やはりこの本はとても重要で、復帰後の中平の写真は「手の痕跡」どころか「言葉」すらを捨てている。 晩年の作品は主体/客体の二項対立が揚棄され、「存在」になってしまった。 しかし写真なんてただの幻影。自我=言葉を捨てたら「空」だった。 存在自体が空だった。 写真の極限は禅。
3月頭のこと。中平卓馬の「以前」の熱量を感じてきた。時代のうねりを感じるというか。逆に「以後」をどう捉えたら良いのか考えさせられた。「以前」と「以後」を知らずに見たとしたらどんな感想をもったのだろう。