弘治3年(1557)7月7日は筑前で大友軍が秋月文種の籠る古処山城攻めをはじめた日。文種は大内氏滅亡後は大友氏に属していたが北九州に勢力をのばしてきた毛利元就の調略に応じて反旗を翻した。大友氏の戸次鑑連(立花道雪)、臼杵鑑速らが討伐を命じられ文種は徹底抗戦するも城中で自刃した。
弘治3年(1557)7月7日は筑前の古処山城の戦いがはじまった日。立花道雪(戸次鑑連)らと秋月文種が戦い道雪らが勝利。大友氏三宿老の道雪は上に厳しく下に優しい逸話が面白い。道雪は部下の出来が悪いのは上司の励ましがないからと言い切る。他家にいても手柄を上げたければ俺のところに来いと
立花道雪の家臣への心配り、今風にいえば「ケアリング」も、全ては雷神を斬り捨てることに象徴される一身の武勇に端を発するものである。 その武勇なくば、弱者同士の傷の嘗め合いに堕する。 弱きを護ることができるのは、最強の鬼のみである。
天正14年(1586)7月27日は島津軍が筑前の岩屋城を落とし大友氏家臣・高橋紹運が敗死した日。立花道雪の娘婿で秀吉が西国無双と言った立花宗茂の実父。5万対数百でも徹底抗戦された島津の損害は大きかった。九州制覇を目指す島津の侵攻は鈍化し豊臣軍の九州上陸により撤退を余儀なくされた。