月岡芳年コレクター

月岡芳年を集めています、備忘メモ。国際浮世絵学会員。 画像の無断利用はご遠慮下さいませ…

月岡芳年コレクター

月岡芳年を集めています、備忘メモ。国際浮世絵学会員。 画像の無断利用はご遠慮下さいませ。お問い合わせ:https://note.com/onehundredmoon/message

マガジン

  • 合戦絵

    続絵、単作

  • 東錦浮世稿談

    東錦浮世稿談(あずまのはなうきよこうだん)は講談の集客を目的として制作された。歌舞伎狂言を取り上げて、仮名垣魯文が各話の導入を紹介している。

  • 和本

    和本。保管が大変。

  • 西南戦争錦絵

    西南戦争(1877年)の錦絵。鮮やかな色彩で戦争の様子を描き、庶民にとって貴重な時事情報源となった。当時の社会情勢や大衆芸術を知る重要な歴史資料とされる。

  • 風俗三十二相

    1888年(明治21年)、大判32枚の美人画揃物。

最近の記事

  • 固定された記事

月百姿 心観月 手友梅

盲目の戦国武将・手友梅(てのゆうばい)は、背中の指物には竹の短冊で歌を掲げた。備中国吉城では、毛利の軍勢に多勢に無勢で戦い討ち取られた。皆がかつてない盲人と涙を流したという。芳年は歴史に消えた無名の士に光を当てた人だった(小早川に滅ぼされた三村家の人間か)、目録では読み違えて平友梅とされている。 暗きより 暗き道にも迷はじな 心の月のくもりなければ 和泉式部の有名な和歌「暗きより 暗き道にぞ 入りぬべき はるかに照らせ 山の端の月」から本歌取りしつつ、内面的表現へと昇華し

    • 暦応年中塩治判官家士四十七騎怨敵高野師直夜討之図 歌川国芳

      歌川国芳・作。天保後期。 赤穂浪士による吉良邸討ち入りの場面を描いた作品。題名は仮名手本忠臣蔵の登場人物名である塩治判官(浅野内匠頭)と高野師直(吉良上野介)が入る。本作では広い邸内の池に架けられた渡り廊下が描かれており、他の義士討入図に見られない独特な構図である(出典)。 仮名手本忠臣蔵は元禄赤穂事件を基にしつつ、当時の幕府の規制により、太平記時代の物語として脚色された。登場人物は史実と異なる名前で描かれており、例えば浅野内匠頭は赤穂の特産品「塩」にちなんで塩冶判官に、

      • 熊谷次郎直実・平山武者所季重 先陣争之図 歌川国芳

        歌川国芳・作。 一の谷の戦いでは、源氏方の武将である熊谷直実と平山季重が先陣争いを繰り広げた。二人は義経の部隊から抜け出し、西の木戸を目指して進軍した。熊谷が最初に名乗りを上げたが、敵陣に最初に入ったのは平山であった。この勝負の決着は微妙な結果となり、後々まで二人の間で揉め事の種になった(出典)。熊谷直実は一ノ谷の戦いの一騎打ちで平敦盛を討ち取ったとされる。平家物語にも描かれたエピソードは、武士の非情さと世の無常を痛感させ、後に歌舞伎の「一谷嫩軍記」としても人気を博した。

        • 里の花廓の賑 楊洲周延

          楊洲周延・作。 楊洲周延は天保9(1838)年に生まれ、若き日に歌川国芳や三代歌川豊国、豊原国周ら歌川派の絵師に師事し画技を習得した。気骨ある人物だったようで、幕末の戊辰戦争では神木隊として上野戦争に参加、旧幕府軍として箱館戦争まで従軍した。遅咲きで明治10年頃・40歳から本格的な絵師活動を開始し、特に美人画、役者絵、戦争絵、歴史画、時事画など多様な画題を手がけ、多作で明治浮世絵を特徴づける浮世絵師として活躍した(出典)。 江戸吉原は、遊郭を超えた日本の重要な文化発信地とし

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        月百姿 心観月 手友梅

        マガジン

        • 合戦絵
          9本
        • 東錦浮世稿談
          3本
        • 和本
          3本
        • 西南戦争錦絵
          3本
        • 風俗三十二相
          5本
        • 芳年武者无類
          3本

        記事

          源頼朝隅田川旗上着致勢揃之圖 歌川国芳

          歌川国芳・作。天保14~弘化4年頃の作品らしい、石川県立美術館も所蔵。 源頼朝の隅田川渡河。 吾妻鏡によれば、1180年8月、伊豆で挙兵した頼朝は石橋山の戦いで敗北後、安房へ逃れる。同年10月、上総広常・千葉常胤の支援を得て太井川・隅田川を渡河し、三万の軍勢を集めた。江戸重長が隅田の渡しを管理し、頼朝の渡河を助けたとされる。 頼朝は下総から武蔵へ入り、隅田宿(現・墨田区東白鬚公園付近)に布陣した。この地で乳母の寒河尼が訪問し、その子は頼朝の烏帽子親として元服させ、小山七

          源頼朝隅田川旗上着致勢揃之圖 歌川国芳

          徳川治績年間紀事 初代安国院殿家康公

          明治八年(1875年)。『徳川治績年間紀事』は、初代家康公から二代、三代、四代、五代、七代、十二代、十三代、十四代、十五代慶喜公まで、芳年は十枚を描いた三枚続絵の傑作シリーズ。その初代家康が本作。 本作の場面は、若き日の家康が武田信玄に立ち向かった、一言坂の戦い。 1572年、第二次信長包囲網に応じて西上作戦を開始した武田信玄は、織田徳川の背後を打つべく軍を三つに分けて三河と美濃に進軍した。信玄自らは約三万の本隊を率いて遠江へ侵攻し、天野景貫が寝返って犬居城を明け渡し、信玄

          徳川治績年間紀事 初代安国院殿家康公

          一魁漫画 和本

          明治24(1891)年、一魁斎芳年。版元は青野祐三郎。初版は慶應2(1866)年。 一魁漫画は多様な画題を集めた46ページの絵手本。初版には初編とあったが続編は確認されていない。仮名垣魯文による序文が付されている(参考)。 本作には芳年が繰り返し描いてきたデザインが登場する。コミカルな表現も興味深い。 初版本はほとんど出回っておらず、重版も含めて日本の博物館には見当たらなかったが、後述のように大英博物館に所蔵されていた。また、2014年に京都の芸艸堂さんが豆本シリーズで復

          田舎源氏 竪二枚続

          偐紫田舎源氏(にせむらさきいなかげんじ)は江戸後期に柳亭種彦が源氏物語を室町時代に翻案し、歌川国定と合作した江戸時代最大のベストセラー。暗に江戸城の大奥を描いたと噂されて天保の改革により絶版を命じられたが、人気があり浮世絵の題材にされた。 田舎源氏 竪二枚続は、刊行された1885(明治18年)年に、光氏と黄昏の道行の姿が明治政府から風紀を乱すと見なされ、すぐに発禁処分を受けた。そのため200枚程度しか出回らず、大変希少かつ人気のある芳年の代表作とされている。ものすごく高価だ

          田舎源氏 竪二枚続

          霜夜鐘十字辻筮 和本

          霜夜鐘十字辻筮(しもよのかねじゅうじのつじうら) 全五編、上中下巻の全15冊。明治13年。 武田交来・録、大蘇芳年・画。 本作は合巻形式に歌舞伎新報の連載内容をト書きなどを改めて再編集された。河竹黙阿弥のこの読み物は最初から舞台用の脚本としてではなく歌舞伎新報の連載作品として執筆されており、上演と同時期に活版和装の単行本が刊行された。上演時には内容をそのまま小説化した正本写やボール表紙の単行本、活字版の合巻などが浮世絵師によって手掛けられて次々と出版されて当時大きなブームと

          霜夜鐘十字辻筮 和本

          東錦浮世稿談 神田伯龍 朝倉当五郎

          幕末の江戸、圧政の領主に朝倉当五郎が立ち上がり民衆のために戦うが、妻子と別れて上野の桜のように散る、義侠の物語のようだ。

          東錦浮世稿談 神田伯龍 朝倉当五郎

          東錦浮世稿談 清草亭英昌 芸者小竹 小竹が兄熊吉

          幕末の江戸、機密を聞いてしまった芸者の小竹が兄の熊吉の手にかかって命を落とす、という悲劇の物語のようだ。

          東錦浮世稿談 清草亭英昌 芸者小竹 小竹が兄熊吉

          東錦浮世稿談 一立坊文車 鏝柄半次 梶井左膳 雪踏直シ長五郎

          下駄直しの長五郎や左官の半次ら職人達が恋愛や因果応報に巻き込まれていく物語のようだ。

          東錦浮世稿談 一立坊文車 鏝柄半次 梶井左膳 雪踏直シ長五郎

          山本勘助猛緒を撃つ

          1868(明治元)年。応需芳年とあるので人に頼まれて描かれた。ほぼ出回っていない珍しい作品らしく、解説は見つからず(これには絵が掲載あり)。 山本勘助は武田家の伝説的軍師、武田二十四将や五名臣に数えられて江戸時代には大変人気があった。ただ甲陽軍鑑にしか記載がなく長年架空の人物ではないかとも言われたが、1969年のNHK大河ドラマをきっかけに発見された市河文書で山本菅助という武将が確認され、2008年に群馬県で発見された真下家所蔵文書により武田信玄配下の家臣として裏付けられた

          山本勘助猛緒を撃つ

          豊臣勲功記 高松城水攻之図 三枚続

          慶応3(1867)年。数少ない三枚続絵シリーズの豊臣勲功記から。天正10年(1582年)、織田家と毛利家の間に繰り広げられた備中高松城の戦いにおける水攻めが描かれている(参考)。 手取川の戦いを前に上杉謙信を前に無断撤退したものの、織田信長からは中国攻めの方面軍に抜擢された秀吉は、備前・備中の毛利家の城を次々と攻略し、高松城がその標的となった。1582年3月、備前沼城に入った秀吉は4月に高松城へ進軍、城主・清水宗治を調略するも拒絶され、攻防が始まる。 高松城は三方が沼沢地

          豊臣勲功記 高松城水攻之図 三枚続

          真柴久吉公名護屋陣先手諸将繰出之図 三枚続

          真柴久吉公名古屋御陣先手之諸大将朝鮮州江くり出シ之図。慶応元年(1865年)作。 真柴久吉(羽柴秀吉)が、名護屋城(肥前国松浦郡、現・佐賀県唐津市)で、朝鮮の役の先手衆を送る場面。名護屋城は1592年(文禄元年)から秀吉の死による渡海衆の撤退までの7年間、拠点となった。城下に全国の諸大名による130以上の陣屋が構築され、最盛期は全国から20万人を超える人々が集まった。関ケ原の戦い後に廃城となり、当地を治めた寺沢広高によって唐津城に移築されたと伝えられる(参考)。 ここから

          真柴久吉公名護屋陣先手諸将繰出之図 三枚続

          東海道五拾三次之内 吉田 豊川橋 歌川広重

          歌川広重作・天保4〜5年(1833-34)の作品。本シリーズは広重の出世作とされるが、中でも本作は特に人気が高く手に入りにくい。 現在の愛知県豊橋市、吉田城の眼下に広がる豊川に架かる豊川橋(吉田大橋)が描かれている。橋の中央奥には本宮山がそびえ、左手に東海道が続き、御油、赤坂、さらに岡崎へと続いていく。当時、河原を含め全長200メートルに及んだ吉田大橋も、国道1号線の整備により現在は2本の橋に分かれている。画面右手には牛川の渡し場がある。 吉田城の天守閣には鯱が輝き、升目

          東海道五拾三次之内 吉田 豊川橋 歌川広重