雑感記録(391)
【エッセイ漬けの日々】
僕は過去の記録でエッセイに関する記録を残したことがある。
ここ最近の僕は専ら哲学書、批評やエッセイ、詩ばかりを読んでいる。大学時代、熱中して読み学んでいた小説は殆ど読まなくなってしまった。自分でも不思議なもので、これまで僕の存在を没入していたのにも関わらず、手のひらを返したように読まなくなった。思い返してみても「小説を1冊読み切った」ということはここ数ヶ月1度もない。
大学時代は狂ったように読んでいた訳だ。無論、それを学んでいるからという明確な理由があった訳だ。それに僕自身「他の人より劣っている」という認識が凄かったので「読まなければ始まらない」という自分の世界に存在していたということも大きい。しかし、それが終って数年間。実家に戻ってからも引続き小説を読んでいたが、転職して東京に来てからというものの、めっきり読まなくなってしまったのである。
「何でだろう?」と冷静に考えて見た時に、まず思い当たるのが自身のリソースを割く先が増加したということにある。というかこれしかないのではないかとさえ思えてくる。例えば、大学の頃は先にも書いたが「小説を学ぶ」ということが生活の中心だった。それに全集中出来ていた。就職して実家に戻れば、無論仕事に割かれる時間が多くなる訳だが、身辺の事柄。例えば、洗濯だったり料理だったりという部分。それは家族に頼っていたので究極考えなくて良い問題である訳だ。
ところが、転職して再び東京へ戻り、一人暮らしともなると事情が違う。今回は「小説を学ぶ」ということが中心ではない。仕事がどうしても中心に存在し、しかも今まで考慮に入れなくて良かった生活の部分、先の例で言えば洗濯や料理など部分。そこも全て自分1人で考えねばならなくなった。言ってしまえば、こんなのはただの小説を読まないということを正当化しようとしている自分の性根の悪さでもある。ただ、こういう事情もあるのかなという僕のただの意地悪い推察に過ぎないということだけは断っておきたい。
そうすると、自ずと読む本も偏りが生じる。
僕は過去の記録でも常々書いていることだが、「生活」を根差した作品というものが好きである。実際、これは大学時代の後半、とりわけ卒論でこのテーマについて若干言及したことに起因している。改めて書くとすれば、中野重治の『文學論』(ナウカ社)のとある文章に触発されたという部分が大きい。再三で恐縮だが、改めて引用させていただきたい。自分の確認の為にも。
そしてこの「生活」という部分に於いては自分の中で、東京に来てからというもののより密接に感じられるようになる。そうして行きついた先が谷川俊太郎の詩である。いや、「行きついた先」という表現は正しくない。正確には「回帰してきた」とでも言うべきなのだろう。戻るべくして戻って来た。そんな感覚である。谷川俊太郎の詩については過去に書いているのでそちらを参照して頂けると良いかもしれない。
僕は「生活」に直に根差した言葉を求めている気がしている。しかし、それは小説でもそうなのではないか。小説はそれなりに構造があって、プロップではないけれどもある一定の「型」の中で編まれ、そこで繰り広げられる群像劇の中で起承転結、様々な事件が起こる。そういう中で「これは僕も感じていたけれども、言語化できなかったことを書いてある」とか「こういう気持ち分かるな…」というように自分に寄り添った言葉を求める。
あるいは、娯楽としての要素。現実ではあり得ない、自分自身で実行することの出来ないこと、考えていることが表現されているという部分。言ってしまえば「共感性」という部分だろう。読者の「生活」にある程度沿った形で描かれることで心の平穏を保つことが出来る。そして、多くの学びを得て、養分として読者の「生活」を豊かなものへと導いてくれるのである。
無論、僕は小説の持つそういった力を何等否定するものでは決してない。むしろ、小説にある力というのはそういうものであると思うし、ここに書いてあること以上の力をきっと孕んでいる。しかし、自分自身が真摯に「生活」に向き合って見た時に、小説というものが描く「生活」と僕の「生活」にはどことなく溝みたいなものを、ここ1年で感じている。繰り返しにはなるが、だからと言って何も小説が効力を失ったということを書こうという訳ではない。これはあくまで僕の話であるのだから。
自分自身の「生活」に重きを置いた時、やはり自分の中で読む作品も「自分の生活に近しい言葉」を選ぶようになったのかなとも思える。加えて「自分の生活を豊かにする考え方」という部分も大きいのだろう。だから哲学書や批評、エッセイを読むのだろうと思う。詩も特に一部の現代詩なんかは考えや「生活」を描く作品が多い。直近で言うと、茨木のり子と吉野弘、谷川俊太郎をここ最近では読み耽っている。どれも岩波文庫から詩集が出ているので入門としては持って来いだ。
だが、やはり詩も「芸術」という一分野を担っている訳であって、どこか着飾ったような言葉もある訳だ。それはそれで構わない訳だが、それを読み解くという作業ともなるとやはりキツイ部分がある。というのは怠慢以外の何物でもない訳なのだが…。ただ言い訳をするならば、小説よりも考える材料が少ないというのがある。そこが面白いところなんだけれどもね、実は。まあ、そういうことだ。
そう考えると、エッセイというのは理にかなっている感じがする。作者の「生活」と僕の「生活」は全く同じである訳では決してない。しかし、存在している場は作品の向こう側の作者とある程度共有している部分は在るのではないかと思う。ここ数日、僕は東浩紀の『テーマパーク化する地球』を読んでいるのだが、結構面白い。経験していることは確実に違うのだけれども、出発点が小難しいことからではなく、僕等の「生活」から出発している感じがして面白いのである。
最初の方は東日本大震災関連のエッセイが多いのだが、確かに考えねばならないことは沢山である。忘れ去られてしまうことが日本の特性みたいなことが書いてあって僕は思わず納得してしまった。現に昨年の1月1日に発生した能登半島地震のことも既に忘却の方向へと向かって進んでいる気がしている。こうして書いている自分自身も「起こった」という事実は覚えているけれども、今どうなっているのかということにはもうどこも関心を抱いていない。今はフジテレビで持ちっきりである。
忘れることがどこか美徳であるということについて、僕も実は常々疑問に思うことがあった。例えば、「嫌な事があったらすぐに忘れろ」ということをよく言われたし、言うこともあった。しかし、僕は言い方は些かおかしくなるが「根に持つタイプ」の人間である。だから忘れることが実はあまり得意ではない。嫌なことを忘れることは確かに大事かもしれない。しかし、嫌な事から学べることも少なからずあると思う。
最近のSNSでは「失敗を恐れるな」ということをしきりに称揚している節がある。僕はこの言葉というか表現が好きではない。正しくは「失敗を忘れるな」ということなのではないだろうか。忘れてしまえば、そもそも恐れることすら起きない訳なのだから。そこから考えることを忘れてしまっては困る。僕はこのエッセイを読んで、恐らく本筋から離れるかもしれないだろうが「忘却の技術」ということについて考えてしまった。
本書ではチェルノブイリの原子力発電所の観光化と同様に東日本大震災の被災地を観光化するという話がある。それは「忘れない」ためにということである。そういう事実があって、こういう時にどのように対応してきたかということを鮮明に記録として遺す。しかし、現実日本に於いては難しく、それは根深い問題であると著者は指摘する。無かったことにしようとすることで「我々は復興した」ということを示している。
僕自身、これを仕事レヴェル、ひいては「生活」レヴェルでそれを感じている。「失敗をカバーする」という言葉がある。自分がやらかしてしまった失態を帳消しにして、新たな方法でリカバリーして行くというものだ。この「帳消し」という部分。僕はいつも「どうして帳消しにされなければならないのだろう」と感じていた。帳消しになど出来る訳はないのだ。「失敗した」という事実は遺り続けるし、僕は個人的に残り続けなければならないと思っている。それが成長する糧になるのだから。
例え「帳消し」にされたとしても、自分自身が「失敗した」という形跡を少なからず遺しておく必要は在るのではないだろうか。それが言葉であれ、実際に物質を伴うものや、あるいは伴わないものであっても、いつか自分が見返して「これを克服した」というメルクマークとして持っていても良いのではないだろうか。話はちょっぴり脱線するが、僕がnoteを付ける理由はここにもある。
僕はこの言葉にハッとした。言葉にして自分自身を変える、省みるということは大切である。しかし、失敗したことは帳消しにされ、無かったことにされる。忘却されることが良しとされ、美化される。そんな中で如何にそれに抗い言葉で考えることをするかということ自体を忘れてはならない。それはもう「けっして現実にならない」のだから。
最近僕は中平卓馬の写真集を購入した。
半年間、毎日古本屋に行き状況を確認していたが、遂に購入した。金額は30,000円した。かなり高い買い物をしたなと思う反面、これはこれで良かったなとも思う。そしてこれを機に本棚の整理をしてした。再び、『見続ける涯に火が…』を読み直す機運が高まっている。『なぜ、植物図鑑か』でも良かったのだが、手元の1番近くにあったのが『見続ける涯に火が…』であっただけの話である。
そういえば僕は中平卓馬についてはしばしば記録を残している。
中平卓馬の文章は面白くて、これは常々書いていることだが、中平卓馬の書く評論は何も写真だけに収まらず、それこそ芸術一般、そして僕等の「生活」にも敷衍して考えることが出来る。しかし、本来的に批評というものはこういうものなのだろう。そんな気さえしている。これは…ちょっと傲慢すぎる物言いか。
最後のこの中平卓馬の話は蛇足であるけれども、エッセイを読むことの愉しみ、そしてエッセイの良い所は「生活」という地平がベースに在ることである。批評も哲学も、全部が全部同じではないにしても筆者と僕等の「生活」から出発しているという点に於いては同じである。そこに紡ぎ出される言葉は「生活」に近しい言葉である。
しかし、哲学に於いては少しパフォーマティヴになりすぎている気がしなくもないが、根本的な部分はやはり「生活」なのである。
僕等が考えねばならないのは小説そのもの、というよりもそれがどの地平で成り立っているかということなのかもしれない。そして僕はそこに「生活」という自分なりの答えを想定し、自分自身の「生活」を見直すためにエッセイや哲学、詩というものを読むのかもしれない。
僕は僕自身の「生活」を愛したい。
よしなに。