上杉景勝おのタタキサラダ
「目に青葉、山ホトトギス初鰹」
五月の風情を読み込んだ山口素堂の俳句ですが、もう五月も終わろうとする今頃になって今年初の鰹を料理しながら、軍神の跡を継いだ人物を妄想した記録。
鰹刺身柵 200グラム
水菜 1株
細葱 1本
新玉葱 1/4
大蒜 小粒が3
醤油 大匙3
蜂蜜 小匙1
胡麻油 小匙2と適量
コチジャン 小匙半分
毘沙門天の化身とも言われた越後の龍、上杉謙信ですが妻帯せず、実子がいませんでした。
戦国時代を生き抜く武家としては、ましてや大名としては跡継ぎ問題は重要。子は多い方がいいと考える者が多いのに珍しいこと。
そのため、上杉謙信は女だったという説がある程。
実子がいないので養子が二人、景虎と景勝。
景虎というのは北条氏康の七男で元々の名前は三郎。上杉家と北条家は長らく敵対関係にあったのですが、北条家と武田家との同盟が破綻。新たに北条家は上杉家と同盟。同盟の証人、つまり人質として越後に送られたのが三郎。
人質だったのですが謙信に気に入られたのか、謙信の姪と結婚。更に謙信の昔の名前である景虎を名乗ることを許される。景虎も実家よりも居心地がよかったのか、北条と上杉の同盟が破綻した後も越後に留まっていました。
一方の景勝ですが、越後魚沼の上田長尾家当主、長尾政景の次男。母親は謙信の姉。つまり景勝は謙信の甥。
父方の曾祖母は上条上杉家の出身。つまり景勝は父母共に上杉家の血を引く人物。ということから謙信の養子に迎えられました。
血縁の近さからすれば、後継者としては申し分ないので謙信からも様々な薫陶を受ける。
天正六年(1578)上杉謙信は春日山城にて突然、倒れて4日後に死亡。
倒れた後は意識が戻らず、遺言も用意されていなかったということは、何が起こるかというと跡目争い。
家中は景虎派と景勝派に真っ二つ。この相続争いは御館の乱と呼ばれます。
景勝側は春日山城本丸と金蔵を占拠。景虎側は城下の御館に立て籠る。三か月程の紛争の後、武田勝頼が調停に乗り出してくる。武田は北条と同盟しているので、北条家出身の景虎を擁護。越後と信濃の国境まで武田軍が迫ってくる。景勝にとってはピンチ。
さあ、どうする景勝という場面ですが、武田と交渉。領土割譲や多額の金子を渡すことで和睦成立。
土地と金であっさりと転ぶとは、武田勝頼も本気で北条との同盟の友誼を守ろうなんて気はなかったということ。自分に有利に事が運べばそれでよし。戦国武将はドライなこと。
更に景勝は武田との関係強化のため、勝頼の異母妹である菊姫と婚約。
これにて形勢逆転、景虎が一気に窮地に。
天正七年(1579)景勝は降伏を勧告。
しかし、景虎の妻はこれを受け入れずに自害。実はその女性、景勝の実の姉。景勝と景虎は姉を通じて義理の兄弟でもあった訳。
景虎の養祖父であったのは上杉憲政。元々、関東管領だった人物で謙信に管領職と上杉の苗字を譲った人物。御館というのはこの人の屋敷のこと。
まあ、景勝にとっても養祖父ということになりますが。
この憲政と景虎の嫡男が討たれたことで絶望したのか、ついに景虎自害。
こうして晴れて、上杉景勝が跡目争いを制して当主に。
この内乱で上杉家はかなり乱れ、景勝は戦後処理として景虎派ばかりではなく元々、謙信と共にいた上杉家臣達も追いやり、自分が率いていた上田衆を上杉の中枢に据える。
ここまで敢えて名前を出していませんでしたが、こうした景勝の活動と歩みを共にして、共に乗り越えてきたのが直江兼続。彼も上田衆。
どうにか越後がまとまったかというと、そうではなく、御館の乱での恩賞に不満があった新発田重家が織田信長と結んで反乱。天正九年(1581)のこと。
武田といい織田といい、よく上杉家に絡んでくることです。謙信が亡くなったので舐められている?
織田家の北陸方面司令官である柴田勝家率いる4万の軍勢が迫る。
景勝の妻の実家、武田家が援軍を出してくれる約束でしたが、翌天正十年に武田家滅亡。独力で織田家と戦わねばならなくなる窮地。
ところが、本能寺の変で信長急死。これにて救われる。
水菜と新玉葱の上にタタキを乗せて、刻んだ葱を乗せる。そこに特性赤黒タレを回し掛ける。しっかりと混ぜると美味しさ倍増。
鰹は血の味が濃いので、醤油だけではなく薬味を混ぜて食べる方が美味。たっぷりの大蒜と葱がその役割を担う。摺り胡麻が風味を引き立てる。
新玉葱は辛みだけではなく、血液サラサラ効果も頂ける。主役の鰹からはタンパク質だけではなくビタミンAやD、血の色が濃いということは鉄分も豊富。
辛みあるタレが鰹と野菜をしっかりと結びつける。
この後も様々な苦難を、上杉景勝は直江兼続と二人三脚で乗り越えていくことになります。興味深い話も多いのですが、残念ながら料理完成。続きはまたいつか。最近、こんなパターンが多いな。
最後に一つ、景勝の人となりを示す逸話。
上杉景勝は厳格な性格で、家臣の前で笑うことはなかったといいます。
猿を飼っていたのですが、その猿が景勝の座す場所に座ってしまい、主人の真似を始めたことがあったとか。
猿に馬鹿にされたと怒るかと思いきや、景勝は思わず笑ってしまったという。これが後にも先にも一回きりに景勝が笑顔を見せたという時。
過酷な状況を制して上杉家を継ぎ、引っ張らねばならない重圧から笑顔が消えていたのかもしれない。そんなことを妄想しながら、上杉景勝おのタタキサラダをご馳走様でした。