樋熊克彦

趣味は、歴史、特に満洲を研究しています。あと、戦国と幕末が好き。  エッセイを書いています。 英語・中国語を勉強中。 陶芸は、始めて1年。 クラシック、特にピアノ、ヴァイオリンが好き。JAZZ、J-POPも好き。

樋熊克彦

趣味は、歴史、特に満洲を研究しています。あと、戦国と幕末が好き。  エッセイを書いています。 英語・中国語を勉強中。 陶芸は、始めて1年。 クラシック、特にピアノ、ヴァイオリンが好き。JAZZ、J-POPも好き。

最近の記事

多摩出身の新撰組隊長 近藤 勇 ②     

 近藤勇の驍勇を世にしらしめたのは、 池田屋襲撃の一挙である。  道具商・桝屋喜右衛門(ますやきえもん)こと、古高俊太郎(ふるたかしゅんたろう)を捕らえ、拷問によって、幕府反対派の志士の恐るべき計画が発覚した。  それは、烈風の夜を選んで、禁裏(天皇・公家かいる所)の風上に潜行して、火を放ち、場合によっては禁裏の四方を火をもって、取り包むのみか、中川宮にも放火して、これに驚いて参内する京都守護職・松平容保(まつだいらかたもり)を襲い、また、反長州系諸大名を襲い、いきおいに乗

    •  多摩出身の新撰組隊長 近藤 勇 ①

       近藤勇、天保五年(1834)、武蔵調布上石原(東京都調布市)に生まれた。  父を宮川久次という。剣を江戸試衛館の剣士・近藤周斎に学び、後に周斎の養子となった。  幕末にあたり、諸藩浪士の跳梁(ちょうりょう)が、はなはだしく、幕府は、その懐柔統制のため、広く浪士を募集した。その数は約250名に達した。  清川八郎をもって領袖とした。勇は、試衛館の剣士、山南敬助(やまなみけいすけ)、土方歳三、沖田総司らと共に参加した。  文久三年(1863)、将軍・徳川家茂が京都へ上洛するので

      •  歴史小話 ②〜北条早雲〜

         前回、北条氏政を書いたので、北条氏の小話を一つ。  戦国時代に、伊豆を征服した北条氏の祖、北条早雲は、相模国に進出し、小田原に拠点を構えた。北条氏は五代で滅びる。滅ぼしたのは、豊臣秀吉で、北条氏の治めていた土地に、徳川家康を入れた。  徳川家康は、旧北条領が、治めにくかったという。このことについて、後年の勝海舟は、徳川家康が旧北条領が、治めにくかったのは、北条氏の政治が行き届いていたからだ、と言っている。  北条早雲は、伊豆から相模国を治めるときは、まず税金を安くした。そ

        •  思い切りの良さがなかった 北条氏政

           北条氏政といえば、軍記物に見られる「汁かけ飯」の逸話が有名である。  小田原北条氏3代目当主の氏康と、その嫡男の氏政が、小田原城内で一緒に食事を取っていた時のこと。氏政は、飯に汁をかけて食べようとするのだが、かける分量をうまく見積もれず、食べてはかけてをくり返していた。それを見た氏康が、「飯をかける汁の量も測れんとは、わしの代で当家も終わりか」と言って嘆いたという。  氏政は、思い切りの良さに欠けていた。しかし、氏政の慎重さも物語っている。   北条氏政は、小田原城を本拠

           歴史小話 ①

           今週は、忙しくて、やることがあるので、短めの歴史の小話を。  頭が切れる人は、人に、警戒されやすい。  黒田官兵衛は、本能寺の変の時、羽柴秀吉と共に、毛利攻めをしていた。  秀吉が、本能寺の変で、師匠の織田信長が亡くなったのを聞きて、泣いたのは、真実の涙だったと思う。秀吉は信長に拾われ、人がましくなれたからだ。  官兵衛は、本能寺の変を聞いたとき、どういう言葉を秀吉にどういう言葉をかけたか分からないが、官兵衛は、秀吉に、今が天下を取る絶好のチャンスだということを、進言した

           歴史小話 ①

           中村天風と私 ②

           昨日、今日と趣味である陶芸の展示会があった。  私を陶芸に誘ってくれた人が、亡くなって、2ヶ月経つ。その陶芸のお師匠様の作品も、故人を偲ぶ形で、我がサークルは展示した。  この陶芸のお師匠様と会ったのは、私が働いている職場であった。陶芸の展示会に誘われて、1,2回、見に行ったが、まさか、不器用な私が、この人に、誘われて、自分も陶芸をやるとは、思っていなかった。  この陶芸のお師匠様は、決して人の悪口を言わず、人を、良い面からみる人だった。この人の周りは、いつも春風が吹いてい

           中村天風と私 ②

           私と満州 ①

           これから、私の研究対象である、 満州について、月1回、短めの文章を 乗せていこうと、思います。  満州とは、現在の中国東北地方(遼寧省・吉林省・黒龍江省)である。  私が満州に興味を持ったのは、1990から連載していた、『龍(ろん)』という、村上もとかさんのマンガを読んでいたからである。  そのマンガは、戦前の閉塞した時代に、ハツラツと生きていった、一青年の青春と当時の中国について、描かれていた。漫画、完結までは、よんでいない。    次に興味を持ったのは、船戸与一 著

           私と満州 ①

          早稲田大学を作っただけではない 政治家 大隈重信 ②

            明治新政府の参与に抜擢された、大隈重信。  大隈の仕事の始めは、未経験の財政・会計分野だった。  明治政府の財政を取り仕切っていた 由利公正(ゆりきみまさ)は、戦費調達と維新政府の資金不足を補うため、金札(太政官札)と呼ばれる不換紙幣(ふかんしへい)を濫発していた。しかし、不換紙幣は、正貨(金銀などの貨幣)と交換ができる紙幣ではないので、市中の信用が得られず、人々は額面より大幅に安い相場で正貨と交換せざるを得なかった。  外国人商人が日本人商人から金札を受け取り、それを正

          早稲田大学を作っただけではない 政治家 大隈重信 ②

           早稲田大学を作っただけではない 政治家 大隈重信 ①

           江戸時代の末期、1838年に佐賀藩に産まれた大隈重信(おおくましげのぶ)。この人は、早稲田大学を作ったことで、有名だ。  佐賀平野という豊かな大地、日本の表玄関・長崎に近く、「蘭癖大名」と呼ばれた佐賀藩主・鍋島閑叟(なべしまかんそう)が作り出した進取の気風が、大隈を育てた。  六歳で佐賀藩の藩校の弘道館の外生寮(通いの学校)に入った大隈は、目立たない少年だったが、内生寮(寄宿生)に進学してから、頭角をあらわし始めた。  嘉永六年(1853)のペリー来航は、  佐賀藩にも衝撃

           早稲田大学を作っただけではない 政治家 大隈重信 ①

           中村天風と私

           歴史とは、様々な人の生き方を眺めることが、できる学問である。  特に私が興味あるのは、その人物が、成功してからの、引き際である。ここに、人としての美しさを感じることが、てきるからである。  私はまだ、成功を目指している所なので、富も権力も持っていないが、持ちたいと思っている。  なぜか?やはり、富や権力があれば、 やることができる選択肢が、増えるからである。  私は、プラン・インターナショナルジャパンという所を通して、アフリカのニジェールという国の10歳くらいの女の子に毎月

           中村天風と私

          信長・秀吉 御茶湯御政道

           安土・桃山時代は、世界史的に貨幣制度が混乱した時代だった。日本国内で流通してきた銅銭と反比例するように、明での銅の産出量が減ってくることで、銅銭の絶対量が不足してきた。  日本の石見銀山で採掘された銀が、灰吹法(はいふきほう)という精錬技術の導入によって生産量を爆発的に伸ばし、それを明に輸出することで、世界経済が 回り始める。日本で産出した銀が大陸に渡り、銅貨から銀貨への転換を促した。  こうした経済のグローバル化によって日本は豊かになり、富裕層が形成されていく。堺商人など

          信長・秀吉 御茶湯御政道

          つかみどころのない人  西郷従道 ②

           明治四年、琉球の民が台湾に漂着して、 蕃族(原地の人)に殺された。清国は、 我関せず、の態度をとったので、日本国は台湾征討を決め、西郷従道は、司令官として、出港した。  明治七年五月二十二日、従道、台湾の極南、琅キョウ(現在の恒春)に着き、 本営を山麓にしき、兵を進めて蕃族を征討した。  ここは、上蕃社十八、下蕃社十八、のべ三十六社、その中で牡丹社を最も凶勇とする。  従道、これらを数日で、石門の険を破って全社を降伏させた。これによって、 従道都督の威名は全蕃社に響き、蕃人

          つかみどころのない人  西郷従道 ②

          つかみどころのない人西郷従道 ①

           西郷従道(つぐみち)、天保十四年(1843)に、鹿児島加治屋町に生まれた。慎吾と称す。  西郷隆盛の弟。    従道、論語の読み方を伊地知正治に 学んだ。正治、丁寧で親切であったが、従道、記憶力が鈍くて、なかなか覚えられなかった。正治、日に日に従道を叱るようになった。  ある日、従道、踊り上がって正治に組み付いて、正治を叩いた。正治、笑ってこの子は、読書は駄目だが、後に必ず、名を成す者になるだろうと予言した。  西郷家は、鹿児島藩の小臣で家計はいつも火の車であった。家も小さ

          つかみどころのない人西郷従道 ①

          信長の一番弟子 蒲生氏郷

           織田信長が、見いだし、育成した 「人材」の中でも、「智・弁・勇」の 三徳を備えた、最高の愛弟子は、 蒲生氏郷であった。  弘治二年(1556)近江国蒲生郡日野( 現・滋賀県蒲生郡日野町)の城主・蒲生賢秀の嫡男として生まれ、永禄十一年(1568)、父の人質として信長の許へ遣わされる。  幼名鶴千代をみた信長は、聡明さと弁舌のさわやかさ、勇猛果敢な性格、 さらには鋭敏な美的センスに、己に等しい価値をみた。  信長はこの若者を、自ら一人前の武将に育てあげた。のみならず、美貌の愛娘

          信長の一番弟子 蒲生氏郷

           稀代の正義漢 江藤新平

           今回は、幕末、明治時代に活躍した 徹頭徹尾、正義の男。しかも、その正義とは、新たな国家を築くのに、絶対に必要な正義だった。  男の名は江藤新平。 悪を排斥し、正義を執行するために生まれてきた男である。  江藤新平は、天保五年(1834)、肥前佐賀(鍋島)藩の下級武士の家に生まれた。  江藤は身なりなど一切構わず、がむしゃらに書物を読み、知識を吸収するような少年だった。  文久二年(1862)、29歳の時に脱藩して京に上り、志士活動をする。 ところが、当時、脱藩は重罪であり

           稀代の正義漢 江藤新平

          織田信長の桶狭間合戦

           織田信長の合戦は、意外と運任せに見えるものが多い。  しかし、目の前に転がってきた運を 掴むには、それを見極める眼力とこれを握りしめて離さない腕力が必要。  桶狭間合戦は、合戦時に雨☔が降ったことで有名である。  信頼できるとされる『信長公記』首巻(天理本)には、次のように書かれている。 【意訳】  (織田信長が今川義元の本陣がある)桶狭間山の間近まで接近して、これから攻撃するところにいきなり大雨が降り、 義元隊はこの投げ打つような強い雨を顔面に受け、味方(織田信長隊

          織田信長の桶狭間合戦