日本語には「み(身)」という言葉があり、これは身体を表すのみならず、「みにしみてわかる」などというときは、むしろ、心や魂まで意味することがある。カバーする範囲が広く、あいまいである。欧米の場合は身体と心は明確に分離されている。
「解決」よりも「創造」を、と言う河合さんにとっては、意識の緊張を緩め「カキマゼ」て、そこに新しい、生の別の布置が生まれてくるその〈触媒〉になることが、心理療法家の仕事となる。そのためにこそ「ふわーっと聴く」のである。落としどころについてー河合隼雄における《臨床》と《対話》鷲田清一
2006年8月16日の倒れる最後の日も、京都の事務所でクライエントに会っていた。実はその日は、既にとても体調が悪くて、それでもキャンセルもせずに面接に行っていたのである。しかもその夜に音楽会にまで参加して、命を縮めてしまった。 〔序論〕臨床家・河合隼雄 河合俊雄
人間はどうしても自分との関連において、あるいは、自分を入れこんだものとして世界をいかに観るかということが必要である。 後者が「臨床の知」にかかわってくる~中略 概念化して考えることよりも、いかにそれとかかわるのか、何をするのか、ということが大切になってくる。
都合のいい偶然が起こりそうな時に、そんなこと絶対起こらんと先に否定してる人には起こらない。道に物なんか落ちていないと思ってる人は、前ばっかり見て歩いているから、いい物がいっぱい落ちとっても拾えないわけでしょ。ところが、落ちてるかもわからんと思って歩いている人は、見つけるわけですね
あやのんさん、奈良に呼ばれてるのん。 全奈良の魂が、あやのんさんに還ってきてって望んでるのん。 わたしはパクることしかできないあほやねん。 せやけど、こんなわかりやすいシンクロみせられたら、ひれ伏して招聘するしかないと思うねん。 あやのんかんのん様、春には奈良にお出ましを…
私は、「物語」ということをとても大事にしています。 来られた人が自分の物語を発見し、自分の物語を生きていけるような「場」を提供している、という気持がものすごく強いです。 『生きるとは、自分の物語をつくること』 河合隼雄×小川洋子
心理療法という仕事に専念することになってわかってきたことは、人間の生き方、人間の心を対象とする限り、常に不可知なXとても言うべき存在に、心を開いていなければならない、ということであった~私の知識や考えや、すべてのものを動員するにしても、「わかった」と思うときが最も危険であった。
心がザワザワ。落ち着いている時こそ、好事魔多しと言いますが、毎日が緊張感の連続だとさすがに疲れてしまいます。一度ミスしているので、二度目はないぞ。さて、私はいつまで今の仕事を続けていられるでしょうか。なんだか、見えないところで見えない誰かに引導を渡されそうそうな予感がしますね。
上のツテで、超超超強力助っ人が職場に来てくれました。仕事の負担が大幅減になりそうです。 もう私は早朝から遅番まで仕事しなくて済む。睡眠時間3時間から解放される。休みが取りやすくなる。身体と精神の負担が減る。あー、もう無理、泣きそう。2年半以上、私は頑張った。
ユング心理学を通じて、物語の重要さを知り、自分の日々の臨床経験を基にしてわかってきたことは、物語こそ「人間のたましい」に深くかかわるものだ、ということであった。「たましい」という言葉を用いることによって、物語に対する自分の強い関心の謎がとけたように思った。