見出し画像

雑感記録(333)

【〈記録〉か〈表現〉か、はたまた…】


 くり返しになるが、写真家はすでにある言葉、ア・プリオリに捕獲された世界の意味を図解する者ではない。なぜならぼくたちにとって真に現実である物は、それらの概念となった言葉から抜け落ち、命名を拒否する何ものかであるからだ。写真家は音をたてて瓦解してしまった世界をはりつめた凝視の中でさしあたってこれだけは真実だと確信する、〈特殊な〉〈限定づきの〉現実をいくつもいくつも積みあげてゆき、世界の再構成を夢想するロマンティストなのだ。だから一枚の写真はもはや表現ではない。それはすべての形容詞を拒絶してぼくたちに問いを発し続ける一つの疑問形の現実なのだ。この時、それを記録した写真家は姿を消す。あるいは写真は本来的にアノニマスなものかもしれない。

中平卓馬「リアリティ復権」『見続ける涯に火が…』
(オシリス 2007年)P.45

最近、カメラをやっている中学時代の同級生に僕の写真を撮影してもらった。暑い中、僕のホームグラウンド(と書くと些か仰々しいのだが)である神保町で写真撮影をしてもらった。真夏。暑い日差しが照り付ける中で汗だくになりながら撮影してもらった。こういう友人を持つ事は有難いことである。ちなみに写真の依頼は随時受け入れているそうだ。下記にInstagramのリンクを貼っておくので希望があればぜひ。

https://www.instagram.com/yoshito.photography?utm_source=ig_web_button_share_sheet&igsh=ZDNlZDc0MzIxNw==

撮影された写真を見て僕は全部気に入っているのだが、中々自分の写真を撮られるとどこかこそばゆいものがある。それに、しっかりとしたカメラで撮影されると鮮明に写し出されるのであり、自分が幾分か格好良く見えてしまうのである。自分でこう書いておいてそれこそこそばゆい訳だが、しかしこういう経験は良いなとも思う。「ちゃんとした」という表現が正解かどうかは僕の知るところではないが、人生で1度ぐらいは「ちゃんとした」写真を撮影してもらうのも経験のうちである。

それではたと、「自分はいつもどんなものを写真に収めているのだろう」と自分自身の中で振返ってみることにした。僕は自身のスマホのカメラロールを上から下へスクロール。意外と写真が沢山あるんだなと半ば他人事のように眺め、その1枚1枚に「ああ、こういうことあったな」と喚起される記憶の渦に僕は晒される。


カメラロールを見ていると、どうも僕の撮影する写真は味気ない。

と言うよりも、本の写真と猫の写真と景色などの写真が殆どで、自分自身が映っている写真など殆どない。だが、それでも喚起される数多くの記憶は僕の中に存在している。自分で言うのも恥ずかしい訳だが、僕の記憶力は結構良い方である。だが、いつだったかの記録で書いたと思うが、人間の記憶なんてあやふやであり、それが「正解である」と言えるのは相手が同じ記憶を所有していることが前提である。意外に難しいことである。

記憶と言うのは独りよがりである。

例えば、ある1つの写真に映るAさんとBさん。Aさんは「a」という固有の記憶を持っているが、Bさんは「b」という固有の記憶を持っている。お互いに異なる記憶を持っている訳である。同じ場を撮影当時には共有しているが、異なる記憶を保有する。当然と言えば当然である。単純にAさんとBさんはそもそも異なる視点を持っているからである。説明するまでもないが、同じ空間に居て同じ景色を見ていたとしても感じることや見ている部分は細かく見れば異なっているのだから、記憶に軽微であれ差が出るのは言うまでもない。

僕が問題としたいのは、その差をどう捉えていくかということである。だが、それは前提として自分と他の誰かがその場を共有していることがある。しかし、1人で撮影した場合はどうだろうか。例えば僕のカメラロールにある写真たちは、僕1人で撮影している訳で、僕自身のみが記憶を呼び起こすのである。カメラは記憶を保有する訳ではない。カメラで写真を撮影している、消失している過去の僕と現在、時を経て見ている僕と言う2者の間での記憶の擦り合わせが開始される。これは果たして同一人物と言って良いのだろうか。

カメラそのものが記憶を持つ訳ではない。そして映し出されるもの自体が記憶を保有している訳ではない。そして映し出されたものが記憶を持つものだとは思えない。先に少し触れたが、あくまで「記憶装置」の働きをするまでであって、見ている人間にその撮影当時の記憶を思い起こさせるだけの話である。と考えると、芸術写真(というジャンルがあるのか分からないが)と言うものは一種特殊なものなのではないかと考えてみたりする。

この記録を書きながらちょこちょこ休憩を挟みながらベンヤミンの『図説写真小史』を読んでいる。あまり集中して読めてはいないが…。

カメラに語りかける自然は、肉眼に語りかける自然とは当然異なる。異なるのはとりわけ次の点においてである。人間によって意識を織りこまれた空間の代わりに、無意識が織りこまれた空間が立ち現れるのである。たとえば人の歩き方について、大ざっぱにではあれ説明することは、一応誰にでもできる。しかし〈足を踏み出す〉ときの何分の一秒かにおける姿勢となると、誰もまったく知らないに違いない。写真はスローモーションや拡大といった補助手段を使って、それを解明してくれる。こうした視覚における無意識的なものは、写真によってはじめて知られる。それは衝動における無意識的なものが、精神分析によってはじめて知られるのと同様である。元来カメラには情緒豊かな風景や魂のこもった肖像よりも、普通は工学や医学が相手にする構造上の性質とか細胞組織といったもののほうが縁が深い。しかし写真は同時にこのような素材において、物質の表情というべき面を開示する。それは微細なものに住まう形象の世界であり、意味づけが可能であってしかも秘められているので、白昼夢のなかに忍びこむこともあった。しかしこの世界はいまやカメラによって拡大され、はっきりと表現されうるものとなった。

久保哲司監訳 ヴァルター・ベンヤミン「写真小史」
『図説写真小史』(ちくま学芸文庫 1998年)
P.17,18

この「無意識的なもの」の例えでベンヤミンは「〈足を踏み出す〉」ということを例に挙げている訳だけれども、言いたいことは分かる。僕も実際に友人に撮影してもらった写真を見て、ある一定のポージングを決めていた訳だけれどもその瞬間の表情までは僕には分からなかった。だが写真にされるとその無意識的な表情が映し出され眼前に現れるのである。

僕はこれまで「記憶装置」としての写真として書いてきた訳だが、それはこのベンヤミンが指摘するように「無意識的なもの」が可視化され、「はっきりと表現されうるものとなった」からこそ直接的に僕等の記憶に訴えかけてくるようになったのではないかと取り留めもないことを考えてしまうのである。ま、くだらぬ話さ。


さて、タイトルに僕は『〈記録〉か〈表現〉か』という言葉を冠した。

撮影された僕は「記録」なのだろうか、はたまた「表現」なのだろうか。単純に言葉上で考えてみると、それぞれの言葉を「誰かの記録」「誰かの表現」という書き方をすると少し事情が見えてくるような気がしてくる。つまり、「誰かの記録」は被写体の記録であり、「誰かの表現」となると写真家の表現となる訳である。あまりにも突飛すぎるし吟味していないので説得力は全く以てない訳だからあてにはならない。

撮影されるということは、僕自身にとっては「記録」だが、それを撮影する人にとっては「表現」となる。それは1つの作品であり、僕は友人の1つの作品となる訳である。そしてそれら2つあるいは様々な要因が組み合わさり芸術足り得るのではないかとこれまた突拍子もないことを書いてしまう。しかし、そう考えてみると写真家が何かの物や景色を撮影するということは芸術となり得るのか。

先程、僕は自己の他者性みたいなことを書こうと思った訳だが、それで解決(する必要も無い訳だが)を試みようと思っている。1人で撮影する景色には、それを撮影した当時のカメラの背後に存在している自分自身と映し出された写真を眺める自分自身という2人が少なくとも存在している。そう考えると写真というものはそれを見る人、撮る人という空間の中で初めて写真たり得るのではないだろうか。とこれまた至極当たり前のことを恥ずかしげもなく堂々と書いてしまう。

物や景色などはそれ単体では「物」や「景色」足り得ないのではないだろうか。誰かが居て初めてそうなるのではないだろうか。と言うよりも、そもそも「物」や「景色」などという言葉自体、我々人間が勝手に名付けたものであるのだから、人間存在が居なければそこに映し出されるものは何物でもないというのは至極当たり前のことではないだろうか。

カメラで撮影されるということの1つの恐ろしい所は「名づけえぬもの」を可視化してしまうことにある。先のベンヤミンの引用で言うところの「無意識的なもの」である。僕等が想像で補う部分を明確に鮮明に炙り出してしまう。それはそれで進歩的な意味合いで言えば良いのだろうが、それを芸術という観点で考えた時にどうなるだろうか。

この記録の始めで中平卓馬を引用した。

彼は「命名を拒否する何ものか」と表現している。だが、それは難しいことなのではないか。そこに映し出されるものは結局「何ものか」ではあるのだ。映し出されている「何ものか」なのだ。それは命名されていないものであるとは言え、存在してしまっているのである。写真家がどれだけ「命名を拒否する何ものか」を撮影したとしても、それを受け取る側の人間にその意識が無いと難しいものではないのか。何故なら、僕等は意味を与えられないと宙吊り状態になってしまうからである。


結局僕等は常に意味を求め続けていかなければ生きていけない生物なのかもしれない。例え「それに意味はない」と分かっていても、それを受け入れることが出来ないでいる。それは言葉によるところが大きいのだろうか。言葉で何でもかんでも表現出来てしまえるという信奉が少なくとも存在しているということに起因するものではないだろうか。

勿論、言葉は一応自分自身のあらゆることを表現できる借り物として存在する。自分の気持ちや考えていることを言葉にすることで相手に伝える。それは大切である。しかし、それ以外にも方法はある。僕は「沈黙」が最近では大切なのではないかと考え始めている。ウィトゲンシュタインではないが、僕等は「語り得ぬもの」を目の前にした時、言葉を捻出する必要があるのだろうか。「沈黙」も1つの言葉である。

写真には言葉は無い。事実そうだ。そこには僕等の眼で見るような光景が映し出される訳であり、そこに言葉はない。だが、「そこに言葉がある」のではなく、見ている僕等に言葉があるのである。先から何度も書いているように、写真は記憶装置であり同時に言葉の生成装置であるのだ。だから写真そのものが言葉を持つのではなく、写真は言葉を誘発するのみである。そして意味を与えるのは言葉を持つ僕等でしかない。

言葉があるから意味を持たなければならない。

僕等の存在そのものだけがあるから意味が生起するのではなく、そこに言葉があるから初めて意味が生起する。そして名付けるという行為によってあらゆるものに意味が付与され、自分自身の存在そのものが現実に屹立するのである。言葉は厄介だなと改めて思い知らされる。それと同時に、どうやって意味を言葉を以て超越するかということに面白さがあるのではないかということを少し考えてみたりする。

僕は自分自身を撮影してもらった。そこに言葉はない。あるのはそれを見ている僕と、その当時撮られた僕の記憶である。過去の記憶から僕は現在の僕に接続する。写真はそういう意味で言うならば、過去と現在を繋ぐ接合的な役割があるのではないかと思われて仕方がない。


僕はあまり積極的に撮影することをしない。それは技術的な部分で自信がないという所も当然にある訳だが、しかし「これは良い」と思った瞬間にはカメラを構えていたいということを感じることはある。

再三の繰り返しになるが、写真は言葉を持たない。

だからこそ、「命名を拒否する何ものか」であるからこそ、そこに僕等の余白、僕が再三に渡って書いている「あそび」が存在するのではないだろうかと考え始めているのである。写真にはそういった人間と人間あるいは、人間とものとの距離感を上手く掴むための何かが潜んでいる筈だ。僕にはそう思えて仕方がない。

よしなに。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集