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【戦国武将と医師コラム】大友宗麟と立花道雪

 私は、児童精神科医である。大学は生まれ育った地を離れ、研修医までそこにいた。研修医時代は、精神的にも肉体的にもつらかったが、その地は、第二の故郷として、私の中に深く残っている。私のことを思えばこそ、わかりやすく指導してくださったということを思い出すと、力づけられ、また初心に返って身を正すことにつながっている。
 今の私の自信は、昨日までの私の経験が作っている。そして、昨日までの私の経験値は、周りの人たちに支えられてできた賜物である。私が、自分の力だけで獲得したのではない。人は人によって力づけられ、学んでいくものだからだ。
 近年はコロナ禍による新しい生活様式が求められ、今までの常識が通らない世の中になっている。医療現場の混乱は激しく、私の昨年までの職場は、経営陣から病院の収益性と効率化を優先するように求めるようになり、患者ファーストを忘れた診察を強いるようになった。業務は多忙化し、慢性的な人員不足だが、補充されない。人間関係は悪化し、多くの同僚が辞めていった。私も長年勤務した病院を退職した。経営ファーストに走り、本来手を尽くさないといけない部分の診療を、収益性が低いとことごとく切り捨てた経営陣を私が諫めるべきだったのか?私は葛藤した。自分を責め、疲れ切って自室に引きこもった。         
 その時、故郷の親友が突然、私に会いに来た。私が患者のことを考えない病院と見解の相違で辞めたことを知り、心から心配し、遠路はるばる訪ねてきたのだ。友は、何か慰めの言葉を言ってくれたわけではない。憔悴しきった私を見つめ、共に泣いてくれた。
 そしてその後、今後進むべき道について厳しく諭し、力づけてくれたのだ。それにより、私は再び立ち上がり、採算度外視でも子どものことを考えている病院に勤務することができるようになった。それは、まさしく、故郷の親友のおかげだった。
 私は、親友が私の元を訪ねてくれたとき、大分を訪ねたときに大分駅で見た大友宗麟の像をなぜか思い出していた。その像を思い出すと、その家臣である戸次鑑連(立花道雪)のことを思わずにはいられない。
大友宗麟は、海外貿易やその外交力などにより、一時は九州のうち六つの州を支配するほど強大な勢力を誇ったが、酒色に溺れ、民心を省みないなど、自己中心的な面もあり、これを戸次鑑連が諫め諭したとされている。戸次鑑連は自分の主君である大友宗麟に対し、
 「主に過ちがあれば、私は命を投げ出してでも、その過ちを正す。」
という強い信念を持っていた。自らが戦の先頭に立ち、責任を部下に押し付けることなく、家臣たちをまとめ上げた。そして、島津家に敗れ、衰退していく大友宗麟を、見限ることなく支え続けた。戸次鑑連は、あの武田信玄さえも対面したいと懇願していた武将であり、正義のためには、主君にも厳しく諫言するという、すぐれた人物であった。これはまさに、君主や民のことを心の奥底から思いやっていたからできたことであり、まさにサラリーマンの鏡といった存在であると私は考える。
主君に意見するなど、場合によっては、お手討ちになっていてもおかしくなかった。でも、その戸次鑑連の心は、大分県人に引き継がれていると私は感じている。権力に媚びることなく、自分が信じる人と強い絆を作ろうとした戸次鑑連は、現在の大分県人の大事にしているものとつながるのではないだろうか。人はお互いを尊重し、認め、支えあうことで強くなるのだ。          
私はこの武将を決して忘れない。故郷のため、友のため、そして私のもとを訪れる未来ある子どもたちの自尊感情や教育のために生涯をかけ、力を尽くすつもりだ。私は、人と人とのつながりを強固にし、お互いを尊重し支えあう共生社会の実現に向けて努力する。

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