ふと思うこと。 それは、“東北の関ヶ原”のときの奥羽諸将の動き。 ・上杉氏の家中は、西軍派と東軍派に分裂していた? 家康を追撃しなかったのはそのため? ・伊達氏は西軍から東軍に寝返った? 戦後の加増が僅かなのはその証拠? ・最上氏は終始東軍? 最上氏については調べを進めよう。
慶長5年(1600)5月3日は上洛要求に応じない上杉景勝を討つため家康が会津征伐を決めた日。景勝に謀反の兆候があるとして上洛して弁明を要求していた。このとき届いたのが景勝家臣・直江兼続が書いたいわゆる「直江状」。通説ではこの反論に家康が激怒して会津征伐が決まったといわれる。
天正6年(1578)5月13日は上杉景勝と対立していた上杉景虎が春日山城を出て御館に移った日。2か月前の上杉謙信急死による後継者争い御館の乱。景虎の実家の北条氏と武田勝頼も巻き込んだ争いの始まり。翌年3月景虎が自害し景勝の勝利に終わるが越後を二分する争いは上杉氏に負の影響を残す。
天正10年(1582)6月3日は柴田勝家を総大将とする織田軍が上杉景勝方の魚津城を攻め落とした日。救援に来た景勝は信濃・上野方面の織田軍の越後侵入を防ぐため撤退。3ヶ月に及ぶ攻城戦は孤立無援となった城将たちが自刃して終結。この直後に本能寺の変を知った勝家は全軍撤退させることに。
天正6年(1578)3月13日は上杉謙信が春日山城にて49歳で急死した日。4日前に厠で倒れ死因は脳溢血というのが通説だが腹部の病という説も。実子はなく養子である景勝と景虎による家督争い御館の乱が起きる。急なことがあるからこそ予め決めておかないといけないこと…色々思い当たります。
慶長14年(1609)2月15日は上杉謙信の姉・仙桃院(仙洞院)が死去した日。次男・景勝は謙信の養子となり、次女は北条家から謙信の養子となった景虎に嫁いだ。謙信死後のお家騒動・御館の乱で景勝と景虎が争い仙桃院は娘夫婦と孫を亡くした。時代は違っても子らが戦うのは見たくないですよね。
天正7年(1579)3月17日は上杉景勝が上杉景虎の拠る御館を陥落させた日。謙信の後継者争い御館の乱。景虎は実家の北条家へ逃亡を図り追い詰められ自害。これで上杉は一時衰退するが逆に家中の独立的性格の強い勢力を一掃し謙信の頃より支配力強化されたと肯定的に見られるかもしれないですね。