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「晩年期の地すべり」には戦国時代からの歴史があった!!【都道府県シリーズ第2周:山形県 小国町編no.1-5】

山形県南西部の小国町(おぐにまち)は大部分は山間地域ですが、市街地一帯は平野部になっています。
平野形成の要因の1つとして、平野の北西に隣接する地すべり地帯に着目。
地すべり地形を地形・地質的な観点で分析したところ、過去に何度も活動し、土砂を流出した「晩年期の地すべり」と結論付けました。

前回記事はコチラ👇

今回は「小国町北西の地すべりと人間との関係」についてのお話です。


地形図を振り返る

では例の地すべり地形をもう1度見ましょう。

小国町市街地西方の地形図:スーパー地形画像に筆者一部加筆

地すべり地形の全体像です。
この地すべり地形の頭部付近に文字が書かれているのが見えるでしょうか?

小国町市街地西方の地形図:スーパー地形より抜粋

「沖庭神社」と書いてあります。
これまで記事を見ていただいた方々の中でも気になっていた人がいたでしょう。実は私も気になっていました(笑)

小国町市街地西方の地形図②:スーパー地形より抜粋

さらに拡大しました。
周辺の地形をじっくり見てみましょう。
等高線の内側にケバケバが図示されているのは凹地と言う意味です。また矢印もいくつかありますが、これも凹地を示す記号です。
尾根や凹地があちこちに点在しており、かなり起伏が激しいことが分かります。
全体的には台地状ですが、かなり乱れた土地と言った印象です。

なぜこんな場所に神社があるのでしょうか?

沖庭神社の歴史

標高650mの山頂部付近で、かつ古い地すべり地形で荒れた土地に、なぜポツンと神社があるのでしょうか?
付近を登山道が通っていることから、おそらく古くから使われている街道で人々の往来があったのかも知れません。
特に小国町は新潟県と山形県の県境ですから、商人等が頻繁に通っていた可能性がありそうです。

そこでネットで検索してみたところ、いくつかの情報がありました。
その中でも沖庭神社の歴史について明確な解説があったのが以下のサイトです。

このサイトによれば、沖庭神社は上杉景勝の会津国替えの際に、別の神社の御神体の1つを遷座して建てられたようです。
と言うことは、豊臣秀吉政権の末期からの歴史と言うことになります。
なお小国町は山形県南西部なので「会津」ではないので疑問に思ったのですが、「会津国替え」と言っても会津だけではなく、置賜地域(山形県南西部の地域。米沢市や小国町など)も領有したとのことです。

なおこの時に遷座された御神体がもともとあった場所は、光兎山(こうさぎさん)の山頂の神社です。
沖庭神社から北西に約10kmの場所にある花崗岩の山で、何と標高966m

光兎山周辺の地形図:スーパー地形より抜粋

中央部が光兎山です。
確かに標高966mの山頂部に神社マークがあります。
古くから山岳信仰の対象で、この地域の修験道の中心地だったようです。

そこから遷座された沖庭神社も同様だったのでしょう。昔は女人禁制だったとのこと。
私はてっきり、まだ地すべり土塊が残っていた頃に集落があり、その名残としての神社ではないか?と思ったのですが、違うようです(;^_^A

・・・と思ったのですが、地質や地元の情報をもう少し調べるうちに、「ある仮説」が思い浮かびました。
沖庭神社には、さらに古い歴史があるかも?
あくまで私の仮説でしかありませんが、それについては次回に続きます。

お読みいただき、ありがとうございました。

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