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雑感記録(380)
【新年雑感・その他、断章②】
12月31日、年の瀬が迫る。その日僕は湖に居た。
しかし突拍子もなく湖に行った訳ではない。カメラマンの友人と富士山の写真を撮影しに富士五湖の全てを回って来たのである。朝9:00に近くのコンビニで待ち合わせをして、友人の車に乗せてもらい富士五湖を巡った。ところで、ここで僕は当たり前のように「富士五湖」と書いている訳だが、興味ない人からすれば知らぬ存ぜぬ訳である。少しばかし説明をしよう。
富士五湖
ふじごこ
富士山北麓 (ほくろく) の山中、河口、西 (さい) 、精進 (しょうじ) 、本栖 (もとす) の五湖の総称。富士山およびその側火山の溶岩流により、富士山と北側の御坂 (みさか) 山地の間の谷がせき止められてできた。猿橋溶岩流 (さるはしようがんりゅう) により宇津湖と剗海 (せのうみ) に分割され、宇津湖の一部は水が流出し忍野 (おしの) 盆地となり、さらに山中湖と河口湖ができた。一方の剗海はまず本栖湖が分かれ、864年(貞観6)の青木ヶ原溶岩流により西湖と精進湖に分かたれた。現在、自然の流水口をもつのは山中湖のみで、河口湖、西湖、本栖湖は他の目的を兼ねた排水路をもつ。このため大雨による降水に対しては水位の上昇が大きい。
JapanKnowledge, https://japanknowledge.com , (参照 2025-01-05)
流石、ニッポニカである。詳細な説明までご丁寧にされている。僕は地理的なことなどは知らなかったので「へぇ」と勉強になった。それはともかくとして…。「富士五湖」というのは所謂、富士山麓に密集する湖群みたいなものである。河口湖、西湖、精進湖、本栖湖、山中湖の総称である。それだけ分かれば十分である。百聞は一見に如かず。ぜひ肌で感じて欲しいものである。
はてさて。僕等は1日掛けてこの富士五湖を巡る旅に出た。この「旅に出た」というのは中々大仰な言い方ではあるものの、しかし僕等が住むところから車で1時間半ほどである。そう考えれば、まあ旅と言っても良いのではないだろうか。旅ってどこからどこまでを指すのだろうか。よく幼少期に「帰るまでが遠足だぞ!」と口酸っぱく言われてきた訳だが、始まりは何処からなのかは教えてくれない。何だかなと思う。
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まず最初に向かったのは山中湖である。山中湖は少し離れていて時間が掛かる。友人と車の中で色々と話しながら向かって行く。旅の面白さというのは何を目的にするかということよりも、そこで話される寄り道の部分にこそ僕はあると思っている。無論、その目的、ここで言えば「富士山の写真を撮る」ということも愉しいのだが、そこに至るまでの遠回りこそ愉しいのである。ああでもない、こうでもないと車内で話すその言葉たちによって織り成される空間も込みで旅である。
こうして僕は今「旅」について偉そうに語っているが、そもそも旅が好きではない。本当ならば家に籠って好きな事を只管していたい人間である。しかし、これは前の記録でも書いた訳だが、彼女のお陰もあって徐々に旅をすることへの抵抗感が薄れて行っている気がしている。やはりその時にも感じたのだが、何を一緒に見た、何を一緒にしたということも勿論のこと、その道中に話したことも想い出の1つとなり得る。
そんなこんなで道中は様々なことを話しながら山中湖に向かった。実際山中湖に着くと、人の多さに驚く。いや、人の多さ以前に観光客のマナーの悪さに驚きを隠せなかった。友人もわりとイラッとする部分が結構似ていて2人でイライラしながら写真を撮っていた。とりわけ、中国人。もうほとほと愛想がつきてしまうぐらいのマナーの悪さ。これには憤慨ものである。
山中湖湖畔に行けば「ここは中国なのか?」というぐらいに中国語が飛び交い、大きな声でギャンギャン騒いでいる。そして必死に写真を撮ろうとしているのか、湖の水際ギリギリの所で群がっている。何だか僕は腹立たしくて仕方が無かった。最近はインバウンドの影響で外国人が多数来日していることは知っているが、あまりにもマナーが悪すぎる人を見ると嫌悪の対象となってしまう。
2人で中国人が居ない所に行こうと歩き回り、サイクリングロードに沿って歩いて行く。しかし、どこへ行っても中国人ばかりである。そして「立入禁止」と堂々と書かれ紐が張られている所を跳び越えて行く中国人を見て2人共々辟易とした。別に観光客が来て何をしようが僕等の知ったことではない。金を落としていってくれるのならそれはそれで有難い話だ。しかしだ。「郷に入っては郷に従え」という言葉があるように、最低限のことは守って欲しいものである。
とこういうことを書くと何だか誤解を生みそうなので、しっかり書いておこう。別に僕は何も中国人が嫌いな訳ではない。何なら中華料理なんか滅茶苦茶好きである。ただ、たまたまマナーを守らない中国人がそこに居たというだけに過ぎないのである。加えて、僕のこれまでの短い28年の記憶の中で、大抵ルールを守らない外国人=中国人というものが体験として蓄積されているのである。中国人全員が全員マナーを守らないとは思っていない。ただ、少なくとも僕がこれまで出会ってきた中国人が、たまたまそうだったというだけの話である。
日本人でも最低限のマナーを守れない奴は嫌いである。
とにかく2人で人のいない方へ人のいない方へと進んで行き、撮影できた富士山が上の写真である。しかししばらく撮影していると後ろでワイワイガヤガヤと中国語が聞こえてくる。「もう行こうぜ」と2人でそそくさとその場を離れる。車に戻り、次に河口湖へ向かうことにした。山中湖は富士山との距離が近いが、中国人などのマナーの悪い観光客が多いのであまりオススメはしない。
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続いて河口湖である。河口湖は県外の人でも知らぬ人はいないだろう。最近でも少し話題に上がっているが、河口湖駅近くのコンビニが観光客で溢れているとか何とか…。冷静に考えて、河口湖はアクセスがしやすい。東京から電車で行くなら中央本線で大月駅から富士急行線に乗り換えて、河口湖駅で下車してすぐだからである。しかし、その反面、「来やすい」が故に人の多さは尋常ではない。
実際に河口湖に着くと多くの人々が居た。これでは落ち着いて写真など撮れる訳などない。そそくさと写真を撮影した。河口湖について書くことは特にない。ただ強いて言えば「人が多すぎ」それだけだ。
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続いて西湖である。ここが本当に最高だった。人もあまりおらず、ゆったりのんびり富士山を眺めることが出来た。落ち着いている雰囲気で友人も写真を撮れたみたいであった。しかし、富士山の頂上に雲が重なってしまい、雲の切れ目を狙っていたのだが、次々に流れて来る。わりと長い時間まで粘ったのだが中々雲はどいてくれない。
雲が切れるまで富士山を眺めた。そこにフランス人家族が居た。小さい子供が西湖に向かって小石を投げる。そのチャポンと落ちたところから波紋が広がって行く。仲睦まじく親子で石を投げる。僕は何だかその姿にほっこりとしてしまう。正直「石を投げるなんてな…」と思った訳だが、誰か人に迷惑を掛ける訳でもなし、怪我をする恐れも無し。あんまりいい気持ではないが、その仲睦まじさに免じて目を瞑ることにした。
何と言うか、僕は純粋に家族って良いなと思った。
僕は小さい子が実は苦手である。小さい子はノンバーバルコミュニケーションが主であり、言葉が通じないことの苦しさみたいなものがある。なまじ下手に文学やら哲学やらに侵されてしまった僕にとっては「これこれこうだ」と言葉にして通じないということが中々辛いものである。しかし、言葉だけでなくても伝わるものはある。それを教えてくれるのは紛れもない小さい子なのであると姪っ子と触れ合いながら感じた。
僕の言語的な部分でと体裁よく言ってしまうけれども、きっと子供が自分にもいたら言葉に磨きが掛かるのかなと漠然としたことを思った。西湖で繰り広げられている光景を見て感じた。「親になると成長できる」みたいなことを言うが、僕は単純に言語の総体量が格段に増えるということなのかなとも思っている。つまり、言葉が通じないことによる言葉への期待の喪失。それを身を以て体感する。意思疎通の通じない中でのコミュニケーション。
よく僕は言葉で表現することが全てではないとこのnoteでしきりに書いている訳だが、それは経験しないと分からない事もある。僕の良くない癖なのだが、言葉をこねくり回してしまうことが多く、経験を蔑ろにしてしまう傾向がある。頭だけで考えて「これはこうなんじゃないか」と理性的に考えてしまう。しかし、それには限界があるとここ最近感じている。特に彼女と接している時にそれを感じざるを得ない。直近でもそんなことがあったように思う。
彼女との間ですら言葉に対する経験が数多くあるのだ。であれば、子供との間で繰り広げられるノンバーバルコミュニケーションは更に言葉に対する感性を広げるのではないだろうか。「親になる」ということは想像力の拡張、ひいては言葉の拡張に他ならないのではないだろうか。そしてそれは心の豊かさにもきっと繋がって行くのだろう。そんなことを僕の足りない想像力を駆使して想像する。
フランス人家族は仲睦まじそうにしている。その姿を見ながら僕は少し言葉について考えてしまった。富士山に眼をやる。富士山は聳え立つ。そこに言葉などは不要だ。ただ、肌で自然を感じる。言葉はなくともそこに何かが存在している。それを感じ取れる感性を僕は守りたい。
自分の感受性くらい
ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて
気難かしくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか
苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし
初心消えかかるのを
暮しのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった
駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄
自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ
『茨木のり子詩集』(岩波文庫 2014年)
P.171,172
この詩が身に染みる。
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次に精進湖へ向かう。精進湖もあまり人がおらず凄く居心地が良かった。近くにはキャンプ場が併設されており、キャンピングカーなどがあった訳だが、それでも他の所に比べれば人はそこまでいない。僕はここで写真を友人に撮影してもらった。
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格好良く撮影してもらったものである。最近友人はモノクロの写真を撮影しているらしい。そう言えば、木村伊兵衛の図録を彼に渡した。僕の影響かどうかはさておき、彼も木村伊兵衛に興味を持っているらしく、木村伊兵衛の1ファンとしては何だか喜ばしいものである。僕はどちらかというとモノクロの写真に慣れている節があるので、愛着はモノクロの方がある。
僕の写真のスタートは中平卓馬と篠山紀信の『決闘写真論』である。写真そのものというよりかは文章から始まっている。あれほどまでの写真論を書く人間が一体どのような写真を撮るのかという所から始まり、そこから森山大道やら木村伊兵衛に行ったのである。しかし、僕はやはりどちらかというと写真よりも写真家の文章の方に興味関心が湧いてしまうのである。
写真については上記記録で色々と書いている。写真を見るにつれてやはり、言葉が無力であり、そしてまた言葉が持つ力というものも感じざるを得ないのである。不思議な話である。言葉を拒絶するような写真が言葉を誘発するというのは何なのだろうか。これは先にも書いた繰り返しにはなるのだが、なまじ下手に文学やら哲学やらを学んでしまった弊害なのかもしれない。そんなことを感じてしまう。
どうでも良い話だが、僕には今狙っている写真集がある。如何せん値段が高いのでボーナスが入ったら購入しようと思って、彼是1年ぐらい待機している。古本屋に毎日通い、それがいつその本棚から無くなってしまうか気が気でないのだが…。あと1ヶ月程の辛抱である。無くならないことを切に願うばかりである。
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本栖湖は車を停める場所が無く、路肩に停車してという感じであった。しかし、ここは…まあマナーの悪さがこれまた目立つ。写真スポットには三脚が所狭しと並び、柵にご丁寧にチェーンでロックを掛けている。一応写真家である友人も憤慨ものである。言ってしまえば翌日の日の出を狙っての場所取りである。「ダサいな~」と言いながら写真を撮る。
本栖湖の富士山は旧千円札の裏側に印字されている富士山であるらしい。正直だからなんだという話なのだが…。僕からすれば富士山は何処から見ても富士山であり、富士山は富士山である。何故、日本銀行が本栖湖からの富士山を選定したのか知る由もないが、お陰で本栖湖周辺にはマナーの悪いカメラマンが跋扈する状況となってしまっている。何とかしろ。
本栖湖は…これもあまりオススメ出来る場所ではない。
活字を離れて
時刻表もみない
新聞も読まない
まして本なんか!
活字に無縁でいると
頭の霧はれて
ひどく健やかになれることを
いくつかの旅が教えてくれた
眼鏡も持たず
カメラも持たず
みるともなしに視るものは
ひとしれず ひっそり澄みわたるもの
ひたすらに咲いて ただに散る花
古びた家をいっとき明るませている雛たち
黙っていながら
深沈として 奥深く 在るものら
(岩波文庫 2014年)P.209,210
この詩を以てして、記録を終いとする。
よしなに。