第10話 〝御館の乱〟の大津波

 越後の上杉の動きを探っていた吾妻衆 伊与久いよく采女うねめが、真田昌幸の所に異変をしらせに飛んで来たのは、翌天正六年(一五七八)三月半ばの事だった。このとき昌幸は信濃にあって、思わずも、
 「死んだか!」
 と、しみだか喜びだかやみだか希望だか分からない声を挙げたのは、それもそのはず、故主君しゅくん武田信玄長年ながねんの、宿敵だか盟友めいゆうだか判断のつかない、かの上杉うえすぎ謙信けんしん訃報ふほうだったからである。
 これにより時代は大きく動く。と言うのは、その死があまりに突然だったために、謙信は、上杉家の家督かとく継承けいしょうを誰にするかの遺志いしさえ示せずってしまったからだ。
 謙信には実子じっしがなく二人の養子ようしがいた。一人はおいの上杉景勝かげかつで、もう一人は相模さがみの北条氏政うじまさの弟 上杉景虎かげとら(北条三郎)である。
 沼田においては敵対関係にある両者だが、かつて信玄が駿河するがへ侵攻した際、北条が上杉と同盟を組むため、謙信の所へ養子として越後へ送られたのが景虎かげとらである。所謂いわゆるこの直後に立ち起こる〝御館おたてらん〟と呼ばれるおいえ騒動そうどうは、景かつと景とらによる相続そうぞくをめぐる戦争であり、上杉の内情ないじょうを探っていた伊与久いよく采女うねめは、早くからこの両者の不仲ふなか察知さっちしていた。だから昌幸は、沼田を調略するに当たって、あたかもそれが当然起こる予言よげんのように語ることができたわけである。
 ところがである────歴史というのは昌幸にして計算外の事態を招くものだ。
 武田と同盟関係にある北条氏政うじまさは、武田勝頼かつよりに対して景虎かげとら支援しえん要請ようせいすると、それを受けて勝頼は越後えちごへ向かう。
 この時、沼田城代じょうだいをしていた上野中務なかつかさは、一応は謙信の法事ほうじを行い石塔せきとうを建てて弔意ちょういは示すが、間もなく城を放棄ほうきして奥州おうしゅうくだってしまい、藤田ふじた能登守のとのかみが一人で沼田城を守る形になっていた。おまけに沼田にいた上杉勢は戦意を失い越後へ退却たいきゃくする者が後を断たず、これを見た北条氏政は一気に沼田を落とそうと、弟の氏規うじのり氏邦うじくにを大将にえて三万もの兵を送り出した。
 対する沼田は国人衆こくにんしゅうの集まりで籠城ろうじょうし、利根川とねがわに沿って沼田城の北西に位置する妙徳寺城みょうとくじょう要害ようがいには矢部やべ豊後守ぶんごのかみを城代に据え、渡辺わたなべ左近さこんもろ大助だいすけといった武将を置いてもり、利根川対岸の名胡桃城なぐるみじょうのほか、中山城、尻高城しったかじょう、山名城、発知城ほっちじょうなどの動きを警戒した。というのも、それらの城はことごとく昌幸の調略に落ちて武田側に寝返ねがえっていたからであり、昌幸から直接調略を受けた郡奉行ぐんぶぎょう 金子かねこ美濃守みののかみなどは、
 「しまった! あのとき迷わず真田の話を受け入れておけば良かった・・・」
 と、今更いまさらながら後悔こうかいするのである。
 〝ところが〟はここからである。
 中山、尻高しったか名胡桃なぐるみ、山名、発知ほっち以下、みな真田に降参こうさんしたよしを知った氏政の子 氏直うじなおは、
 「なに、真田が・・・? う~む、あやつの事だ、何をたくらんでいるか知れたものでない」
 とはなから疑って、北条沼田攻めのじょうじて五千余騎をって、それらの城へ攻撃を開始したものだから、あわてた昌幸は信濃から岩櫃いわびつへ取って返し、その前線ぜんせん指揮しきるわけだが、
 「真田殿! 話が違うではないか! 北条は味方のはずではなかったか!」
 と、上杉を捨てて真田に付くと表明した者たちは大混乱だいこんらん。そのうえ翌年(天正七年)の三月には、上杉の御館おたてらんにおいて上杉景勝かげかつが勝利し、追い込まれた景虎かげとら自決じけつする形で上杉の後継者問題が収束しゅうそくすると、沼田城を占拠せんきょした北条氏は、城の本丸に猪俣いのまた邦憲くにのり、二ノ丸には渡辺わたなべ左近さこん、三ノ丸に金子かねこ美濃守みののかみ、そして曲輪くるわには藤田ふじた能登守のとのかみを置いて、二百余騎あまりの兵を残して小田原おだわらへ引き上げ、その結果、沼田の国衆くにしゅうのうち北条に降参こうさんした者のかず一八〇余騎、雑兵ぞうひょうを合わせて二千余りが沼田城に籠城ろうじょうする形となり、もはや数の上からして政局せいきょく逆転ぎゃくてんなど不可能ふかのうになった。
 さらに悪い事には────
 お家騒動で勝利した景勝かげかつではあるが、多くの家臣かしんを失った上杉に外部と対抗する力は残されていなかった。特に北条を恐れた景勝は、武田との同盟にみ切った。〝悪い事〟というのは、その申し出を勝頼かつよりが飲んでしまった事である。つまりそれは、北条との同盟関係を反故ほごにする行為こういでもあった。
 「バッカモン! いったい誰が勝頼かつより様についておった!」
 このころ万事ばんじ思い通りにならない昌幸はめっぽう機嫌きげんが悪い。報告に来た采女うねめは表情ひとつ変えずに、
 「長坂なかさか長閑ちょうかん様と跡部あとべ大炊介おおいのすけ様で御座ございます」
 と、武田家の家臣の名を淡々たんたんと答える。
 「お前はそれを知っていて何故なぜ止めなかった!」
 当然その場にいたわけでない采女は、ただ知った情報を伝えに来ただけでそんな事ができるはずがない。しかし昌幸は、目の前のつくえの上にあったふでやらすみやらすずりやらを手当たり次第に彼に投げつけ、采女はそれをけもしないで蹲踞そんきょの姿勢のまま受け止める。仕舞しまいには書きかけの書状を千切ちぎって丸めた紙屑かみくずを投げつけた昌幸は、
 「いますぐ甲斐かい巫女みこを送れ! 徹底的てっていてきに甲斐を調べさせ、勝頼かつより様の不穏ふおん分子ぶんしをあぶり出せ!」
 身を滅ぼす虫は獅子しし身中しんちゅうにこそあるというわけだが、外は蜻蛉とんぼい始めた季節はもう秋、
 「歩き巫女はもうじき祢津ねづに帰る頃かと────」
 「ええい、どいつもこいつも役立たずばかりじゃ! もうよい、下がれ!」
 と昌幸は鼻息はないきを荒げた。
 それでも沼田国人衆の中には武田側に忠信ちゅうしんを示す者もいて、そうしたさむらいに対しては、勝頼からの証文しょうもんえて恩賞おんしょうを与える事を忘れない昌幸なのである。

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3,945字
学術的には完全否定されている”女忍者(くノ一)”の存在を肯定したく、筆者の地元長野に残る様々な歴史的事実を重ねながら小説にしています。 無論小説ですので事実と食い違う点も出てくるとは思いますが、できる限り史実に忠実になりながら、当時の息遣いが感じられるようなものにできればと思っています。 伝えたいのは歴史に埋もれたロマンです。

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