中平卓馬写真展 火―氾濫
2024年2月6日~4月7日(鑑賞日:2024年2月23日)東京国立近代美術館
日本の写真を変えた伝説的写真家・中平卓馬氏(1938‐2015)の約20年ぶりの大回顧展がありましたので備忘録として記録を残します。他の方への参考にもなれば嬉しいです。館内の展示写真は基本的に撮影OKでした。
当日の個人の観覧料は一般1500円、大学生1000円、高校生以下無料、高校生以下および18歳未満、障害者手帳をお持ちの方とその付添者(1名)は無料となっています。休館日等の詳細は美術館のHPを御覧ください。
僕が中平卓馬氏の写真を初めて観たのは1993年に新宿の本屋さんで deja-vu という雑誌で「プロヴォーグ」の時代という特集があって、そこで衝撃を受けた時です。その時、直ぐにその雑誌を購入し、今でも僕の本棚に入っています。つまり、森山大道氏や篠山紀信氏を刺激した写真家としても知られてますが、僕にも相当な衝撃を与えた写真家なんですよ。はい。
それでは展覧会に入ってみましょう。特に気になった写真をピックアップしていきます。
冒頭は写真集「来たるべき言葉のために」の写真をスライドショーで上映されていました。正直、中平氏の写真の中でこのシリーズが一番好きなので、これらの写真をプリントで詳しく観たかったところです。
とりあえす、その中から僕の所有している「日本の写真家36 中平卓馬」から複写したモノと唯一?展示会場に貼られてた「来るべき言葉のために.」の中の写真群を置いておきます。
1964年の晩冬に写真家・東松照明氏の紹介によって知り合った盟友の森山大道氏が中平卓馬氏を撮影したポートレートです。森山氏の写真集「にっぽん劇場写真帖」に入っているもので、かなりの長玉で撮影中の中平氏を三枚連続で撮影しています。
ただトラックが写っているだけなんですが、何と色気のある写真なんでしょうねぇ。右側の街灯の光が怪しげです。
このように古い多くの貴重な雑誌がこのように展覧されていました。
美術評論家の多木浩二氏と発案し、写真家の高梨豊氏、詩人の岡田隆彦氏を加えて同人誌「PROVOKE」を1968年に創刊しました。第2号から森山大道氏も加わり、粒子が粗くピントが合わない アレ・ブレ・ボケ と称されたの写真群がセンセーションを巻き起こしました。創刊に際しての中平氏の言葉は次の通りです。「既にある言葉ではとうてい把えることのできない現実の断片を、自らの眼で捕獲してゆくこと、そして言葉に対して、思想に対して幾つかの資料を積極的に提出してゆくこと」
僕も復刻版の「PROVOKE」全3号を所持しています。
写真によって個人の内面を世界に投影するのではなく、世界の側が個人に与える影響を示すというコンセプトに基づいて考案された1971年に開催された第7回パリ青年ビエンナーレ出品作品です。写真だけでなく、「一日一日ぼくが触れるすべてを写真に写し、その日のうちに現像し、焼き付け、その日のうちに会場に展示する」という行為すべてが作品となっています。中平氏は現地で撮影した約1500枚の写真を会場に貼り巡らせたそうです。圧巻!
中平氏は1973年に評論集「なぜ、植物図鑑か」を刊行します。自分の情緒を外界に投影していた過去の「アレ、ブレ、ボケ」の写真を否定し、事物を事物のままに捉え、撮り手の情緒を排した「植物図鑑」としての写真を目指すと宣言しました。
「氾濫」は1974年に東京国立近代美術館で開催された「15人の写真家」展に出品した48点のカラー写真の組み合わせからなる横幅6m強の大作です。
「4章 島々・街路」では、奄美大島やトカラ列島といった南の島々や海外へと目を向けるようになっていった時期の活動の展示です。その中から好きな四枚をピックアップしました。
この1976年は篠山紀信氏とともにアサヒカメラ誌上で「決闘写真論」を連載していた時期でもあります。そして、翌年の1977年9月に中平氏は急性アルコール中毒で倒れ、生死の境をさまよった後、記憶と言語に障害を負うことになります。中平氏の撮影はここで一度中断されてしまいます。
療養の後に写真家として再起した中平氏は、晩年に至るまでの約30年間、写真を撮り続けます。その記憶喪失を患った後の中平氏の写真はそれ以前のモノとは異質なモノになっていきます。
その写真群の中から一番気に入った優しい作品を貼っておきます。
中平卓馬氏の撮影の軌跡とその変革を追いながら、未公開の作品を多数展示していた本展示はとても有意義な展覧会だったと思います。
では、また。