東京国立近代美術館 「中平卓馬 火―氾濫」 覚え書き
東京国立近代美術館で開催中の「中平卓馬 火―氾濫」(2024.2.6〜4.7)。本企画展では、戦後日本において常にラディカルな姿勢を貫いた写真家・中平卓馬(1938〜2015) の〈理論と実践〉の軌跡が紹介されている。
出発期〜アレ・ブレ・ボケ
1964年、雑誌『現代の眼』編集者の中平は、東松照明の勧めにより、自らもグラビアページに写真を発表、翌年には出版社を辞し、本格的に写真家としての道を志す。中平の初期の活動の一つに挙げられるのが、雑誌『アサヒグラフ』の連載「街に戦場あり」(文/寺山修司)である。本連載には、寺山の散文と共に、中平と森山大道が撮り下ろした写真――新宿のトルコ風呂や宝くじ屋、新宿駅などのスナップ――が収められている。
中平の初期作品において特徴的なのが、「アレ・ブレ・ボケ」である。彼の初期作品は、ピントがボケて不鮮明である上に、“美しい”とされる構図も無視し、従来の写真技法/写真美学を逸脱している。
「まず“確からしさ”の世界を捨てろ」という中平の言葉からも明らかなように、「アレ・ブレ・ボケ」写真の根底にあるのは、〈視線〉やその先にある〈世界〉の不確かさであった。世界は混沌としており、絶対的なものなど存在し得ない。『アサヒグラフ』や『朝日ジャーナル』等の雑誌記事を通し、中平は写真にまつわる固定観念と対峙すると同時に、不確かな現実の断片を切り取った。
1968年、中平は多木浩二、高梨豊、岡田隆彦らと共に写真同人誌『プロヴォーク』を刊行。タイトル=【provoke】通り、本誌は「思想のための挑発的資料」と銘打たれ、「現実の断片から新しい言葉や思想を喚起させるような写真を提示していく」ことを目的としている。2号からは森山大道も参加し、写真のほか詩・エッセイ・幅広い分野の批評等が掲載された。〈写真〉の枠に収まらず、あるいは写真同人というコミュニティに留まらず、社会に眼/カメラを向け、撮り下ろされた写真から新たな何かを生み出そうと試みたところに、雑誌『プロヴォーク』の意義があった。
70年代前半〜風景論
60年代末から70年代初頭、『略称・連続射殺魔』(監督/足立正生、1969)及び『東京战争戦後秘話』(監督/大島渚、1970)の公開を機に〈風景論〉が起こり、中平の関心は〈風景〉や〈都市〉に向けられた。これらの作品には、高度経済成長下において、個別性を喪失し、均質化された日本の〈風景〉が映し出されている。中平らは、普段我々が何気なく目にしている〈風景〉の背後には、国家権力や資本主義による支配構造が存在するとし、権力に塗り込められた〈風景〉を切り裂くことを試みた。
写真・映像界を中心に〈風景論〉が交わされる一方、日本国内では、国鉄が「ディスカバージャパン」(副題:美しい日本と私)を企画する。このキャンペーンは、「故郷の発見」をテーマに、ポスター、テレビCM、テレビ番組「遠くへ行きたい」、歌謡曲等とタイアップすることで、人々のレジャー意欲を刺激した。「ディスカバージャパン」では、括弧付きの〈日本の原風景〉が映し出され、先に言及した「アレ・ブレ・ボケ」を模倣したかのような広告も量産された。
中平の初期作品の特徴であった「アレ・ブレ・ボケ」の思想性/批評性が排除され、「スタイリッシュなもの」=商品として消費/過剰生産されたことは、あまりにも皮肉である。
「ディスカバージャパン」に批判的な立場であった中平は、1972年『アサヒカメラ』(5月号)に「DISCOVERED JAPAN」を発表する(北井一夫と共同)。
本作品では、自らの「アレ・ブレ・ボケ」の様式を用いつつ、「商品としてパッケージ化/消費化される〈風景〉」から逸脱した〈風景〉が切り取られる。
批評的な試みとして発表した作品が様式化され、エピゴーネンを生み、商品として消費される。そのことに対して批判的であった中平は、1973年の宣言文「なぜ植物図鑑か」において、これまでの自身の写真を厳しく否定し、事物そのものに焦点を当てようと試みる。
自己に対する眼差し
従来の作風から転換し、「事物を事物として、また私を私としてこの世界内に正当に位置づけること」を目指す中平は、対象物をカラーで捉え、図鑑のように収めることを宣言。撮影者の情緒や固定観念は排され、あくまでも事物そのものに視線が向けられた。
とはいえ、非中枢的身体であるカメラを向けたとしても、それを操るのが人間=中枢的身体である以上、「あるがままの世界」など捉えることは不可能だ。
1974年の作品「氾濫」(東京国立近代美術館『15人の写真家』出品作)では、カラーで都市の断片が不定形に切り取られる。それまでの「アレ・ブレ・ボケ」とは全く異なる作風だ。各写真を見ると、対象物が大きく映し出され、背景の情報は極力捨象されているものの、植物図鑑のような明確さには欠ける。「氾濫」は、「「あるがままの世界」と向き合うことの困難さ」そのものと対峙した作品といえるだろう。また、中平はこの作品によって写真家としての自己を再構築した。
1977年に急性アルコール中毒で倒れたのち、中平の関心は沖縄や奄美大島へ向かう。
中平の写真や思考は常に変わり続けるが、一貫するのは、自己や自己を取り巻く世界に対する鋭い眼差しである。それは彼自身の言葉からも窺える。
本展示の終盤では、6分ほどのビデオ「MEGANEURA/ICANOF 2005」展(佐藤英和撮影、豊島重之企画/八戸市美術館)が上映されている。海猫の鳴く港町で、60代後半の中平は、強風で帽子が飛んでいくのも一切気にせずにカメラを向け続ける。
ファインダー越しに何かを見つめるとき、その“何か”もまたこちら側を見つめている。「写真を撮る」という行為は、同時に自己を眼差すことと同義なのかもしれない。
今回の展示で私が最も興味を惹かれたのは、中平の眼差した〈風景〉及び〈都市〉である。以前、中国人留学生から、「日本は何処に行っても同じような風景ですよね。だから両親が来たとき何処に案内すればいいのか分からないんです」と言われたことがある。70年代において、日本各地の差異が無化され、均質化したことは先に述べた通りだが、2020年代においても同様のことが言えるだろう。彼方此方で木々が伐採され、その場しのぎの再開発が行われる今日。新幹線が開通すれば、パッケージ化された〈観光地〉が消費される。
日々移り変わる風景を無批判に眺めるのではなく、その背後に存在するものは何か、目を凝らしてじっと視る。カメラを向ける。中平の写真の軌跡を辿りながら、そんなことを考えた。
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