樋熊克彦

趣味は、歴史、特に満洲を研究しています。あと、戦国と幕末が好き。  エッセイを書いてい…

樋熊克彦

趣味は、歴史、特に満洲を研究しています。あと、戦国と幕末が好き。  エッセイを書いています。 英語・中国語を勉強中。 陶芸は、始めて1年。 クラシック、特にピアノ、ヴァイオリンが好き。JAZZ、J-POPも好き。

最近の記事

信長・秀吉 御茶湯御政道

 安土・桃山時代は、世界史的に貨幣制度が混乱した時代だった。日本国内で流通してきた銅銭と反比例するように、明での銅の産出量が減ってくることで、銅銭の絶対量が不足してきた。  日本の石見銀山で採掘された銀が、灰吹法(はいふきほう)という精錬技術の導入によって生産量を爆発的に伸ばし、それを明に輸出することで、世界経済が 回り始める。日本で産出した銀が大陸に渡り、銅貨から銀貨への転換を促した。  こうした経済のグローバル化によって日本は豊かになり、富裕層が形成されていく。堺商人など

    • つかみどころのない人  西郷従道 ②

      明治四年、琉球の民が台湾に漂着して、 蕃族(原地の人)に殺された。清国は、 我関せず、の態度をとったので、日本国は台湾征討を決め、西郷従道は、司令官として、出港した。  明治七年五月二十二日、従道、台湾の極南、琅キョウ(現在の恒春)に着き、 本営を山麓にしき、兵を進めて蕃族を征討した。  ここは、上蕃社十八、下蕃社十八、のべ三十六社、その中で牡丹社を最も凶勇とする。  従道、これらを数日で、石門の険を破って全社を降伏させた。これによって、 従道都督の威名は全蕃社に響き、蕃人

      • つかみどころのない人西郷従道 ①

         西郷従道(つぐみち)、天保十四年(1843)に、鹿児島加治屋町に生まれた。慎吾と称す。  西郷隆盛の弟。    従道、論語の読み方を伊地知正治に 学んだ。正治、丁寧で親切であったが、従道、記憶力が鈍くて、なかなか覚えられなかった。正治、日に日に従道を叱るようになった。  ある日、従道、踊り上がって正治に組み付いて、正治を叩いた。正治、笑ってこの子は、読書は駄目だが、後に必ず、名を成す者になるだろうと予言した。  西郷家は、鹿児島藩の小臣で家計はいつも火の車であった。家も小さ

        • 信長の一番弟子 蒲生氏郷

           織田信長が、見いだし、育成した 「人材」の中でも、「智・弁・勇」の 三徳を備えた、最高の愛弟子は、 蒲生氏郷であった。  弘治二年(1556)近江国蒲生郡日野( 現・滋賀県蒲生郡日野町)の城主・蒲生賢秀の嫡男として生まれ、永禄十一年(1568)、父の人質として信長の許へ遣わされる。  幼名鶴千代をみた信長は、聡明さと弁舌のさわやかさ、勇猛果敢な性格、 さらには鋭敏な美的センスに、己に等しい価値をみた。  信長はこの若者を、自ら一人前の武将に育てあげた。のみならず、美貌の愛娘

        信長・秀吉 御茶湯御政道

           稀代の正義漢 江藤新平

           今回は、幕末、明治時代に活躍した 徹頭徹尾、正義の男。しかも、その正義とは、新たな国家を築くのに、絶対に必要な正義だった。  男の名は江藤新平。 悪を排斥し、正義を執行するために生まれてきた男である。  江藤新平は、天保五年(1834)、肥前佐賀(鍋島)藩の下級武士の家に生まれた。  江藤は身なりなど一切構わず、がむしゃらに書物を読み、知識を吸収するような少年だった。  文久二年(1862)、29歳の時に脱藩して京に上り、志士活動をする。 ところが、当時、脱藩は重罪であり

           稀代の正義漢 江藤新平

          織田信長の桶狭間合戦

           織田信長の合戦は、意外と運任せに見えるものが多い。  しかし、目の前に転がってきた運を 掴むには、それを見極める眼力とこれを握りしめて離さない腕力が必要。  桶狭間合戦は、合戦時に雨☔が降ったことで有名である。  信頼できるとされる『信長公記』首巻(天理本)には、次のように書かれている。 【意訳】  (織田信長が今川義元の本陣がある)桶狭間山の間近まで接近して、これから攻撃するところにいきなり大雨が降り、 義元隊はこの投げ打つような強い雨を顔面に受け、味方(織田信長隊

          織田信長の桶狭間合戦

           凡人 徳川家康

           日本史において、最も成功した人物は、徳川家康であると、思う人は多いと思う。  家康は、天下人として、世を終えて 現在も皇族から一般人まで、その血を受け継いだ人が、多いからだ。  なぜ、家康がこれだけの成功を収められたのか?  家康には、生前から言われていたが、 「律儀」という一面があった。  織田信長との清洲同盟を律儀に守り、 強大な敵、武田信玄との三方ヶ原の戦いで、勝ち目がない戦も自分のため、信長のため、戦った。  また、家康は「己を知っていた」「分をわきまえていた」「無

           凡人 徳川家康

           羽柴秀吉の備中高松城、水攻め

           京都で織田信長が明智光秀に討たれた時、羽柴秀吉は、いち早くそれを知った。  当時、秀吉は中国地方の毛利氏と戦っており、毛利方の備中高松城(岡山県)を包囲中であった。城の周囲に堤防を築き、梅雨で増水した河川の濁流を流し込み、水攻めにしていた。  だが、信長の死を知ると、秀吉はすばやく毛利と停戦して、都へ取って返し、光秀を破って天下を取った。  よく出る疑問がある。「秀吉軍は水攻め堤防を三キロ近く築いた。がしかしこの堤防のわずか一キロ先の川向うまで、毛利軍が高松城の援軍にきてい

           羽柴秀吉の備中高松城、水攻め

           会津の鬼官兵衛 佐川官兵衛 ②

           鳥羽伏見の戦いに敗れて、会津藩兵は、東還し本国に帰ってきた。  錦の御旗が江戸にひるがえっている。 関東は官軍に席巻された。  朝廷、北越征討の兵を発した。  官兵衛、君命を奉じて越後長岡の救援に向い、長岡藩の総裁・河井継之助と共闘し、奪われた長岡城を奪還した。  しかし、時に会津藩において、白河口から官軍により圧迫され、危険になったため、藩主 松平容保は、官兵衛にすみやかに帰るように命じた。官兵衛、 会津若松に帰還した。  官兵衛、会津若松に帰るや藩主は、家老に任じ、防戦

           会津の鬼官兵衛 佐川官兵衛 ②

           会津の鬼官兵衛 佐川官兵衛

           佐川官兵衛。江戸末期、陸奥会津若松城五軒町に生まれた。文武両道で、特に馬術と剣術に優れていた。  文久年間、会津藩主 松平容保は、京都守護職に任ぜられ、藩士を率いて上洛した。元治元年(1865年)に会津藩と薩摩藩が手を結び、長州藩を京都から追い落としたのが、禁門の変。  以来、都下は騒然としていて、警護の隊の充実が必要だった。  会津藩は、藩士の子弟で武術優秀の者を選んで、別選隊を編成したが、官兵衛は勇敢さを見込まれ、別選隊長となった。  官兵衛、壮年にして、剛直、胆略があ

           会津の鬼官兵衛 佐川官兵衛

          上田重安 一番槍から風流人へ

           戦国時代、一番槍にのみ、こだわり大名、家老にまでなった武将に、 上田重安(しげやす)がいる。  彼は、尾張国星崎(現・愛知県名古屋市南区)に、織田信長の重臣・丹羽長秀の家臣の子として生まれた。  信長が本能寺の変に横死したおり、 四国方面軍副司令官の丹羽長秀とともに、渡海の準備に追われていた。  本能寺の一報が伝えられるや、重安は、長秀に命ぜられ、叛将・明智光秀との内通が疑われた光秀の娘婿、津田信澄(信長の弟・信勝の子)を、一騎で打ち取りに出向いている。まっさきに駈けて大坂

          上田重安 一番槍から風流人へ

           若き日の織田信長

            信長は、家督を継ぐ、はるか前から その土地を継ぐことはできない、次男、三男であるものを従え、信長自身が自ら、しごき、鍛え上げた、部下を持っていた。  彼らと、角力を取ったり、殴り合ったりしながら、自分の手足と同じような精鋭をもっていた。  信長の父、信秀が突然、亡くなった時、彼は、尾張の半国も統一していなかった。  その彼が、骨肉の争い、血みどろの戦いを続けることが、できたのは、自分の手足となる部下がいたことが、その生存競争を勝ち抜けた要因であった。  その信長の子飼い

           若き日の織田信長

          下剋上の極悪人 松永久秀

          後世、゛下剋上の三極悪人゛の筆頭に挙げられるのが、松永弾正少弼久秀であった。  あるとき久秀が従属していた織田信長に拝謁していると、徳川家康が挨拶にやってきた。  信長が家康に、久秀を指して言った。 「三河どの、この老人が松永弾正でござるよ。心の許せぬ奴じゃが、この男、他人のまねのできぬことを三つまでやってのけた。一つは、主家の三好家を滅亡させたこと。二つは、十三代将軍・足利義輝を弑逆(しいぎゃく→主君や父親を殺すこと)したこと。三つには、奈良の大仏殿を焼き払ったこと。普通の

          下剋上の極悪人 松永久秀

          谷干城 熊本城攻防戦②

           明治10年、西南戦争が始まった。  薩摩の健児一万数千、西郷隆盛を擁して、怒濤の如く、押し寄せ、熊本城を 包囲した。  薩軍は、剽悍の士、率いる将は、天下知名の猛将軍らである。  これに対して熊本城を守る者は、しょせんクソ鎮である。この城が敗れたら、 天下が瓦解する勢いとなるから、司令長官たる谷干城の重責は、天下安危存亡を決するものであった。  干城の策は、熊本城を固く守って、敵勢を阻み、東京よりの援軍をくるのを待って、一挙に敵を掃討することであった。  熊本城にいる将

          谷干城 熊本城攻防戦②

          谷干城 熊本城攻防戦 ①

          谷干城(たにたてき)、江戸時代末期に、土佐に生まれた。   小さい頃は、学問は全く関心がなかった。成年に近づく頃から、学問は、 格段に進歩した。  江戸に遊学し、安井息軒の門に入った。入塾後、数ヶ月にして、塾頭になった。  1867年、王政復古の大号令が発せられ、西郷隆盛は、干城に倒幕の議が 進んでいると告げた。  土佐藩は、板垣退助を司令として、明治元年、土佐大隊、高知を出発し、干城、その小監察となって、軍隊と共にした。  京都に入り、朝廷より東征の命下り、 板垣、総督の任

          谷干城 熊本城攻防戦 ①

          家康の三方ヶ原の戦いの真相

           徳川家康は、三方ヶ原の戦いで武田信玄に大敗した。ところが、死ななかった。浜松城に逃げ込んだ。信玄は浜松城を包囲して家康を討ち取ろうとは、しなかった。家康が無傷で浜松城に逃げ込めたのは、忠義の三河武士が盾になって、護ったせいもあるが、それだけではない。  通常の説では、この合戦は、武田信玄軍20000〜30000人、徳川家康軍8000人。徳川軍には別に織田信長の援軍3000人がいたとされる。  問題は信長の援軍3000である。これが怪しく、複数の資料に照らすと、どうみても過小

          家康の三方ヶ原の戦いの真相