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伊達から上杉へ 米沢城跡と上杉神社【伊東忠太1】 山形県米沢市

長いこと西日本をベースにしていた自分にとって、文字通り未開の地だった東北。ちょっと昔の話になりますが、初めてその地に踏み入ったのが山形県の米沢。翌日は福島まで戻って仙台へ。戦国時代に興味を持つ人にとっては、避けて通るコトのできない鉄板エリア(多分)。
あちこちでよく分からない呪文のような言葉をかけられ、お土産屋に貼られた方言番付で呪文「おしょうしな」の意味を知った米沢。鉄道車両はボタンを押してドアの開閉をするコトを知ったのも米沢(雪国では常識?)。
おしょうしな米沢。

以降、東北のハブ(あくまで個人的な)になったのが米沢。福島の中通りや会津を回っての最終目的地として。また仙台方面や庄内方面への起点にも。米沢は東北地方でなぜか最も足を運んでいる場所です。



山形県は庄内、村山、山形、置賜と4つの地方に分けられます。
米沢市は県南部置賜おきたま地方最大の市で、山形県の最南端にあります。人口は77,000人、上杉氏の城下町として知られていますが、山形大学工学部のキャンパスがあり、先端技術企業の工場、近年高速道路も開通。
今回は米沢城跡と周辺の上杉関連スポットを。


米沢城跡

山形県米沢市丸の内1-4-13

米沢城は鎌倉幕府の頭脳大江広元おおえ ひろもと(1148-1225)を祖とする長井氏により築城。後に福島から勢力を拡大してきた伊達氏15代晴宗はるむね(1519-1578)の居城となります。独眼竜政宗まさむね(1567-1636)も生まれは米沢。
後に豊臣秀吉(1537-1598)の命により、伊達家から蒲生氏郷がもう うじさと、そして上杉景勝かげかつの領地に。


米沢市上杉博物館

現在の米沢市上杉博物館は、県の置賜文化ホールとの複合施設伝国の社として2001年に開館。設計は関空間設計と山形県土木部によるもの。上杉家から上杉家文書洛中洛外らくちゅうらくがい図屏風(ともに国宝)等が寄贈されていて、展示の目玉になっています。また能舞台を備えているのも特徴。

展示室内は一部撮影可。

洛中洛外図は狩野永徳かのう えいとく(1543-1590)の傑作で、織田信長から上杉謙信に贈られた上杉本と呼ばれるモノ。制作発注者は室町幕府の13代将軍足利義輝よしてる(1536-1565)とされています。


パンフ 2023年版

ちなみに現代の絵師で洛中洛外図のアップデート版をいろいろと描いている人が、山口晃やまぐち あきら(1969- )。

(参考)東京圖1・0・4輪之段 作家蔵 @アーティゾン美術館

江戸城(皇居)を中心に東京湾側から俯瞰した図。マル秘とされた空白地は防衛省のようです。山口さんはいずれ21世紀の永徳と呼ばれる人(多分)。


話を戻します。
上杉家あふれる特別展を企画する上杉博物館。この年の伊達家とのジョイントはやや反則的と言えます(笑)

伊達氏と上杉氏 展 チラシ
2016年10月-11月 上杉博物館
 
伊達氏と上杉氏 図録
発行・編集:米沢市立上杉博物館
2016年 127ページ

図録には初代から17代目となる独眼竜政宗までの肖像画も掲載。ちなみに現当主泰宗やすむねさんは34代目!

上杉博物館の特別展ネタは次から次へと出てきます。上杉氏は歴史も長く、展示テーマの切り口も多彩。さらに発行される図録にも隙がありません。
東北の市立歴史系博物館には、内容の濃いミュージアムが目立ちます(一方、県立系の存在はやや薄い)。市単位で成立している濃密な地域文化圏。

実は越後国主の上杉家(米沢藩主家は関東管領上杉氏を継承)は伊達家から養子を迎えようしたコトがあります。
政宗の曽祖父稙宗たねむね(1488-1565)が子の実元さねもと(1527-1587)を送り込もうとしました。この時に上杉家から伊達家に贈られたのが「竹に雀」の家紋。上記のチラシ&図録にあるように、両家の家紋が似ているのはそのため。
ちなみに養子の話は、実元が越後へ伊達家の精鋭を引き連れて行くのを兄の晴宗はるむね(政宗の祖父)が待ったをかけ(要因は他にも)、天文の大乱という伊達家の内紛に発展したため頓挫します。


上杉伯爵邸

上杉博物館の西にある上杉伯爵邸は、1919年に火災で焼失した上杉茂憲もちのり邸(米沢藩最後の藩主)を、1925年に中條精一郎ちゅうじょう せいいちろう(1868-1936)の設計により再建された邸宅。中條さんは米沢の人。
お庭と歴史ある建物のレストラン、見学だけでも可能。


上杉神社

米沢城跡本丸に鎮座するのは上杉神社。神殿は1919年伊東忠太いとう ちゅうた(1867-1954)設計によるもの。忠太さんも米沢の人で、日本各地の神社仏閣を多く手掛けられています。故郷に錦を飾った的な作品?
祭神は米沢上杉藩の祖となる上杉謙信うえすぎ けんしん景虎かげとら:1530-1578)。長尾為景ながお ためかげの子で越後の人。越後長尾氏は越後守護上杉氏に仕え、守護代を務めた家。謙信は上杉憲政のりまさ(1523-1579)の養子となり、関東管領識と山内上杉家(守護家とは別家)の家督を相続します。

謙信没後に越後から南奥州(120万石)へと移封された後継者の景勝かげかつ(謙信の甥:1556-1623)は、会津若松を居城としました。米沢は家臣直江兼続なおえ かねつぐ(愛の兜の人:1560-1620)におまかせ。
景勝のキャリアで興味深いのは、織田家には敵対し、織田家を継承した豊臣家には臣従。豊臣家中では重臣五大老の1人に名を連ねます。秀吉没後に五大老筆頭の徳川家康(1543-1616)との関係が悪化します。
家康からのイチャモンのような上洛命令に対し、景勝・兼続主従はいわゆる直江状で挑発してのガン無視。関ヶ原の戦いの原因となる家康主導の会津征伐へとつながります。
「来るなら来い!」と待ち構える上杉勢を栃木・小山で様子見していた家康勢は、上方での挙兵報告を受けUターン。ヤル気満々だった上杉勢は北の最上領へと矛先を変えましたが、関ヶ原は1日で決着したため上杉勢は撤退。気が付いたら上杉家は敗者グループの一員に。戦後処理で所領は米沢30万石へと激減するコトに(後に15万石)。
上杉家がスゴイのは収入が4分の1になっても、家臣をリストラしなかったコト。減給とワークシェアと副業でクリアしたカンジでしょうか。
天下人だった2人に盾突いても、上下一丸となり危機を乗り越えた家中。
そんな上杉家ですが領地経営には優れたモノがあり、謙信や鷹山は神様として祀られ、現在も米沢の人々に「先生」とか「公」と慕われる存在です。そういう気風というか雰囲気に包まれている米沢。


パンフ 2023年版


謙信さんの祠堂があった場所。謙信さんは越後春日山で亡くなりますが、遺骸は鎧と太刀着用で大きなかめの中に納められ安置されました。景勝さんの移封により会津若松を経由して謙信さんもこの場所へお引っ越し、名実ともに米沢の守護神に。明治以降は藩主御廟所へ。


ひっそりと政宗さん生誕地の碑もあります。伊達家の存在感はあまりない。


上杉謙信 像

米沢城跡には銅像がいろいろあります。当然のようにまずは藩祖様。謙信さん着用の白頭巾の実物(重要文化財)は稽照殿に所蔵され、劣化が進んだので国の補助事業として修復されると先日発表。


景勝&兼続 像

大河ドラマ記念のお二人。どうする?兼続 by 景勝の図。


上杉鷹山 像

次なる大河を虎視眈々と狙っている方。為せば成るのか?


稽照殿は上杉家伝来の具足や刀剣に、謙信が室町将軍から拝領した毛氈鞍覆(選ばれし方々専用馬の鞍カバー)等を所蔵しています。上杉博物館とセットで見るのが基本でしょうか。

それでは参拝へ

神社の建物自体はいたって普通。とはいえ忠太さんが計り知れない人だと気付くのはかなり後のコト。


駐日大使だったキャロライン・ケネディさんも米沢来訪。父J・F・ケネディさんは鷹山さんを敬愛していたそうです。
「為せば成る、為さねば成らぬ何事も。成らぬは人の為さぬなりけり」は、よく知られたフレーズですが、行動しなければ良くも悪くも結果は出ないのが当たり前。ただ鷹山さんが重要視していたのは、行動する前の気持ちのありようでしょう。

上杉鷹山 座像

鷹山さんは、上杉城史苑そばにも。ただこれで終わらないのが米沢。


上杉鷹山と細井平洲

もう一人の神様、上杉鷹山ようざん治憲はるのり:1751-1822)は、九州の日向高鍋藩主秋月種美あきづき たねみつ(1718-1787)の子。上杉家には養子で入り、徹底した倹約と殖産興業に藩校の再興によって傾いた藩財政を立て直した人。鷹山さんは城跡内の松岬まつがさき神社に祀られています。
そして鷹山さんの師匠が細井平洲ほそい へいしゅう(1728-1801)、尾張の人。江戸で上杉家の嗣子となった鷹山さんの師となり、米沢にも下り指導するコト3度(後に尾張徳川家にも招かれた人)。3度目の下向時(平洲69才)には、鷹山さんが郊外の普門院まで師匠を出迎えます。


普門院(米沢市関根)

思わず声が出たのは、普門院のかやぶき門を見た時のデジャヴ感から。
米沢には稽照殿と並ぶ博物館があります。その宮坂考古館は、上杉家歴代や直江兼続に前田慶次郎けいじろう利益とします、前田利家の甥:1605-1612)の具足が並ぶ必見のミュージアム。慶次郎はマンガのイメージが先行しすぎの人(笑)ですが、その具足にそっくりだった門(パンフ参照)。

宮坂考古館 パンフ2016年版
慶次郎の具足がトップ

境内にあるのは69才の平洲先生を出迎える鷹山さん。この銅像は平洲さんの地元愛知県東海市から2014年に寄贈されたモノ。鷹山さん3体目。

敬師の像


細井平洲 座像 @平洲記念館(愛知県東海市)

こちらは地元で見守る平洲先生。東海市の全国的知名度は分かりませんが、個人的にはなぜか縁のあったトコロ。


普門院そばにあった東北のあちらこちらで見かけるカンバン。このあたりは言われなくてもそういう雰囲気がプンプンします。

米沢には波長が合う何かがあります。そして関東からは遠くまでやって来た感と遠すぎない丁度いい距離感。東北の玄関口・白河からの下道ルートはどこを通っても気持ちよく走れますが、クマはお断り(見たコトはない)。



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