新名一仁編『戦国武将列伝11 九州編』を刊行します
6月の新刊、新名一仁編『戦国武将列伝11 九州編』が刷り上がってきました。昨年より刊行が始まった「戦国武将列伝」シリーズの6弾目になります。
刊行に先駆けて、下記に本書の「はしがき」をアップしました。編者の新名先生による戦国期九州の概説や研究状況、編集方針等がまとめられていますので、ぜひご覧ください。
特に本書を読む上で、戦国期の九州を考える際にイメージしやすい大友・龍造寺・島津氏の三氏鼎立という状況は約9年間に過ぎず、実はずっと群雄割拠の時代が続いていたということ、そして九州北部については大内氏や毛利氏の影響が大きかったという前提は重要だと思います。
はしがき
九州の戦国時代というと、大友・龍造寺・島津の三つの戦国大名が鼎立しているイメージが大きい。ただ、この三氏鼎立の状況は、天正六年(一五七八)の高城・耳川合戦で、大友氏が島津氏に大敗を喫して以降のものであり、豊臣秀吉が九州に進攻し、島津氏が降伏する天正十五年(一五八七)まで、戦国最末期のわずか九年間にすぎない。
十六世紀に入ってから、一五七〇年代までの八十年弱、九州でもさまざまな勢力が激しい抗争を繰り広げていた。その前半期は、博多を中心とする北部九州の支配権をめぐる、周防・長門の大内氏と、豊後の大友氏・肥前の少弐氏の対立を軸とし、肥後菊池氏や中小国衆(戦国領主)が両勢力と合従連衡して一進一退の攻防が続いていく。九州南部では、島津氏の分国内で抗争が始まり、有力一族・国衆の自立化が進むとともに、もともと島津氏から自立していた日向伊東氏の支配権が強まっていく。
十六世紀後半になると、主役たちが次々と交替していく。大内氏は天文二十年(一五五一)に当主義隆が陶晴賢のクーデターにより没し、大友義鎮(宗麟)の弟義長が擁立されるも、弘治三年(一五五七)に毛利元就によって滅ぼされ、九州北部での抗争は、毛利氏対大友氏へと変わる。九州の守護家も、永禄二年(一五五九)、少弐冬尚が龍造寺隆信に滅ぼされ、肥後守護家である菊池氏も永正元年(一五〇四)に能運を最後に嫡流が途絶えると、庶子家や阿蘇大宮司家、大友氏が次々と家督を継承するも、安定的支配を確立できず、天文二十三年に滅亡している。こうした間隙を縫って、肥前では、高来郡南部の国衆有馬氏が、天文年間(一五三二~五五)から永禄初頭にかけて肥前西部全域を勢力下に納め、晴純・義貞父子は幕府から守護家待遇を受けるなど、全盛期を迎える。肥後でも球磨郡の国衆相良氏が一族間の抗争を経て、天文年間には相良義滋が球磨・芦北・八代の三郡を制圧し、全盛期を迎えている。
残る室町期以来の守護家は、大友氏が一族間の抗争を克服し、義鎮(宗麟)・義統のときに全盛期を迎える。毛利氏との抗争は、永禄十二年(一五六九)に巧みな外交力で筑前・豊前制圧に成功する。義鎮は九州のうち北部六か国の守護職を兼帯し、九州探題にも任じられ、九州の覇者となった。のちに戦国大名化する龍造寺隆信や相良氏も大友氏の従属国衆にすぎない。九州南部の島津氏は、天文八年(一五三九)までに庶子家出身の島津貴久が抗争を制して守護家の継承に成功するものの、薩摩・大隅・日向三か国の制圧は貴久の子義久の代、天正六年の高城・耳川合戦までかかっている。
本書では、戦国大名化を遂げた大友・龍造寺・島津の三氏を中心に、その家臣や各国の有力国衆をとりあげ、各武将の列伝というかたちで、わかりやすくその動向をまとめた。ただ、肥前や豊前、九州南部など必ずしも全域をカバーできなかったことは、ご容赦いただきたい。
九州の戦国期は、大内氏や大友氏、博多を中心とする対外関係史を除くと、東国や中国地方に比べて著しく研究が遅れていたが、二十一世紀に入る頃からようやく、戦国大名を中心に一次史料に基づく研究が進みつつある。さらに、自治体史の編纂が進むなかで、従来軍記物などでしか語られなかった国衆たちの実像もあきらかになりつつあり、中世史研究者が豊富な熊本県では、相良氏の論集が編纂されるほど研究が進展してきた。平行して、中世城郭の縄張り調査や発掘調査が進み、政治史との連携も進んできている。本書では、こうした研究の進展も反映しており、変わりつつある九州の戦国時代像の一端を学べるだろう。
本書をきっかけに、各地域の戦国史が見直され、手薄な地域の研究を志す人が現れることを期待したい。
二〇二三年三月
新名一仁
試し読み
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