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龍造寺隆信を再検討する②  *6/1バスツアー「龍泰寺、今山合戦場跡」編 @佐賀県佐賀市

6月1日~2日、佐賀市において「龍造寺隆信を再検討する ー沖田畷の戦いから440年ー」と題したバスツアー(1日)と講演会&シンポジウム(2日)が開催されたので、満を持して参加してきました。

今回の記事は以下の「龍造寺隆信を再検討する①」の続きです。


さて、佐賀市内のいけす割烹店で昼食後、龍泰寺へと向かいます。
曹洞宗のお寺です。

龍泰寺について

本寺は、『五国二島(筑前、筑後、肥前、肥後、豊前、壱岐、対馬)を領した』龍造寺隆信が少弐氏の居館跡に永禄6年(1563)に建立、寺名は「龍造寺安泰」によるもので、龍造寺氏とくに村田氏(龍造寺本家)と深い関わりのある寺院として知られています。

本堂、位牌所は、佐賀城本丸広敷を解体移築したもので、大正期の建築であり、位牌所の二階の花頭窓は、大書院の古材を転用したものです。また、庫裏も大書院の古材を転用しています。

隆信は本堂の建築前の縄張りを自ら行い、開山には叔父にあたる山口の龍文寺住職要室を招きました。龍造寺隆信は自分の寺の気持が強く、戦の合間に頻繁に参禅に来ました。法門(座禅の主宰者)に対する質問も数度行い、法門に向う時は身の毛もよだち手足もふるえ、法は恐るべきなりと五州の大守であった隆信が言ったと伝えられています。

隆信が島原で戦死した折、太圭和尚(四代)が戦場へ急行して遺体を探し出し、諌早和同寺で荼毘し、寺に持帰った後、法名(戒名)で大和舂日山高城寺と与賀宮で争論し、龍泰寺が勝ちました。

天正一六年(一五八八)に佐賀城の鬼門(東北)の固めとして宗龍寺が造られ、守護仏として隆信の分骨が行われました。その後院号をめぐり龍泰寺、宗龍寺が別の院号をつけ、高伝寺の湛然和尚が調停をしましたが、効果なく、最終的に2代藩主光茂の鶴の一声で落着しました。

即ち「法雲院殿泰巌宗龍大居士」で、今は高伝寺に眠っております。

(曹洞宗平安山龍泰寺HPより一部抜粋引用)


寺名は「龍造寺安泰」から来ているそうで、佐賀藩出身で明治新政府で活躍し早稲田大学を創設した大隈重信の菩提寺でもあります。
(私、4月に大隈重信記念館を初訪問したばかりでして、ご縁がありますよね・・記事は以下。)


龍泰寺にある大隈重信の墓



さて、龍泰寺。ご住職様に案内していただきました。
女性的で優美な山門は龍造寺隆信の母、慶誾《けいぎん》尼が創建した慶誾寺より移築したものだそうです。



本堂


龍造寺隆信の後裔、村田氏歴代の墓。



【村田氏とは?】
龍造寺政家の嫡子、高房の弟にあたる安良の系統。
龍造寺政家は天正18年(1590年)豊臣秀吉から久保田に隠居領を賜り没後その隠居領は二男安良が継承。安良は名を龍造寺から村田に改め、久保田村田氏として佐賀藩親類格となり、藩の重職を歴任した。

村田氏は嫡流家ではないものの、龍造寺隆信の孫にあたる人物から始まる家系ですね。


本堂には龍造寺家、村田家一門の位牌がずらりと並び、壮観でした。隆信公の新しい位牌もありましたが、古いものは(おそらく)墓のある高伝寺に移されたのではないかとのことでした。
また、大隈重信の菩提寺であるこちらには、1889年、当時外務大臣だった大隈候が過激派に爆弾を投げつけられ大怪我を負った際に切断した右足が大事に収められているそうです。現在、大隈家の嫡流は残っておらずお墓も右足も早稲田大学の管理下にあるとのことでした・・。

*大隈重信について、佐賀市観光協会のHPに詳しく出ていたのでリンクを貼っておきます。Wikipediaに掲載されている系図を見ていたら候の養嗣子である大隈信常氏は平戸松浦家から養子に入っているのですね(肥前繋がりか・・)。



本堂左手の位牌所は佐賀城本丸広敷を解体移築したもので、
2階の花頭窓は大書院の古材を転用したものだそうです。


私は長崎市内の出身なんですが長崎では曹洞宗のお寺はあまり見かけず、対して佐賀には多いように思いました。やはり武士の町なんですね。
龍泰寺のご住職様、ありがとうございました。

バスはいよいよ今山合戦城跡へ向かいます。途中、道の駅大和で休憩&お買い物。私は家族へのお土産に
・ブラックモンブランクランチチョコ
・小城羊羹
・佐賀海苔
を購入。こちらの名物は「ラム干し柿ソフト」だったようですが食べ損ねてしまったので、次に訪問する時の楽しみにとっておきましょう♬

さて、バスは今山合戦城跡へ到着。麓にバスを停めて500メートルほどダラダラ坂を上らないといけないそうで、どうしても難しい方は軽自動車で送りますが・・と顔見知りとなった添乗員さん。「私、歩けますかね?」と聞くと「私でも歩けましたから大丈夫ですよ!」とお墨付き(?)をいただいたので(イヤ、どう考えても私の方がかなり年上なんだけど・・)歩いて登ることに。幸い道は舗装されているので、ゆっくりでしたが歩いて登ることができました。


今山古戦場の碑。横から撮影。
(歩き疲れて正面から撮影する気力が無く横から。)

解説板


 戦国時代末期の元亀元年(1570)春、豊後(現在の大分県)の大友宗麟は、肥前の龍造寺隆信を攻めるため、大友八郎親貞(一説には大友八郎親秀ともいう)を総大将とし、進軍を開始。北部九州有力氏族の多くが大友軍に加わり、その数10万騎余りといい、龍造寺軍は圧倒的不利な状況に追い込まれていました。
 同年8月19日、佐賀市大和町今山一帯に陣を構えた大友軍の偵察を行った鍋島直茂は、背後から夜討ちする以外に勝ち目はないと判断、軍議で提案しました。このとき龍造寺隆信はじめ、夜討ちを躊躇する家臣団を隆信の母慶誾尼が一喝したというエピソードが伝わっています。
 8月20日未明、総攻撃を控え前夜から酒宴をしていた大友軍は甲冑も着けていなかったといい、龍造寺軍の奇襲攻撃は功を奏し、瞬く間に勝敗は決したといいます。
 敗走する大友軍と待ち構えていた龍造寺軍は各地で激しい戦闘を繰り返し、多くの犠牲者を出しました。・・(以下略)

(今山古戦場跡解説板より一部抜粋引用)


合戦城跡から佐賀城方面を望む。周囲はミカン畑。


ここで、バスツアーに同乗いただいている歴史研究家の中西豪先生の解説。(歩き疲れて朦朧としていましたが、ざっくりこんな感じのことを仰っていました・・)

・鍋島直茂は僅かな手勢を率いて夜間に小城を迂回して行軍。最終的には300騎ほどであった。
・夜に行軍し朝に奇襲をかけるという、当時のセオリーに沿った戦い。夜襲ではない。
・通説では、劣勢だった龍造寺軍が鍋島直茂の奇襲で大勝利をおさめ大友氏を撤退させたといわれているが、今山合戦はあくまで局地戦である。
・千人塚が2ケ所ほどあり、激戦が行われたのはたしか。
・大友軍の大将でこの時討死したといわれる「大友親貞」は系図等に現れず詳細不明。
(この大友親貞に関しては翌日の講演会で山上先生からも強烈な一言がありましたが、それはまた後日。)

ミカンの木に囲まれたのどかな田園風景の中、そのような激戦があったと想像するのは難しいように思いました。

さて、バスツアーは以上になります。お天気が良くて本当によかったです。
そして1月に左足の甲を骨折し、5月末までリハビリをしていた私。完治してはいましたが、最後まで参加できてよかったと心から思いました。

この日の歩数はなんと10000歩超え!


翌日の講演会&シンポジウムに向け早々とホテルに引き上げました。

ご参加された皆様、お疲れさまでした!

翌日の講演会&シンポジウムにつきましては記事「龍造寺隆信を再検討する③」に続きます。



*龍泰寺のHPはこちら。


*道の駅大和のHPはこちら


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