ルイス・フロイス著 松田毅一 川崎桃太 訳 『完訳フロイス日本史 大友宗麟篇』 中公文庫 第六巻から第八巻まで
飽きてきた。ここまでで文庫本8冊。残り4冊なので、引き続いて読むつもりではいるのだが、いつ終わるかわからない。書いてあることの殆どはつまらない。通勤途上で読んでいるが、最近ちょっと短歌を拵えるのに時間を割いていたので、読む方が捗らなかった。ようやく第八巻の終わりまで読んだ。
信長、秀吉ときて、豊後の話だ。後半で秀吉が名前だけチラチラと登場するが、話の主流は本書で「国主フランシスコ」として語られる大友宗麟から「嫡子」とされている後継の義統(後に吉統)に至る時代の豊後に纏わることだ。秀吉の名前が出てくるのは、薩摩が豊後に侵攻した際に、宗麟からの訴えに応じ、地政学上の現状変更を許さないとして薩摩討伐の軍を差し向ける件だ。
大友氏は頼朝の時代から続く名家だが、宗麟がキリシタンとなったことや、宗麟が隠居後も権力を持ち宗麟・義統双頭体制が機能しなかったこと、薩摩の脅威、秀吉の九州平定といった戦国の世の時勢もあり、本書で語られている時期の豊後国内はかなり混乱していたようだ。義統は秀吉から気に入られ、秀吉から吉の字の使用を許されて吉統と改名する。しかし、秀吉の朝鮮出兵の際に吉統が小西行長からの援軍要請に応えずに退却したことが秀吉の逆鱗に触れて改易となってしまう。吉統は幽閉されるが、秀吉の死で豊臣秀頼から特赦を受け、豊後再興は叶わなかったものの、豊臣の家臣として大坂城下に屋敷を構える。関ヶ原では毛利輝元の支援を受け西軍として東軍側の細川家領有となっていた豊後に侵攻。結局、豊後再興が叶わないまま、西軍側武将として捕らえられ、流刑先で1605年に亡くなる。
本書ではキリスト教への信仰に生きたとされる宗麟の最期は芝居の脚本のように事細かに記述されているが、吉統については狡猾で悪意に満ちた権力者として距離を置いた描かれかたをしている。記述の時期の所為もあり、また、改易後は吉統が幽閉されて接触が途絶えた所為もあり、吉統の最期について触れることなく本篇を終えている。恰も大友家の没落は吉統が棄教したからであると言わんばかりのように読めなくもない記述が続く。本書の立場上それは仕方のないことではあるのだが。
宗麟は熱心なキリシタンになったのに嫡子の吉統はそうならなかった。別の人間なのだから考えることが違って当然だが、世界観、価値観、倫理観というようなものは、意識するとしないとにかかわらず、環境に左右される。善悪、正義、好悪といったものは理屈で律しきれるものではない。意識するとしないとにかかわらず、ではなくて意識以前のことではないか。人も、他の生きものも、自分が考えたり感じたりするより、もっと深層にあるものに突き動かされて生きているのではないか。その深層に何があるのかは知らないが。
世の中の仕組みとしては、原理原則のようなものが明文化され、社会生活上のことは議論と多数決によって決めることが「正しい」とされている。主義主張は言語化されたものであることが大前提で、その言語化された主張が対立する主張との正否を問う場合、たとえ非言語化要素が結果を左右したとしても、対立を収めた結果は言語によって説明され、正当化される。宗教の聖典、政治の基本法、経済の利益(数字は言語だ)、その他もろもろ、戦争も結果は言語によって総括される。
人の内心とは遍く言語で表現できるものなのだろうか。言語化できないところを掬いあげて社会と人心との隙間を埋めるのが心を扱う世界の役割なのではないか。宗教然り、政治も然り、おそらく芸術も存在意義があるとすればそういうところだろう。しかし、現実は、非言語と言語の間を埋めるはずのものが教条主義に陥り、結局はその時々の権力の都合に左右される。つまり、機能不全に陥る。そこで宗教も政治も皮相な権力闘争の場となり、分裂を繰り返すことになる。ナントカ教と言ってもそれがある程度の規模を超えるとナントカ派やカントカ派に分裂し、政治も同様で種々雑多な政党や団体が乱立する。対立するはずの党派がそれぞれの主張を言語化すると、同じことを表現を変えているだけだったりすることもある。
フロイスの側がどれほど信仰というものを真剣に捉えていたのか知らないが、日本の権力者の側にとっては政治の道具のひとつに過ぎなかったのではないか。宗麟の信仰の本当のところは本人にしかわからないが、領主として領国の統治を行う上でキリスト教の世界観が都合が良いと考えたというようなことが全くなかったわけではあるまい。フロイスの側にしても、現代の我々は例えばトルシデラス条約に象徴される、列強の対外侵略の方便として「信仰」が利用されていたことを世界史の知識として知っている。
世界観というものは自己認識である。自分というものの存在の正当性を確信するには、自分が生きている世界の構造や座標軸を自分なりに明確に認識していなければならない。そこに宗教の世界観を援用する人も当然いる。自己の経験や思考に無いところを既成の概念で埋めることで世界観が完結する場合もあるだろうし、矛盾を抱えることもあるだろう。人一人の矛盾ならばその人だけの問題として片付けられるが、社会集団としての矛盾となると厄介だ。その厄介を抱えて人間は数千万人という規模から80億人という規模へ異常繁殖し、矛盾が日常化しているように見える。近いうちに様々な矛盾が連鎖的に爆発しそうな雰囲気が漂っている、かもしれない。