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