慶長20年(1615)5月8日は大坂夏の陣で大坂城が落城し豊臣秀頼と淀殿が自害した日。前日までに後藤又兵衛や真田信繫らが討死し豊臣軍は壊滅状態となっていた。大坂城で焼け残った山里曲輪で最後までしたがった大野治長ら30人前後の者たちとともに自害したという。こうして豊臣家は滅亡した。
慶長20年(1615)5月7日は真田幸村の名で知られる真田信繁が討死した日。大坂夏の陣で前日に後藤又兵衛や木村重成らを失った豊臣方。明石全登や毛利勝永らと最後の戦いに挑んだ信繁は家康が自害を覚悟したといわれる突撃を家康本陣に繰り返すも失敗。神社で休息中に西尾宗次に打ち取られた。
慶長20年(1615)3月12日は京都所司代の板倉勝重が豊臣再挙の計画を江戸に通報した日。ここから僅か2か月で秀頼と淀殿が自害へ至る大坂夏の陣。前年12月冬の陣の和議が成立していたが互いに戦準備をしていた。もうすぐ次が来る空気感だったのでしょうね。いよいよ戦国の終わりがはじまる。
慶長20年(1615)4月4日は家康が大坂攻めのため駿府を出発した日。九男・義直の婚儀のためとして名古屋へ。豊臣から浪人解雇も移封も拒否する回答により6日、7日には諸大名へ出陣を命じた。戦国が終わる大坂夏の陣が始まる。双方引けない状況だったのでしょうがどうにもならなかったのか。