今がチャ~ンス!天下取りへ発進!
今回の41回「逆襲の三成」で大ウケしたシーンがありました。
大阪城に徳川家臣団が集合するところ。
本多忠勝(山田裕貴)、榊原康政(杉野遥亮)、井伊直政(板垣李光人)、鳥居元忠(音尾琢真)らが、幔幕の後ろから、ご丁寧に一人ずつポーズを決めて入場しましたね。
まるでパリコレモデルみたいに(笑)
あれは完全にウケ狙いですよね?
笑ってもいいところですよね?
そして周りの取り巻きは羨望の眼差しを向けていました。
何より井伊直政の髭が陳腐過ぎて、あまりにも似合っていない。
あれだけで十分笑えるwww
殿への忠義の心は、
誰にも負けん
この後の鳥居元忠の顛末を思うと、この言葉には重みがありました。
だいだい、この「関ヶ原の戦い」の前哨戦である「伏見城の戦い」への大きなネタ振りとなるものです。
この家康との対面シーンも目頭が熱くなりましたが、来週はもっと泣かせに来るでしょうね。
大坂方びいきの私としても、胸に来るものがあり、つくづく家康の悪運の強さは、これら家臣団の忠義心によるところだと思わされます。
上杉景勝の描き方
上杉景勝ってあんなにも豪傑だったっけ??
私には2009年の大河「天地人」での北村一輝さん演じるちょっと消極的な景勝がイメージとして定着しているのですが。
どうしても悪党として描きたかったのか?
極端に徳川を正当化してる感があり、なんとも腑に落ちません。
とにかく、この上杉征伐が天下分け目の戦いのキッカケになったのですから、元となる原因をどちらに義があったのか、しっかり描く必要はあったのです。
本当は、三成をおびき寄せるための仮の行動だったとも言われていて、三成から仕掛けさせる事で、家康としては戦う大義名分が必要でした。
本当は、上杉征伐なんてどうでもよかったはずや
あくまでも徳川家康が主役であると思い知らされた描き方でした。
寧々と茶々の動向
茶々(淀殿)と寧々(北政所)のこの時期の動向が、どういう思いからのものなのか、今となっては謎です。
なぜなら、おそらく後に徳川が都合の良いように改竄した可能性があるからです。
茶々の動向が意味不明
石田三成(中村七之助)にも家康にも良い顔して、双方に軍資金を出し、八方美人振りを発揮して、完全に二人
を煽っていました。
なんかこれでは悪女どころか、支離滅裂でつかみどころのない人物として映ります。
過去記事でも何度も言っていますが、茶々(北川景子)が悪女なのは、後に徳川がでっち上げたイメージでしかない。
おそらく彼女はそれなりに豊臣の行く末を案じていたはずで、もしかしたら三成の挙兵に反対したとすら思っています。
この時点では可愛い妹のお江が徳川秀忠に嫁いでいたので、家族愛の強い彼女は戦だけは避けたかったはずで、おそらく家康に対しても下出に出て、穏便に済まそうとしていたと思います。
寧々は徳川方だったのか?
今までの数々の映画やドラマでは、寧々(和久井映見)は家康との関係を円滑に保ち、後々には優遇されて「勝ち組」的な描き方をされてきました。
時世をよく理解し、早々に出家して豊臣子飼いの家臣たちにも徳川に付くように助言したとされ、彼女が実質的な勝利者であるとも、黒幕だったとも言われています。
果たしてそれは真実でしょうか?
・筆頭上臈の孝蔵主は三成の縁者
・三成の娘を養女に
・戦いの前に豊国神社での戦勝祈願
・実家の木下家は彼女の護衛
などなど、彼女の周りは一部の隙もないほど西軍で固められていて、家康と通じることなど現実的に無理だったと思います。
裏切りで有名な小早川秀秋に対しても、自分の甥でありながらも一番ショックを受けたのは彼女ではないでしょうか。
大谷吉継(忍成修吾)の母親・東殿は彼女の侍女であるのを見ても、寧々の指図で秀秋が動いたとは考えにくい。
いくら裏切りが頻繁の戦国であっても、卑劣すぎる行為を許せなかったのではないか?
この寧々の心情をどのように描くのかも楽しみですね。
石田三成も忠義の人
鳥居元忠が忠義の人なら、この石田三成だって負けてはいません。
太閤殿下の恩義に報いたいがため、ブレない姿勢を貫いたのですから。
その思いは家紋にも強く表れています。
「大一大万大吉」
一人一人がみんなのために力を尽くし、そしてみんなは一人のために尽くすというキャッチフレーズを掲げて、常にチームプレーを心がけていたということです。
結果的に敗者ですから、どうしても悪く描かれていますが、これもまた徳川による後の改ざんにより彼の信念は無かったことになっています。
秀吉との初対面でのエピソード「三献の茶」に見られるように、常に相手の状況を鑑みて、最良の行動を取れる人物だったのです。
島左近には三顧の礼を尽くした
三成に追従した島左近(高橋努)に自らの4万石の領地のうち半分の2万石を与えたという話は、あまりにも有名です。
これには秀吉もビックリ!
それだけ亡き豊臣秀長の家臣だった島左近に何をおいても惚れ込み、精いっぱいの礼を尽くすのが三成流でした。
大谷吉嗣のお茶を飲み干す
思い皮膚病だった吉継は、お茶会の席で頬から膿が一滴茶碗に落ち、他の武将たちはドン引きする中、自身も茶碗を回せず困っていると、三成が自分に回すように言い、一気に飲み干したと言います。
吉嗣を助けようという想いが見え、なんとも勇気ある行動です。
文事に長け、ブレない姿勢
この時代は、まだまだ武道派が頭角を現わす時。
三成のような文事派の武将は、周りからは反感を買いました。
どんなに冷静に判断して政務を行っても、武道派から見れば現場を知らない頭でっかちのお役所タイプとしてしか写りませんでした。
もし、彼が幕末に生まれていたら案外、大成していたのではないかと妄想します。
学ぶ姿勢は大きく、何があっても信念を貫く姿勢は、幕末にこそ相応しく、明治維新にこそ活躍できた人材ではないかと思うのです。
生まれる時期を間違えたなァ
「関ケ原の戦い」は情報戦
天下分け目の大戦の割には、たったの6時間ほどでケリが付いてしまった理由は、当日の決戦以前に、長々とした情報戦が繰り広げられ、徳川家康と石田三成による、味方の争奪戦にありました。
両者とも自分側に付くように促す手紙を送りまくり、周りの武将たちは、家運がかかっているだけに本当に困ったと思います。
目に見えた勝敗の決定は「小早川秀秋裏切り」ですが、それだけではない、用意周到な準備があったからそ短時間で決着が着いたのです。
毛利や島津など、動けない武将がいたのは、西軍にとってはイタイところで、そう言いう意味では、あらかじめ家康に分があったのかもす、小早川がそれを決定づけました。
豊臣敗北の理由は?
豊臣方の敗北は、秀吉の存命中の政策にすでに決まっていたように思います。
・秀次一家の処刑
跡継ぎにと決めて関白職を譲ったにも関わらず、自分に子ができた途端、いちゃもんを付けて、一家全員30人も処刑した。
秀次もなかなかの人物。彼ならちゃんと豊臣の地位を確保していたかも。
・黒田如水の冷遇
秀吉の軍師であり、彼のおかげで天下を取れたと言っても過言ではないのに、秀吉は彼の怜悧さを恐れて冷遇した。九州では関ケ原に同調して戦い、次々と手中に治めた。その後、息子の長政は徳川に付いた。
(軍師を失った秀吉は制御不能)
・朝鮮出兵
これが一番、各武将の心が離れた原因。
秀吉も認知が始まっていたのかと思えるほど、自軍を疲弊させたことに気付いていなかった。
今後の展開はすでにわかっているのですが、いったいどう描かれるのでしょう?
またツッコむのに忙しくなりそうです(笑)
書いているうちにどんどん湧いてきて、筆が止まりせん。
この辺で終わりとします💦
今日はこの辺で許しといたろ
(池乃めだか風に)
※トップ画像は2013年2月撮影の大阪城