【大内家の野望 新生】第2話:大友軍殲滅戦 〜大分の戦い
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メールマガジン『ビジネス発想源 Special』にて約8年、400回にわたって連載し、AmazonのKindleストアで多く電子書籍化もされている、歴史から経営やマーケティングのヒントを学ぶビジネスコンテンツ『歴史発想源』。
今年7月に新発売となったコーエーテクモゲームスの歴史シミュレーションゲーム『信長の野望 新生』を使って、その第1章「大内二代篇」の状況から天下統一を目指す番外篇「大内家の野望 新生」を連載いたします。
▼第2話:大友軍殲滅戦 〜大分の戦い
■大友家の本拠地、豊前国へと進軍
「仲津の戦い」で大友義鑑の本軍を破った大内義隆軍、その勢いで大友家の本拠地である府内館(大分県大分市)へと全軍で突入。本作ではたくさんの隊を一ヶ所に集中させると渋滞が起こってしまうが、こうなったらお構いなし。
府内館の防御力は非常に高く、また嫡男の大友義鎮(後の大友宗麟)、勇将の戸次鑑連(後の立花道雪)、知将の角隈石宗ら能力値の高い武将が守っているせいで、5000で守っている府内館を1万以上の兵でもなかなか落とせない。当主大内義隆の兵も8000以上いたのに、6000以下に削られていく。後続がガンガン来ているが、大内義隆の討死は避けたい。
しばらくすると「合戦」マークがついた。どうやら大友義鑑自ら出撃してきたらしい。
大友義鑑は3212の兵力で城から出てきた。こちらは10920で3倍以上の兵力だ。しかもこちらが8部隊なのに対して大友軍は1部隊のみ。部隊数の差はかなり重要だが、これはもらったっぽい。
兵力差はあっても、大友義鑑は1部隊が3212人なのに対し、こちらの8部隊はどれも攻城戦で兵を削られて数百程度しかいない。しかし、部隊数が多ければ右から左から自由に展開して攻められて、相手の退き口を押さえることができる。決着をつけてやろう。
戦場の要所を次々に制圧して行って、大友軍が真っ直ぐ攻めてくるのを横目に、別働隊がどんどん後ろの退き口を狙う。同時に谷間に誘い込んで挟撃でボコボコにしてしまう。
こうして第2次「大分の戦い」は、大内軍が圧勝。大友軍は3212の兵が304にも減ってしまう大敗を喫した。これでかなり城兵も減った。
こうして大友義鑑の出撃を大内軍が返り討ちにしたことで、大友軍は城を守る兵がさらに激減してしまい、ついには府内館は大内義隆の手に落ちたのである。こちらもかなりの犠牲を強いられたが、これで大友家も大きく後退することになるだろう。
1549年なので、ちょうどフランシスコ・ザビエルが日本に上陸するイベントが起こったりした。これで領内に南蛮寺を建てられるようになるのだが、大内義隆は史実でも山口でしっかりとキリスト教を庇護した。
府内城が落ちた後、大友義鑑と角隈石宗は東の臼杵城(大分県臼杵市)へと落ち延びた。一方、戸次鑑連は西の岡城(大分県竹田市)に入る。どちらも府内館へ兵を回した後なのでもう数百しか残っていないが、城の防御力がいずれも高いままだ。
臼杵城は四国の黒瀬城の西園寺家に軍を出してもらって、海を渡って攻めてもらっている。きっと落城も時間の問題だろう。岡城へは府内館を攻めていた弘中隆包隊が東から、久留米城を落としていた弘中方明隊が西から攻め入って強攻。念のためまだ1万近くいる大内義隆軍も岡城へ向かう。
名将・戸次鑑連の力を持ってしても、数百の兵では城は守りきれず、岡城はついに大内軍によって陥落。なかなかに手強かった。
そしてその直後、西園寺家が攻めてくれていた臼杵城も陥落。大分の諸城は制圧して、大友家の勢力は南へと後退。いよいよ最終決戦だ。
■大友家の滅亡、そして新たな敵対勢力の出現
大友家に残された城は南の縣城(あがた城/宮崎県延岡市)のみ。しかし、大分の諸城で兵の大半を失ったばかりか、大内家の同盟勢力である日向の伊東家が縣城への攻撃を繰り返してくれていたので、城兵はほとんどいない。
大分の諸城を落とした大内軍の各隊もどんどん南に送り込み、ついに縣城を落とすことができた。こうして、九州最大の勢力を持っていた大名としての大友家は滅亡することになった。
大友家を最後まで守っていた諸将も、逃げ場を失って捕らえられた。「登用」か「処断」か「解放」を選ぶのだが、ここはみんな登用することにしよう。
大友義鎮は大内に降伏しなかったが、高い能力値を持つので解放してやった。それよりも全国トップクラスの能力値を持つ戸次鑑連が恭順してくれたことは何より嬉しい。そしてその後、戸次鑑連はその後も期待以上の働きをして大内家を助けてくれるのである。
さて、九州最強の大友家を滅亡させたと言っても、「信長の野望」シリーズでは放っておくと南の島津家が強大化するのが常だ。早めに島津家とは親睦を深めておきたいものである。
各地の勢力と同盟を結んでいる大内家だが、隈本城(熊本県熊本市)の阿蘇家との同盟期間があと3ヶ月ほどで切れる。ということは次のターゲットは必然的に阿蘇家ということになる。
ちょうどいいタイミングだ。阿蘇家への侵攻に専念できるように、島津家と友好関係になっておこうかなーと、同盟状況を確認してみると……。
大友家がいなくなって九州の勢力図がシンプルになったなあ。……あれ?
阿蘇家の南にいるはずの、人吉城(熊本県人吉市)あたりの相良家がいないぞ。いつの間にか、相良家が島津家によって滅ぼされているじゃないか!
さらに勢いに乗った島津家は、阿蘇家の持つ岩尾城(熊本県山都町)まで攻め取ってしまった。これでは岡城から次のターゲットである隈本城への進軍ルートを閉ざされてしまったようなものだ。
仕方がない。島津家との対決はもっと後に撮っておこうと思ったが、隣接勢力になった以上、衝突は避けられないようだ。全軍、岩尾城へ突撃だ!
大分の岡城や府内館から、延岡の縣城から、さらにはまだ同盟期限が少しある阿蘇家の領土を通過させて、筑後の久留米城などからどんどん兵を送らせる。大友家との決着から兵はそれほど回復はしてないが、島津家も岩屋城を攻める時にかなり減って4000ほどしかいないようだ。
謀略で領内に一揆を起こして、岩屋城から島津家の兵3000を鎮圧に向かわせることができた。これで岩屋城の守りもかなり手薄になったはずだ。
ここに、大友家に代わる九州最大勢力・島津家との激闘が繰り広げられることになるのである。
【武将名鑑】(2)戸次鑑連(べっき あきつら)
大友家の宿老。雷を斬ったという刀剣「雷切」を手に、北九州の領有をめぐって毛利家や秋月家などと戦い続けた歴戦の猛将。後に名家・立花家の名跡を継いで立花道雪となる。娘の立花誾千代が嫁いだ高橋統虎は立花家を継ぎ、柳河藩の初代藩主となる立花宗茂となる。
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【大内家の野望の雑談(2)】
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