「内府ちがひの条々」
「内府ちがひの条々」=「内府」(内大臣 = 徳川家康)の「ちがひ」(違い、違約。豊臣秀吉 が生前に定めた取り決めを破ったこと)の「条々」(列挙した条文)=徳川家康 への批判を書いた弾劾状です。
①五人の奉行「五大老」、五人の年寄「五奉行」を定めた「誓紙」(連判状)にサインしたのに、早くも、「五奉行」の内の2人(石田三成と浅野幸長)を追い込んだ事。
②五人の奉行「五大老」の内、羽柴肥前守(前田利家)に誓紙を差し出し、違背の無き事を誓ったにもかかわらず、先ず「上杉景勝を討つ」といって、故・前田利家を継いだ前田利長から人質(実母・芳春院(まつ))を取り、追い込んだ事。
③上杉景勝には何の咎もないのに、誓紙の約定を違え、また、太閤様(豊臣秀吉)の置目(遺命)に背き、このたび上杉景勝討伐を企てたのは嘆かわしく、何度も手を変え品を変えて、その理を申し述べたのに、許可なく出馬した事。
④知行については、「自分が受けることはもちろんのこと、取次ぎをもしてはならぬ」という決まりがあるにもかかわらず、この誓紙にも違えて忠節も無い者に知行を与えた事。
⑤伏見城については、太閤様(豊臣秀吉)が命じた伏見城の留守居役を追い出し、私的に(自分の判断で)軍勢(鳥居元忠など)を入れ置いた事。
⑥「十人」(「五大老」と「五奉行」)以外の者との誓紙のやりとりが禁じられているにもかかわらず、数多く誓紙のやりとりをした事。
⑦(伏見城ではなく)北政所様(寧々)の御座所(大坂城西ノ丸)に住んでいる事。
⑧大坂城西ノ丸に大坂城本丸同様の天守閣を築かせた事。
⑨(諸大名に命令に従わせるために、人質として妻子を大坂に集めていたが)自分がひいきにしている大名の妻子を、国もとへ返した事。
⑩縁組の事。(太閤殿下の)御遺命に背いていることをその都度指摘し、承知していただいたにもかかわらず、重ねて数多くの縁組を行った事。
⑪若い者共(福島正則や黒田長政ら武断派七将)を扇動し、徒党を組ませた事。(武断派七将が石田三成を襲った「七将襲撃事件」の基盤を作ったこと。)
⑫「五大老」の5人が連署して出すべき書状に、自分1人だけ署名した事。
⑬内縁の者に便宜を図り、石清水八幡宮(※)の検地を免除した事。
以上、誓紙の内容に少しも従おうとせず、太閤様の御置目(遺命)に背いては、何をもって根拠としているのか。この上は一人残らず決意の上、豊臣秀頼様おひとりを主人と仰ぎ奉ることは、まことに当然のことである。
※石清水八幡宮
※全13箇条であるが、上杉版「内府ちがひの条々」は。1条目(石田三成と浅野幸長の追放)と11条目(「七将襲撃事件」)が含まれていない全11箇条である。
・白峰旬「『歴代古案』収載の「内府ちかひの条々」について -上杉版「内府ちかひの条々」に関する若干の考察-」
■徳川家康暗殺未遂事件
豊臣秀吉の遺命は「前田利家は大坂城で豊臣秀頼の貢献をし、徳川家康は伏見城で政務を執り行う」であったが、前田利家が亡くなり、前田利長が五大老のメンバーになると、徳川家康は、五奉行・増田長益から「徳川家康暗殺計画」があると聞かされた。
徳川家康は、大坂城二ノ丸に天守を作り(第8条)、軍を率いて入った(第7条)。首謀者の前田利長は、すぐに謝罪したので、死罪&領知没収を逃れることができ、
・前田利長は、赦免。
・前田利長の母・芳春院(まつ)は、人質として江戸住まい。
・養嗣子・前田利常と徳川秀忠の娘・徳川珠姫との結婚。
となった。
■上杉征伐(会津征伐)
「内府ちがひの条々」のポイントは第3条の上杉征伐(会津征伐)である。
上杉景勝には何の罪もないのに、誓紙の約定、及び、豊臣秀吉の遺命に背き、今回、上杉「可被討果儀」(討ち果たせらる儀)を、何度も止めたのに決行した。これは「豊臣政権による征伐(成敗)」ではなく「(「直江状」に怒りを感じての?)私的な討伐」「惣無事令に反する私戦だ」とある。
──上杉征伐軍のメンバーが読んだらどう思うだろうか?
今回、軍事力を強化している事の弁明を何度も促しても上洛しない謀反人・上杉景勝の成敗のために、豊臣政権に徴兵されて上杉征伐軍が結成され、遥々関東まで来た。豊臣秀吉は、生前、徳川家康に東国の治安維持を期待して関東移封を命じていたので、徳川家康が総大将にふさわしい。それを「徳川家康の私戦だ」と言われたら・・・私なら豊臣政権に不信感を抱くよ。
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