天正遣欧少年使節。長崎県南島原市。グーグルマップをゆく㊿
グーグルマップ上を適当にタップして、ピンが立った町を空想歴史散策するグーグルマップをゆく。今回は長崎県南島原市。
長崎県と言えばキリシタンである。南島原市は「島原の乱」の終焉の地でもある。
戦国期のキリシタン大名は、九州と関西に偏っており、九州のキリシタン大名は関西のキリシタン大名とは少し毛並みが違うような印象を受ける。
これは、九州という国取り合戦の中央から遠く離れた場所という環境によるものであろう。また、長崎という貿易が盛んな港を抱えているということも、海外との距離を縮めていたためかもしれない。
大友宗麟を始めとする有馬晴信、大村純忠といったキリシタン大名は、キリシタン国家を作ろうとした。これは関西のキリシタン大名には見られない理想である。
有馬晴信の居城であった日野江城の城下に、大友宗麟と大村純忠とともにイエズス会を後援する形でセミナリヨと呼ばれる司祭や修道士を育成するための学校を設置した。現在の小学校のような西洋式の初等教育機関で、10代前半の少年たちがラテン語や西洋音楽などを学んだ。
この第1期生の中から伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルチノという4名の少年たちが選ばれ、天正遣欧少年使節というローマに派遣される使節団が構成された。彼らはローマに派遣され、10年近い年月を過ごす。
日本の将来のためと嘱望されてローマに旅立ったはずであった。しかし、帰国後の彼らを待っていたのは、地獄のような過酷な生活である。渡航途中の船の中やローマでの生活の中で、帰国後、自分たちが国のためにどうするか、日本にはまだない技術や機械など、何を持って帰ると国のためになるか。そんなことを話していたに違いなく、それを考えると胸が締め付けられる想いである。
帰国後、キリスト教を棄教宣言し、イエズス会を除名されたものがいた。千々石ミゲルである。彼は有馬晴信の従兄弟でもあった。棄教後は有馬、大村氏に使えるも追放され、晩年の不明となっている。島原半島内で隠棲していたようだが、詳しいことはわからない。
イエズス会は、日本国内の布教活動において、寺社の破壊や征服、奴隷問題など、暗い部分も抱えており、そういったことに嫌気がさしたのが棄教の理由ではないかと言われている。
しかし、どうもキリスト教の信仰をやめたわけではなったなかったらしい。勝手な推測をするならば、長いローマでの生活の中で、自分なりの信仰について目覚め、イエズス会の考え方に疑問を感じたのではないだろうか。
さらに妄想を広げるならば、もし日本でキリスト教の弾圧やバテレン追放令などがなければ、彼なりのキリスト教のあり方によって、日本の仏教のように独自のキリスト信仰が生まれていたかもしれない。
あくまで勝手な想像である。