みっちぇる
文学、哲学、美術などなど芸術に関することについて唯々、感じたことを連ねる日記です。 ※雑感記録"(361)~を収録します。
文学、哲学、美術などなど芸術に関することについて唯々、感じたことを連ねる日記です。 ※雑感記録"(341)~(360)を収録します。
文学、哲学、美術などなど芸術に関することについて唯々、感じたことを連ねる日記です。 ※雑感記録"(321)~(340)を収録します。
文学、哲学、美術などなど芸術に関することについて唯々、感じたことを連ねる日記です。 ※雑感記録"(301)~(320)を収録します。
文学、哲学、美術などなど芸術に関することについて唯々、感じたことを連ねる日記です。 ※雑感記録"(281)~(300)を収録します。
【これまでの総括と定点観測】 はじめに 僕はnoteに日々感じたことや考えたことをあること無いこと書いている。その時々、触れた作品や出来事によって思考が変化して行く訳だが、根本の思想みたいな部分は変わらない。様々に記録を残していく中で自分の中にある根本思想みたいなものがまばらになってしまい、実際自分自身でもどれがどれだか彷徨ってしまうことがある。そこでこの記録では自分自身の根本思想的な側面だけを取り出して書き上げてみたいと思う。 先に断っておくが、これは自分自身の為に書
谷川俊太郎について書こうと思ってnoteを書き出したが あまりにも書きたいことが多く、断念した。 もっともっと味わってからゆっくり書きたい。 それにしてもこの『沈黙のまわり』、特に初期のエッセイは 感動するものばかりである。 今日はつぶやきにて。よしなに。
【駄文の円環part17】 最近どうも気持ち良く文章が書けないでいる。 それに加えて、読む気力みたいなものも無くて、今自分は本当に何をしているんだろうかと心中穏やかではない。こういう時に「焦ってはいけない」ということが思惟されたとしても、身体機能としての働きとしてはどうも動かない。例えば仕事から自宅に帰り、お風呂やら掃除、夜ご飯を済ませた後の自由時間。僕はただダラダラとNetflixかAmazon Primeを見ている。本は僕を圧迫するし、自分も本を読みたいし、noteも
【「リアル」と「現実」の狭間で】 今日、僕が好きな作家さんの展示を見に行って来た。 小林敬生さんを知ったキッカケは、僕の記録で何回も登場している、僕の恩人である社長が教えてくれたことによる。つい先日、社長が東京にいらっしゃるとのことで、彼女の紹介も兼ねて一緒に食事に行って来た。いや、誘っていただいたというのが正しい表現だ。その時に小林敬生さんの個展が銀座でやるとのことで、社長がいらしたということを知った。僕もぜひ行きたいと思い、会期の最終日である今日銀座のシロタ画廊へ行っ
【1年≠365日(回)】 1年は365日だと言う。閏年を考慮すれば366日になる。僕等は普段生活していると「ああ、1日は早く過ぎて行くな」とか「もう12月!?早いな…」とか僕等の体感は事実365日分の時間を生きていない。だけれども、そんな感覚を置き去りにして365日という無機質なものは僕等の感情をまるで無視して、ただ刻々と進んで行く。 今日で僕の記録は365回目を迎える。「だからどうした?」と思っている反面、1年分の量を書くのに僕はおよそ2年の時間を費やした。1年は365
【夜の戯言集11】 風邪から回復して数日が経つ。風邪を拗らせていた時、僕は紙タバコを吸わずにいた。電子タバコはちょこちょこ吸っていた訳だが、紙タバコは彼是2週間程吸っていなかった。 昼休み。神保町古本まつりも昨日終わりを迎え、普段の神保町へ戻っている。こういう時、僕は何だか恐ろしくなる。何事も無かったかのように周囲は平然を装っている。余韻の跡形すらなく、通行人もそして古本屋も平常運転である。それはそれで有難い部分もある反面、何だか薄情だなとも思えてしまう。しかし、立地とし
【あの日、あの時、あの***】 というタイトルで始まる、ドラえもんのお話があったように思う。人の記憶というのは曖昧なもので、もしかしたらポール・ゴーギャンの『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』に引っ張られたのかもしれない。とは言うものの、ポール・ゴーギャンと『ドラえもん』が繋がる予感は全くしないし、『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』というタイトルと『ドラえもん』の要素など皆無である。 ネットで「あの日、あの時、あの**
【僕に‟売れる文章”は書けない】 最近自分自身のnoteを読み返しながら常に感じる所である。 これは僕のプライドとかそういうこと関係なしに、単純に読ませる技術がないなと思う。勿論、自分自身で書いているのだから読めないことは無い。それは読めば自分が実際に考えていることである訳で、僕の存在と密接な文章であるから、余程のことがない限り「読むに耐えない」ということは殆どない。しかし、これは良くないことだなと自分で思う時がある。 僕は過去の記録で、このnoteについて「自分の為に
【古本巡りはスポーツだ!6】 先日から神保町古本まつりが開催され、僕はそれに赴いた。これは読書好きと一応公言している僕のプライドで、自分自身が行ける範囲の古本まつりの類の催し物には必ず参加しようと決めている。だが、実は先月に開催された「第111回所沢古本まつり」には参加できなかった。ちょうど僕の小旅行と被っていたし、そのまま実家に帰ってしまったので行くことは叶わなかった。行けなかったそのフラストレーションとでも言うのだろうか。そこに行くことが叶わなかったという事実が今回の神
【知識人という罠と馬鹿】 「合理的な説明をお願いします。」 僕はこの手の文章を見ると吐き気がする。この「合理的」という言葉を使う人間はあまり信用しないようにしている。特にそれを自身の権力と摺り合わせて使われる「合理的」などという言葉は唾棄すべきである。 これはどう考えてみても、この言葉を言うあるいは書く人間にとっての「合理的」である。それにも関わらず、自分自身のその道理やら理性を全く関係のない第3者に言われたり書かれたりしたところでどうにかなるようなものではない。仮にこ
【そこにてのみ輝くもの】 恐らく、人間生きていれば誰しも(と書くと語弊がある訳だが、ある一定数の人間にとって)「あの頃に戻りたいな」と思う瞬間がある筈だ。それがほんの一瞬の時間であったり、あるいは一定の長さを以て現れることもあるかもしれない。そうして「今、ここ」という場から逃避したいという願望を抱くこともあるのではないだろうか。 僕は過去の記録で何度も書いている訳だが、「現在」というのは「過去」の集積である。「現在」ですらすぐさま「過去」になり得るのだ。僕等は「現在」を生
【曖昧な季節】 朝、目覚めても頭がスッキリしない。昨日はどうも心身共に不調を来していて仕事から自宅に戻って、すぐに眠ってしまった。睡眠時間は十分に確保出来ていたのだけれども、小頭が痛いような。そんな感じで1日が始まろうとしていた。毎度毎度で恐縮だが、低気圧にはやはり勝つこと出来ない、自然を目の前にして人間は如何に無力であるかということを思い知らされる。 雨の日は色々と思考も暗い方へ暗い方へ進んでいきがちだ。しかし、自分で言うのも何だが雨の日の思考というのは思いの外、気に入
【駄文の円環part16】 何だかこのシリーズも16回目らしい。冷静に考えてみると、「書きたいけど書くことが無い」という状況がこれまでに16回あったことになる。と書くとこれはこれで嘘になる。このシリーズを始める前からそういうことは何度となくあった訳だが、そういう時は書くことをしないという選択肢を選び続けていた。しかし、人間生きていれば何事にも限界というものは来てしまうもので、僕はとうとう耐え切れずにこの【駄文の円環】という何だか格好つけた、それでいて寒いタイトルを冠して書き
【惰眠貪郎になりたい】 生きていることは疲れる。生きていればとかく様々なことが身に降りかかって、良い事も悪い事も様々に起きる。そういう波の中で上手い具合にゆらりゆらりゆったり揺られながら、時にはバッシャンバッシャンと荒波に揉まれながら前に進んでいく。そして前進しているのか、後退しているのか分からなくなる瞬間がある。どこへ向かっているのか分からない。しかし、生きているとは大概こんなものである。所詮28年という短い人生しか生きていない訳だが、そんなことを昼休み、タバコを蒸かしな
【1年を振り返ってみて】 と書き出してみて、「いやいや、まだ年末じゃないでしょ」と思われるかもしれない。しかし、そもそも何故年末だから1年を振り返るのかということを考えたことはあるだろうか。何かを振り返るのに「1年」という時間的制約も何だか変な感じがするし、この記録も『雑感記録355』である訳で。これが仮に『雑感記録365』とかだったのならば凄いのだろうけれども。 上京して1年経つ。 とわざわざこんな大仰に書く必要も全く以てないのだけれども、自分の中で「東京で1人で1年
【言葉の"プロ"より"アマチュア"でいたい】 僕は自分で書く文章が下手くそだけれども好きなので、過去の自身の記録を時折読み返すことがある。その中で、ふと過去に僕は上記の物を引用していた。僕はもうこの本は捨ててしまって手元にないのだが、やはりここだけ読んでみても腹立たしいなと思う訳だ。 それでね。たまたま僕の眼に「"言葉のプロフェッショナル"の方々が、私の記事を読んでくださるようになりました。」という部分が鮮烈に入って来た。僕はハタと「いや、言葉のプロフェッショナルって…」