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雑感記録(409)
【沈黙と省察】
すべての言葉のゆきつく先、あるいは言葉のうまれ出るその端緒に、当の言葉をはねのけ、あらゆる命名を拒絶する不透明な「沈黙」の領域がある。そして、それがすべての言葉を支え、活性化する最も根源的な何ものかであるに違いない。
(中略)
写真家といえども言葉と無縁に生きることはできない。いやむしろ写真家は詩人とはまた違った形で、シャッターを押すその瞬間に、もっとも近く言葉を体験する、ある種の人間に属するものであるかもしれない。だから、写真家もわれわれをとりまくこの死んだ言葉の状況と無関係に生きるわけにはゆかないのだ。それは意識する、しないにかかわりなくそうだ。そしてぼくの考える写真家は、また何らかの形で映像を自分の方法とする者は、このような不幸な言葉の在り方を、徹底して意識化することからすべてを始めなければならないだろう。
(有限会社オシリス 2007年)P.89,90
僕のここ最近のnoteはとりわけ言葉に着目して書いているつもりである。時たま、何をトチ狂ったか知らないが変な事も書く訳だが…。自分の中で言葉から始まる何かというのを出発点として書くように意識している。果たしてそれがしっかりとした(何を以て「しっかりとした」と評定するのかは個人に帰属するから、具体的にこれだとは表現できないが…)ものかは定かではない。いずれにしろ、そういうことを意識しながら書いている。
久々に中平卓馬のエッセイ集であるところの『見続ける涯に火が…』を読む。冒頭の引用はその中で個人的に印象に残った箇所である。特に「あらゆる命名を拒絶する不透明な「沈黙」の領域」という部分が考えさせられる。このエッセイは中平卓馬がとある裁判を傍聴したことの経験を元に言葉について書かれるものである。
その中で中平卓馬は「整理され、秩序づけられた死んだ言葉」(P.94)という表現をしていた。個人的にニュアンスは分かるなと思う。しかし、その反面でこういう表現をするからには「生きた言葉」があるときっと中平卓馬は想定しているのではないかと僕は思った。そしてこれは僕が過去の記録で書いた、茨木のり子の詩を引き合いに出したものとリンクするなと勝手に思ったのである。
今回はそこについて少し深掘るもクソもないが、もう少し自分の中で整理をしようと思いこの記録を書き始める。
言葉を発する。これは言葉というものに置き換えられているということである。実際僕もこうして言葉として頭の中にあることを置き換えている。しかし、これは「言われた」あるいは「書かれた」途端に中平卓馬が表現するところの「死んだ言葉」となる。それは純粋に「言葉以前のもの」としての生生しい鮮度の在る「何か」が自分の外に発された途端、腐って行くのである。この「それ以前のもの」ということについては谷川俊太郎をベースに書いたことがある。
究極、言ってしまえば僕等がこうして話す言葉や書く言葉というのは既に死んでいるのである。恐らく、文学を学ぶ人々あるいは哲学をしている人はその死んだ言葉から生の微かな残滓をくみ上げ、それを元ある創作者の生に還元することなのだろうと思う。そして写真家などは死んだ言葉ではなく生きた言葉を捉える人たちなのだと思う。つまり、「それ以前のもの」であり、中平卓馬が表現しているところの「沈黙」というものなのだろう。
写真ド素人である僕から考える写真の良さというのは、僕等に言葉を発させないという働きがあることに思う。例えば、誰かが撮影した写真に対して「こういう所が良い」「この部分が気になる」という言葉を発したとしよう。しかし、発したからと言って自分の中で「それは一体何なのか」ということについては至極曖昧なそれでいて言葉で表現できないあらゆる感情が存在している。言葉にすることを拒む。僕は写真に対してそんな印象を抱いている。
言葉の不幸な所は誰にでも共通理解が及んでしまう所にあると思っている。特に「整理され、秩序づけられた」言葉はその最たるものである。何度も引き合いに出して恐縮だが、誰しも「そのひとの気圧の中でしか/生きられぬ言葉もある」のだ。だが、「整理され、秩序づけられた」言葉というのは誰しもの中で分かってしまうのだ。法律の文章やあらゆる官公庁が発行する文章、様々な企業が出している広告の文章…。目的として誰にでも分かりやすくという部分に於いては正しくそうであるべきなのだが、しかしそれ以上に個としての言葉がどこかへ置き去りにされている感覚、「沈黙」を許さない感覚というものが僕の中では拭い去ることが出来ない。
伝えるということには、その言葉では伝わり切らない何かが存在している。それを忘れすぎている気がしてならない。余談だが、僕はわりと顔に出るタイプで、言っていることと表情が合致していないということがある。それは元々自分では分かっていたつもりだが、彼女に言われて「そうなんだな…」と改めて言葉の持つ伝達力が100%ではないということを改めて気付かされたのである。
こういうことを書くと「当たり前だろ!」と言われるかもしれないが、しかし難しい問題である。当たり前であることを疑うこと程難しいものはない。僕は言葉で伝えられない取りこぼしというのを先の言葉で言えば「それ以前のもの」そして中平卓馬の言葉を借りれば「沈黙」というものをどうすべきなのかということを考えてしまう。全てを伝えることが正しいことかどうかは分からない。しかし、誰かに伝えたいときに伝わらないときの悔しさというのは辛いものがある。
言葉だけの表現には限界性がある。これはいつだったかの記録でも書いているが、言葉と身体性という部分と密接な関りがある。先の僕の余談でも書いたが、表情と言っていることとの齟齬。正しくそこである。だが、ここで問題になるのは、言葉を優先すべきか表情を優先すべきか、あるいは行動を優先すべきか。そして何より、その身体表現を自分自身では見ることが出来ないという点にある。
しばしば、言っていることとやっていることが違うという矛盾について語られることがある。実際僕は過去の記録で「矛盾したっていいじゃない。人間だもの。」というようなことを書いた訳だが、今こうして考えてみた時に果たしてそれで良いのか?ということが自分の中で湧きおこっている。どれが自分かという自分の存在性という部分を考えてみると、行動や表情にもしかしたら言葉よりも優位性があるのではないか。
加えて、「眼は口ほどに物を言う」という言葉がある。言葉も無論重要な伝達手段ではある訳だが、それ以上に表情や言葉以外の部分で伝わることもある。何より、先にも書いた通り言葉はそれを放った自分自身で聞き理解することは出来るが、表情などはそうはいかない。自分には見えていないのだから、相手に対してどう感じられているのかということは把握できない。言われて初めて気付くものである。
それで話は舞い戻る訳だが、写真というのはこの「沈黙」の部分を炙り出す。言葉では表現し得ない「沈黙」「それ以前のもの」を切り取ることが可能である。しかし、ここで更に重要なのは被写体が「私は今撮られている」という意識があってはならない。有り体に表現するならば自然体の自分でいることが要請される。そしてカメラマンは「撮影している」ということを本来的には悟られてはならないのかもしれない。
ある意味で、中平卓馬の写真を面白いと思う部分はそういうところにあるのかもしれないと思う。強制的に「沈黙」を僕等の眼前に突き付けて来る。ここにどんな言葉を以てしても、それを眼の前にした時に「沈黙」せざるを得ない。これは最近購入した『新たなる凝視』という写真集を見て思う。
実はこの『新たなる凝視』というのは中平卓馬の2冊目の写真集であり、それまで1冊しか出していなかった。実際そのことを振り返って中平卓馬は以下のようにこの写真集で書いている。
当然至極、私は、撮影行為を大幅に変革しました。具体的に言えば、私、夜景撮影行為そのものも含めて、ブレないように懸命に撮影し上げて来ました。その一点において、私は通常的な撮影行為に変ったのかもしれません。だが、それ故に、私の作品そのものが、衝撃力を失ってしまった恐れがあります。しかし、他者総体が、私のこの作品に関して、どのように考え始めるか、判りませんが、私は、ここまで書いてきた通り、素朴な、またある意味では、基本的な撮影行為そのものが、逆に対象を明確に捉えることになる、と信じ、撮影し抜いた結末が、このありさまです。
(晶文社 1983年)P.115
確かに中平卓馬の写真はブレ・ボケが当初は目立っていた訳だが、それがこの『新たなる凝視』ではどこか綺麗に撮られている。しかし、僕はそれによって「沈黙」という部分、「それ以前のもの」が眼前にドンと突き付けられるのだ。特に人物を真正面から撮影している写真を見た時に脅されている気分に実際陥ったのである。言葉を寄せ付けない感覚とでも言えば良いのだろうか。そこにある表情と「沈黙」が僕に押寄せて来る。
これは余談だが、僕はブレ・ボケの方も好きで、結局森山大道へ行ってしまった訳であるが、中平卓馬との親交もあったという所で勝手にシンパシーを感じている。誠に身勝手極まりない訳だが…。そんなことはさておき。この写真集で際立つのはやはり表情である。そこに言葉はなく「沈黙」だけがある。そしてこの「沈黙」を言葉にしようとすることを拒む写真。ああ、良いなと僕はその写真たちに酔いしれる。
話は冒頭の引用に戻る。引用中で中平卓馬は「それ(=「沈黙」※引用者)がすべての言葉を支え、活性化する最も根源的な何ものかであるに違いない。」と書いている僕風に言いかえるならば「それ」の部分を「言葉以前のもの」と置き換えて貰えれば良いだろう。僕等が言葉を発しようとするその原初的なものは、根源的なものは何だろうか。
しかし、先に書いたことのくり返しで恐縮だが、言葉に出来ない限界というものはある。写真はその限界性を越えて来る。僕はその「言葉以前のもの」を敢えて言葉を使って表現するならば「何か」と表現できない。これについては過去の記録で書いている。
僕はここに自分自身の限界性を見る。それは僕が言葉以外の表現を持ち得ないということ。しかし、だからと言って今から写真を始めるかというと事はそんな簡単な話ではない。写真を撮影するにも技術が必要である。それは道具的な技術も勿論のことながら、言葉に対する技術そして感性を磨かねばなるまい。僕はまだまだ言葉への感性や思慮が全く以て足りていない。
夏目漱石は『文学論』の中で若いうちは自分の専門だけの書物を読むのではなく、全般に通じる為にあらゆる書物を読むべきであると書いている。僕にはまだまだ言葉への省察云々の前にあらゆる物を読んでゆかねばならない。こうしてツラツラとい書き連ねた終局的な結論。
それは、あらゆる書物を読み「沈黙」を知る。
これに尽きるのではないかと思い始めている、そんな今日この頃である。結局何が書きたかったか分からない。そして、これを書いている時の僕の表情はどんな風であるかは僕には分からない。
よしなに。