慶長16年(1611)1月21日は島津家の最大版図を築いた島津義久が79歳で死去した日。義弘・歳久・家久という有能な弟たちを取りまとめる島津四兄弟の長男で父貴久から家督を継ぐと大友宗麟や龍造寺隆信らと争った九州三国志を制すも秀吉に降る。西軍に属した関ヶ原合戦の危機も乗り越えた。
天正9年(1581)1月16日は豊後国府内にイエズス会が聖職者育成のための神学校であるコレジヨ(コレジオ)を開校した日。府内はキリスト教の布教を庇護した大友宗麟の本拠地であった。後に島津氏に大友氏が攻められ島原や天草へ移転した。学校としてだけでなく活版印刷機での出版も行われた。
弘治3年(1557)7月7日は筑前で大友軍が秋月文種の籠る古処山城攻めをはじめた日。文種は大内氏滅亡後は大友氏に属していたが北九州に勢力をのばしてきた毛利元就の調略に応じて反旗を翻した。大友氏の戸次鑑連(立花道雪)、臼杵鑑速らが討伐を命じられ文種は徹底抗戦するも城中で自刃した。
永禄2年(1559)6月29日は将軍足利義輝が長尾景虎(上杉謙信)に鉄砲火薬調合法の秘伝書「鉄放薬方並調合次第」を贈った日。上洛後に腫れ物を患って坂本(大津)にいた景虎への見舞い品。もともと大友宗麟より義輝へ献上された秘伝書。景虎は義輝の信任厚く頼りにされていたことがわかる。
天文15年(1546)3月10日は肥前の龍造寺家兼が死去し曾孫の隆信(胤信)が家督をついだ日。前年に祖父と父が主君への謀反の疑いで誅殺され仏門にいた隆信が還俗。肥前の熊の異名を持ち大友、島津と並ぶ九州三強の一角を担う。僧で曾孫って…何が世に出るきっかけになるかわからないものです。