今日、浅薄な論客が多い中、鋭い考察をするヤマダヒフミさんです。 興味がある方は覗いてください。 パスカルの信仰について https://note.com/yamadahifumi/n/n2a41b58912af 福田恆存の一文から「芸術の天才」について考える https://note.com/yamadahifumi/n/nc56ea4c2c125
「深い河 ディープ・リバー」半分まで読んだ。福田恒存の文章が引用されていて、その一文が、物語を動かす要素にもなっていた。福田氏は「私はキリスト教の無免許運転をしている」と述べていたと記憶している。20代の頃影響を受けた人物の名前と偶然出会うと、物語の内容と相まってハッとなるネ。
真のインテリは余裕をもって物事を見れる。だからこそ様々な角度や視点を用いて最適な行動をとることができる 裏返せば、余裕がなくて反射的な行動や発言が多い人は知的なことを言っていたとしてもインテリとは言えないということでもある 己の間違いも欠陥も受け入れて見せる余裕がなくてはいけない
強者と弱者というものを考えてみる 福田恒存は弱者は自分の限界に悲鳴を上げ、強者は人間という種族の限界に悲鳴を上げるという 強者が責任感と向上心が素晴らしいがそれらも過剰となれば、傲慢となっていく 弱者は己の限界を謙虚に認められるが、限界を盾に他人を攻撃する卑怯者になりやすい
マルクスのいう「プロレタリア独裁」概念は知識人の持つ肥大化した自意識の象徴と言える。福田恒存はこの事に気づいていたのでは。
積極財政・日本神話・有機農業・日本の独立。どれも大事な視点ではあると思う。けれど、これらにこだわりすぎていないかとも思う 政治は個人の幸福をなすために手段である。正しい政治を行うのは有効な手段ではあるが、それ自体は目的とはなりえない 真の知恵者はその場の最善を見つけ、選択できる
人を教育するという視点は何よりも傲慢な考えであると福田恒存は述べる 他にも限られた人しか精神的強者にはなれない。人間は現実を見ておらず、人間たちが認識できるものから解釈を作り出し,その解釈を現実と表現しているだけに過ぎないともいう 彼の言葉は厳しくも人間の現実を教えてくれている
死との距離感が今の日本人は狂っているのかもしれない 死から過剰に逃げていると逆の生きることからも逃げることになる 生存至上主義というのは死を過剰に遠ざけて生きることもできなくなってしまうものだと思う 生と死は二律背反の両面性を持っているもの、他方なくしてもう片方もなし
https://youtu.be/qo9hjuoaZcA?si=MdXTMEbRqiBoHhFn 人間は生産を通じてでしか付き合えない、消費は人を孤独に陥れる 共産主義国家も福祉国家も同様の過ちを犯している。いずれにおいても生産は消費の手段とされていて、そういう前提の下では如何に生産を称賛してもごまかしとなってしまう
人間観の素通り。これこそが進歩主義者の大きな欠陥だと福田恒存は述べた 人文知ともいえる人間としてのド基礎を蔑ろにし、やれ経済だの、やれ平等だの述べているのは何ともおかしなことである 基礎を欠いた上に作ったものなどどれだけの手間とお金をかけても砂上の楼閣にしかならない
https://youtu.be/XJvbPq_CUN0?si=9u5jyuebFGCfoDaf 自らが専門家に匹敵する知識を得ることが目的ではない 専門家がたくさん増えてもあまり意味はない それよりも、専門家が築き上げた知識や理論をどのように使うべきなのかを我々は掘り下げていくべきだと思う。専門家でないが故にできることあるはず
文明とは自然や物や他人を自分のために利用する機構の完成を目指すもの。決して良いものだけではない 保守思想とは決してプラスの面だけを見るものではない。プラスに付随する弊害からも目を背けず、背負う覚悟をもって進むものである 護るべきもののせいにして、責任から逃げるのは無双主義である