完璧はいらない。サボっても死にやしない。
こんにちは。今日はお仕事お休みの琴音です。
眠い、けどお外でパソコン開いています。今日は天気がイマイチですがのんびり過ごしたいです。
今日はまとまりのない内容となりますが、よかったら最後まで読んでくださると嬉しいです。スキもお待ちしています♫
頑張らないことサボること。
私は精神薬が全てゼロとなった今、本当にスタートラインから踏み出したような気がする。なんというか、アニメで例えると【次シーズンの1話】のように新たな段階でまた振り出しに戻ったような感じ。
この1・2年で私は劇的に病状が変わった。それはつまり人生が変わった。
これは周りの人のおかげでもあるし自分の努力の成果でもある。
私はきっと頑張ったんだ、だから良くなった。
でも頑張りすぎた。多分ここ最近の私は「完璧」とか「もっと上へ」を目指しすぎている。(それに気づけている所は私の成長)
私は母のお人形じゃないから
今月に入って私は’親離れ’に努めている。特に’母と娘の関係’だ。
まず、今年に入って実家に1度も帰っていない。これは私にとっては大きな出来事である。今までは2週間に1度は帰っていたからだ。
そして、苦しくなったりしんどくなったときに親に連絡をしていない。もちろん身の危険を感じたら連絡はするつもりだ。でも私の’連絡をしない’は「母に’しんどい’を伝えても更にダメージを負うだけ」が分かっているから、いわゆる’自衛’という行為である。
母との関係が結構私の性格や思考や病状に関係あると最近思っている。もちろん父のDVやヤングケアラー時代も関係あるし、私の生まれながらの特性も関係ある。母や父のことが嫌いとかでもない。
でも、改善しようと思って今回行動している。相手(両親)は私の行動や意思では変わらない。私自身が楽に過ごせるように私自身が行動するしかない。
私は母に褒められない。どんなに周りの友達が褒めてくれても私は「母に褒められないから私はダメ人間」と感じている。なんでも「母基準」だ。
服装も思考も常識も、何もかも。全てが「母基準」。
でも22年生きてきてようやく「どれだけ頑張っても母に褒められることはない。苦しくなるだけで願っても願っても私は報われない。」と気付いた。
私は私だ。私は私の人生がある。私は母の所有物ではない、家族でも「他人」だ。
今までずっと頑張ったことや褒めてほしいことは母に報告してきた。
でも母にいつも「私(母)は〇〇やったんだ」(=’私(母)を褒めてくれ’)と返される。
私のことは褒めてくれない。なんなら私が褒める側になる。そして私は「もっと頑張らなきゃ褒めてくれないし、私は別に頑張っていないんだ」となる。
サボることが今は苦しい
だから昨日はサボってみた。サボる行動を自分自身にさせた。
昨日の場合は
職場から帰宅してお風呂に入ってドライヤーの後そのまま布団に入った。布団の中で「ご飯作らなきゃ…疲れているからカップ麺がいいな…でも自炊しなきゃ、カップ麺ならうどん茹でる方がいいよな」とかモヤモヤ考えていた。
でもカップ麺にした。で、部屋を片付けずにゲームして寝た。
私はカップ麺食べるとかお皿洗わずに翌朝になるとか洗濯物畳まずに放置とか、それが「頑張っていない」「ダメ人間」という基準でいる。
でも別に実際は、その程度で死にやしない。誰かに害を与えるわけでもない。地球が滅亡するわけでもない。
だからサボっていいんだよな。
きっとカップ麺食べたなんて母に伝えたら、「私(母)は朝5時に起きて3品作ってから仕事行って帰ってきてすぐジム行って…まだ帰ってきてから一休みしていないよ」「カップ麺?うどん茹でた方が良くない?私(母)は今日〇〇作ったよ。ほら、写真見て?」とか言われる。
でもいいんだよそんなの。私は「私が思う生きやすさ」でいたい。自分が良ければそれで良いんだ。
私はもっと自己中に生きて良いんだ。
泣きながら、サボったこと・ダメ人間なことへの罪悪感で苦しくなりながら、昨日はカップ麺を食べた。でも翌朝私は生きていた。サボっても死なない。
琴音