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【感想】NHK 歴史探偵「戦国ご当地大名シリーズ 大友宗麟」を視聴しました

2024年6月19日(水)22:00~22:45 歴史探偵「戦国ご当地大名シリーズ 大友宗麟」を視聴しました。

<NHKのあらすじ>
戦国ご当地大名シリーズ、一番手は豊後のキリシタン大名・大友宗麟。
ポルトガルに残る一枚の宗教画からヨーロッパと繰り広げた世界戦略に迫る。
南蛮渡来の国崩がさく裂だ!


■プロローグ

●スタジオで
ご当地の戦国大名シリーズ第一弾、大友宗麟です。
戦国時代の年表
1467年応仁の乱
1492年コロンブス アメリカ大陸到達
1498年ヴァスコ・ダ・ガマ インド航路発見
1522年マゼランの船隊 世界一周
1530年大友宗麟誕生
1543年鉄砲伝来
大友宗麟、ポルトガルで王と呼ばれていました。
佐藤所長「何でヨーロッパで王と呼ばれるんですか?」

■大友宗麟の痕跡

●ポルトガル・リスボン
ポルトガルの歴史を象徴する場所へ

●フランシスコ・ザビエル
テージョ川
・ペドロ・コレイヤさん(リスボン大学)
こちらは発見のモニュメントで、大航海時代に活躍した人々の像です。
日本と深い関わりを持つ人物、フランシスコ・ザビエルが彫られています。
1541年、リスボンを出発、ゴア、マラッカ、1549年、日本にたどり着きます。
コレイヤさん「コインブラという街に大友宗麟とザビエルにまつわるものが残っています」

●イエズス会
コインブラ新大聖堂
イエズス会によって建てられました。
16世紀、ポルトガルやスペインの援助を受け世界各地に宣教師を派遣します。
ザビエルの像、宣教師の一人でした。
聖具室の絵画
ザビエルが大友宗麟と面会した場面の絵画です。
大友宗麟が大名っぽくない、西洋の王様みたいに王冠を被っているのが不思議です。
なぜ、遠く離れたポルトガルで、2人の対面が描かれたのか?

■1549年ザビエル来日

薩摩・島津氏との関係が険悪になり、その後、京都でも布教活動に苦戦します。
そんなザビエルを迎え入れたのが大友宗麟でした。
「豊後の領主は我々をたいそう歓迎してくれ、心はおおいに慰められた」『フランシスコ・ザビエル書簡集』
教会を建てるための土地まで与えられました。

●豊後の王
アジュダ宮殿
イエズス会宣教師の書簡に「豊後の王」と書かれています。
この手紙は日本に来て10年以上後に書かれたものです。
宗麟は大名にすぎず、宣教師たちも知っていました。
なぜ宗麟を王と呼びヨーロッパに伝えたのでしょうか?
コレイヤさん「ポルトガルから得られる援助が必要だからです」
布教に箔が付くと考えていました。
宣教師の情報によって、宗麟へのイメージを膨らませていきます。

●ヴァイセンシュタイン城(ドイツ)
ここでも、ヨーロッパの王に似せた大友宗麟が描かれていました。
西洋では豊後への幻想も膨らんでいきます。
九州全土を治める君主とみなしていました。
コレイヤさん「イエズス会の情報に頼るしかありませんでした。ヨーロッパの王にまで届けられたのです。
宗麟は強大な王として認識されることになったのです。

●スタジオで
佐藤所長「ちょっと話を盛ったのは納得です」
・鹿毛敏夫さん(名古屋学院大学)
「これらは江戸時代に書かれた絵です。当時西洋人で日本に来た画家はほとんどいない。」
佐藤所長「そもそもこの絵がザビエルのものだと分かったのですか?」
鹿毛さん「文献の記録と一致したので大友宗麟ということになったのです」
「ザビエルのパートナーとして功績が上がるかを考えると、唯一の大名が大友宗麟でした」
宗麟への幻想が戦国の歴史に影響を及ぼします。

■宗麟への幻想

ポルトガル国立古美術館
ポルトガル王、ドン・セバスティアン1世の肖像です。
幼いときからイエズス会の教育を受けたセバスティアン、宗麟に興味を抱きました。
「豊後の王に手紙を送れ」
リスボン科学学士院図書館
セバスティアン王の書簡
豊後と書いてあります。「キリストの教えを受け入れることを望みます」
改宗を強く促そうとしたのです
セバスティアンは宗麟をキリシタンにするため、破格の申し出をします。
「あなたが望むものすべてに応じるよう取り計らいましょう」

■世界を取り巻く状況

●世界分割(デマルカシオン)
ポルトガルとスペインは勝手に勢力圏を定めます。
自らの勢力圏の支配と貿易を円滑に行う狙いがあったのです。
セバスティアンの手紙には、布教戦略が記されています。
「改宗する人は身分が高ければ高いほどよい、聖なる教えを受け入れるだろう」
長崎の領主・大村純忠と6万人がキリシタンになったと記されています。
大友宗麟を改宗すれば一気に改宗できるはずです。
しかし、ポルトガルの計画はうまくいきませんでした。
宗麟が改宗を拒んだのです。

●改宗を拒んだ理由
仏教徒がサビエルに会う宗麟に怒りを表明している絵画です。
豊後は禅宗や神社の力が強く、家臣たちの中には強い警戒心を抱くものがいました。
1562年、宣教師たちを衝撃が襲います。
宗麟が出家、仏門に入ってしまいます。
宗麟の行動の裏側にあったものとは?

●宗麟の行動の裏
大分市
戦国時代、府内と呼ばれていました。
大友氏館跡で発掘調査が行われています。
・坪根伸也さん(大分市)
南蛮貿易の仲介を行ったのが、イエズス会の宣教師たちでした。
発掘されたものには、中国や東南アジア産の陶磁器、ベネチアングラスまで
「イエズス会を動かすためのカードに使っていたのです」
さらに宗麟は宣教師たちに大砲を求めました。
その破壊力から国崩と呼ばれるまでになります。
・神田高士さん(元臼杵市)
「日本で大砲を入手したのは宗麟しかいませんでした」
宗麟の支配地域は北九州一面に及びます。
ヨーロッパのイメージ通り、豊後の王にふさわしい力を得ます。

●スタジオで
佐藤所長「したたか、優秀ですよね」
「黄金で装飾された短刀を贈ることで、国王との友好関係を深めようとしました」
「火薬の原料・硝石が必要で、宗麟は敵対する毛利元就には硝石を送らないでという手紙を出してます」
戦国時代に様々なものが日本にもたらされました。
火縄銃、ジャガイモ、カステラ、メガネ
日本からポルトガルに渡ったものはないのか?
ポルトガル国立古美術館
南蛮屏風、狩野派によって描かれています。
屏風などの工芸品、屏風をポルトガルでいうと、BIOMBO=ほぼ屏風です。

■戦国大名同士の争い

●大きな決断
ポルトガル国立図書館
ルイス・フロイスが書いた『日本史』1578年の記述です。
「豊後の王が修道士に胸中を打ち明けた。洗礼を受けたい」
宗麟にいったい何があったのでしょうか?

●大阪・堺
堺市文化財調査事務所
・續紳一郎さん
中世の堺から出土した宗麟の時代の壺です。
豊後で産出した硫黄を堺に運んだと見られています。
堺の壺と同じ形のものが大分でも見つかっています。

●大分
大分県立埋蔵文化財センター
・後藤晃一さん
「この壺はタイのメナム川流域で作られたものになり、コンテナ(容器)として使わました」
では、タイから豊後に運ばれたものはなにか?
タイで産出された鉛でした。
鉄砲玉に使われた重要な軍需物質です。

●東南アジア貿易の強敵
宗麟の生命線といわれる東南アジア貿易に強敵が現れます。
島津氏です。
島津氏がイエズス会に宛てた手紙
「宣教師の到着を心からお待ちしています」
1576年島津が日向国(宮崎県)に侵攻
もし宗麟にとって日向国を奪われれば大分は打撃です。
1578年宗麟はついに洗礼を受けることを決意、フランシスと名乗ります。
鹿毛さん「軍事的緊張状態の中で、受洗の切り札を最後に切って、外交的な支援を受けたかった」

●耳川の戦い
1578年宗麟、島津を打つため出陣、ポルトガルの十字架の旗を掲げ、大砲も。
耳川の戦いです。
大友軍内部で不穏な動きが広まっていました。
家臣はいかにキリスト教が広がらないか議論していました。
・岡美穂子さん(東京大学)
「キリシタンへの改宗しきれない家臣もいて、小領主は大友に忠誠を誓いきれなかった」
敵陣へ深入り、島津軍の逆襲で大敗
領主たちが離反、急速に衰えていきました。

●スタジオで
9年間島津と戦いますが、秀吉に援軍を求め、九州へ出兵しています。
鹿毛「1578年、セバスティアンもモロッコで敗北し行方不明になり、スペインの宣教師が入ってきます」

ーーーおわりーーー

次回は「江戸の大ヒットメーカー 歌川広重」6月26日(水)22時放送です。

■感想

嫌な予感しかなかった大友宗麟の回。
その予感が的中してしまいました。
戦国時代の小大名が生き残り策としてバテレンに手を伸ばしてしまったのが運の尽き、結局家臣に見放され、衰退していくことになりました。
という話をバテレン側から見た番組でしたね。
まあ、衰退したことで隠れキリシタンも長崎ほどはいなかったんでしょう。
大きな害悪は避けられました。
新興宗教に手を出すと痛い目に遭うという教訓です。
その点、徳川は宗教と貿易は切り離して考えていて、失敗しなかったのです。
国と地方大名の立場の違いはありますが、徳川の知略が勝っていたことを証明しました。
イエズス会などポルトガル・スペインの集団というのも、純粋な布教活動のための団体ではなく、貿易あわよくば占領を目的とした戦闘集団です。
フィリピンが良い例(悪い例?)です。
古くはピサロのインカ帝国があります。
外国人が日本に押し寄せる現代でも、優しさの裏には何かあると疑ったほうが良さそうですね。


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