福田恆存を体系化する19 「アンティゴネ」 善き市民は善き個人か
ヘーゲルの「精神現象学」を再読した。学生のころ一度トライしたのだが、ちょっと何いっているか解らない、というのが正直の感想だった。ドイツ語のできない私は、ハイデガーで使った手を思い出して、英訳本をもとめて丸善に行った。ところがハードカバーしかなく、学生の買える価格ではなかった。
このたび長谷川宏氏の名訳を手にすることで、ようやくまともに読むことができた。
個人と社会
なぜ、いまさらヘーゲル? 福田恆存と何の関係が……。
そうおもわれる方もおられるだろう。さっさといえば、直接関係はない。ただ、前節最後にあらわれた自由と倫理の問題と、その先にある人間の運命を語る上で、ヘーゲルの明確な枠組みは非常に役に立つのである。
そして何より「精神現象学」の中には、福田恆存も訳・演出を手掛けたソフォクレスの悲劇「アンティゴネ」を題材とした有名なシークゥエンスがある。
ヘーゲルとの対比で、福田恆存の悲劇観とその根底にある人間観をうまく浮彫にできると、私は読んだのである。
ところで、ヘーゲルについて、いまさら解説など不要な方、あるいは気長な道草につきあい難い人は、この部分はとばして、本題である次の「アンティゴネ」へとすすんでいただきたい。
さてヘーゲルを読むにあたって躓きの石となるのは、「精神」geistという言葉である。読んでいると、通常われわれがイメージする「精神」とはちがった独特の内包をもたせてヘーゲルは使用している。
私の読んだ感じでは、ヘーゲルのいう「精神」は、私の魂に属するものではなく、私のパースペクティヴを構成する体系という意味をおびているようだ。
それは段階を踏んで進化する。精神はまず意識にあらわれる。「意識」が反転することで「自己意識」は生まれ、両者を統一するところに「理性」が生じる。「精神はそうした理性を目の当りにするのだが、そのとき精神は本来の精神となっている」
ヘーゲルのいう「精神」は、個人の意識を超えて、社会という推定的存在者の原理へと高められることが、その最終形態として考えられている。
広く世界を支配する全一的な共同体秩序としての精神は、万人の行為を支える確固不動の土台であり出発点であって、同時に、すべての自己意識の思考のうちに浮びがる目的であり、目標である。この秩序はまた、ありとあらゆる人人の行為によって作りあげられた、万人の統一と平等を示す作品であり、その意味では、意識を反映し、意識の核心をなす行為の成果である。
ヘーゲル「精神現象学」長谷川宏訳
ヘーゲルは、「絶対精神とは共同体の精神にほかならない」と断定している。そしてそれは、共同体の成員それぞれと相互的な関係にある。
これまでで解ることは、「精神」にかぎらず、ヘーゲルは「絶対」「真理」「世界」といった言葉にもかなり限定的な意味をもたせているということだ。「世界」はドイツ社会であり、「真理」は妥当な正当性、「絶対」もせいぜい、誰もが反対しない価値判断といったことにすぎない。独特だなあ。いちいち、いうことが大仰だよ。
それらを勘案すると、さほど変梃なことをいっているわけでもない。結局、「精神」も、目に見えない自律的な価値秩序というほどの意味なんだろう。
たしかに社会は慣習や法体系としてそういうものを保持しており、強制力ももつ。私も「福田恆存を体系化する 3」で基礎づけておいたことだ。ヘーゲルのいっていることは、意外に私の「社会」観とそれほどずれてはいない。さらに――
ヘーゲルの思考はかならず二項対立をふくむものであるので、「絶対精神」もそれと対立する秩序が措定される。それは「個人の内面に形成され」る「神の掟」であり、家族という「自然発生的な共同体」を母胎とするとのべられている。
家族だって集団じゃないかとおもうが、その中での個人の対立が「神の掟」なる個人的な秩序意識を生むと、たぶんヘーゲルは考えているのだろう。つまり神は、ロックの場合と同じように、国家権力に対抗する個人の根拠として要請されている。ヘーゲルの社会理論も、ホッブズ以来の社会契約説の延長線上にあるのだ。
いずれにしても、ヘーゲルにおいては、共同体の法は、「神の掟」よりも、高次の段階に位置づけられる。
だがここで注目に値するのは、死者の埋葬が「最後の義務」であり「完全な神の掟」であるとのべられている点である。
ここに「アンティゴネ」へとむかうヘーゲルの問題意識がある。
準備はととのった。「アンティゴネ」の世界に入ってゆこう。
「アンティゴネ」
まず、主人公・アンティゴネのおかれている状況を説明しよう。
アンティゴネは、テバイの王女で、あのオイディプス王の娘である。オイディプス亡きあと、二人の兄、エテオクレスとポリュネイケスは一年ごとに交代で王位をつとめることになった。ところが、エテオクレスは協定を無視して王位を譲らず、ついにはポリュネイケスを国外追放に処した。
ポリュネイケスは、隣国アルゴスに赴き、王アドラストスの婿に迎えられる。やがてかれは、王位奪還のため、義父とともに遠征軍を率いてテバイに攻め寄せる。神殿が灰燼に帰するほどの激戦ののち、アルゴスは大敗を喫する。そのとき、ポリュネイケスとエテオクレスは兄弟で一騎打ちとなり、ついには刺し違えて、二人とも戦死してしまう。
その後テバイの王位をついだのは、叔父クレオンだった。エテオクレスは国難に殉じたとして丁重に葬られたが、ポリュネイケスは叛逆者としてその屍体は野ざらしのまま放置され、誰であろうとこれを葬ろうとする者は死刑に処すると、王クレオンによって布告がだされた。
以上が、アンティゴネをとりまく状況である。ここで注意しておくべきなのは、つい見落としがちだが、最初に裏切ったのは「愛国者」エテオクレスのほうだということである。しかしながら幕開けのコーラスでは、ポリュネイケスとアルゴス軍は神々の怒りをうけて破れたのだといわれる。祖国への叛逆にたいする当然の報いである、と。
つまりこれが、テバイの世論――ヘーゲルのいう「共同体精神」であり、白昼の世界における集団的側面の表現として観客にあたえられているものだ。そしてそれを体現するのがクレオンであり、かれは王として国家の秩序を重んじ法の守護者として、もっぱら政治的な判断を最優先させる。
アンティゴネの行動が悲劇の動因となる。王の布告にさからって、兄ポリュネイケスを葬ろうとするのである。逮捕され宮廷にひきだされたアンティゴネは、クレオンに「すべてを承知の上で、なお掟を犯したのか」と問われ、次のように答える。
自分は、死者は埋葬すべしという神の掟にしたがうものであり、ましてそれは兄の死体だ。ゆえに自分の行為は、人間の定めた国家の法に優越するものではないか――と、アンティゴネは主張してやまない。しかもその正義のためには、みずからの死をも甘受する、と。
アンティゴネは個人の名において国家権力に叛逆する。叔父・クレオンはもとより、母も妹も、そして恋人への想いをも遮断して、社会の論理、国家の掟に反抗し、断固としてみずからの態度をつらぬこうとする。見る者には、かの女は狂信的なまでの原理主義者にうつる。
対してクレオンは、「奴はこの国を滅ぼそうとした、ところが、一方はそれを守ろうとして斃れたのだ」「良き者には悪しき者以上の名誉を与えねばならぬ」と答え、国家の掟を侵したアンティゴネに死刑を宣告する。これもまた、為政者として当然の論理であり、こうした事案を蔑ろにすれば国はたもてない。かれは国家という集団の名において、アンティゴネの主張を頭から否定するのである。クレオンは常識と社会を背景に秩序維持をはかろうとする現実主義者である。
ヘーゲルの見解
ヘーゲルは両者の相克を、「神の掟と人間の掟の分裂」ととらえる。
『法の哲学』を読むと、かれは家族から市民社会、国家へといたる発展段階を想定しており、その場合の「国家」は、究極の「共同体」として措定されている。「人間の掟」はそこで最終段階に達するのだ。
他方、「神の掟」は家族を母胎とするものとして考えられており、国家のうちに残存するプリミティブな因子として「精神」としての共同体が「地下世界」に内包する破壊的要素である。だとすれば、ヘーゲルにおいては「人間の掟」が、「神の掟」よりもより高次の秩序として把握されていると考えてさしつかえないとおもう。
ヘーゲルの立場に立てば、アンティゴネの行為は、「絶対精神」たる国家にたいする破壊的行為である。さらにそれは、みずからが属する共同体に反逆する行為であるばかりではなく、個人としての自己を滅ぼす行為となる。
なぜならば、「共同体を生きる個人は、その共同体精神ともとから直接に一体化し、共同体精神のうちにしか生きる場をもたない」(「精神現象学」)からである。
だがクレオンの決定も、共同体そのものを崩壊させるとヘーゲルはいう。埋葬の否定は「その力の根を地下の世界にもつ」共同体精神の地下世界を完全に破壊することを意味し、それを核とする「家族の一体感」の支えを奪うことになるというのだ。そうなれば、足場を失った共同体精神は倒壊するほかにない。
結末においてクレオンの行為は、アンティゴネの死、みずからの息子の死、それに絶望した妻の死を引き寄せる。
さらには、ポリュネイケスとエテオクレスのような若者のパトスに依存する古代社会は、「肉体的な力と偶然の運・不運」に左右される不安定なものであり、「共同体の没落はもはや避けようがない」と結論づけている。そこから世界は、官僚機構を保持する帝政へと移行してゆく、と。
ヘーゲルは総体として、「アンティゴネ」を、クレオンの不用意な布告が共同体の無意識に氾濫を起こし、共同体の崩壊を惹起した悲劇として評価しているのだとおもう。アンティゴネのしたがう「神の掟」は、始原の明らかでない、合理性を欠いた文明以前の「法」である。
ヘーゲルは、「アンティゴネ」を文芸批評の対象としているわけではないので当然の話なのだが、その劇的構成を古代社会のモデルとして、「絶対精神」としての国家へといたる原始的で未成熟な一過程として把握している。いうなれば、「アンティゴネ」における対立構造は、進歩し最高段階に達した国家においては解消されるということであろう。いずれにしてもそれは、より高次の社会へと進展する契機として意味をもつ。
ヘーゲルには、「理性的なものが現実的なものであり、現実的なものは理性的なものである」という有名な言葉がある。それからすると、アンティゴネを衝き動かしている行動原理は「非現実的」なものということになろう。
はたして、そうか。
福田恆存はヘーゲルとはまったく異なった見解を示している。かれによれば、「アンティゴネ」における価値の対立は、社会改革や文明の進歩などによって解消されることのない、普遍的な人間の相が表現されたものである。
悲劇における対立の諸相
ところで、観客はアンティゴネとクレオン、この二者選択のうちどちらを支持するのだろうか――むろん、主人公のアンティゴネであろう。悲劇人のもつ強大な人格にわれわれは圧倒されるからである。
だがしかし、どちらが正しいのか、じつはその答えはかんたんではない。ヘーゲルもどちらかに軍配を上げることはしていない。
けれどもわれわれは、現実の生活においては、多少の疑問を感じつつも、おおむねクレオンの主張する白昼の論理にしたがって生きているのではないか。人は純粋なる個人にいつづけることは難しいからである。しかし、そうであるからこそ、アンティゴネは悲劇の主人公たる資格を有している。
この文章を引いたのは、悲劇の定義としてではなく、それどころか、悲劇作者でもあった三島由紀夫がこのような文章をつづること自体、にわかには信じがたい途方もない錯誤だからである。いやしくも文学の世界においては、いかなる意味においても、集団に悲劇は起こりえない。
かれがどういう自己意識をもとうとも、たとえいかなる天才であろうとも、人は集団の一員たることをまぬかれうるものではないが、そして同時に、詩人や思想家にかぎらず、人は誰しも孤独の境涯に生きている。悲劇とは、そうした人間の存在にひそむ二律背反の原初的状況において、個人が個人に徹し、集団の論理をこばむところに生ずるものだ。
集団への参加ではなく、集団からの離脱を前提とした純粋なる個人の行動だけが悲劇を生みだす。
私はクレオンを現実主義者と規定したが、見方をかえれば、かれもまた悲劇の主人公たるにふさわしい人格の強靭さをそなえている。
およそ悲劇の主人公というのは、おのれの信じるところにしたがってあらゆる障碍や思惑をものともせずに破局まで突き進む人物であるのだが、そうはいっても、悲劇が成立するか否かは、かれが信じめざすところのものの中身によって決定される。それが深みと重みと真実を欠くならば、かれの行為はばかげた愚行にすぎない。それでは悲劇は成立しない。
そこにいくとクレオンは、家族の情にまどわされず、国の掟にしたがい為政者としての立場に徹しようとするれっきとした理想主義者ではないか。すくなくとも、そういう評価も成り立つ余地があるかのようにみえる。
事実、古来より、クレオンを支持し、かたくななアンティゴネの自己正当化を指弾する批評もたびたびなされてきたようである。それは両者の対立を政治的次元のものとみなすことだ――私はとうてい賛同しかねるが、それでもクレオンの立場を否定し去ることはどうしてもできない。共生は人間存在の基本的条件であるからだ。
もう一度、クレオンの立場を考えてみよう。かれはテバイの主権者であり、その権力の裏付けとして軍事力を掌握している。国家権力のもと、テバイ全体の意思としてポリュネイケスの死体の放置を布告する。
その根拠は、国家社会にたいする叛逆者に愛国者と同等の扱いをしてはならないという社会的要請からするもので、やりすぎの感はあるにしても、それはそれとして理解でき納得できる論理であることはいうまでもない。
だがここで考えてみるべきことは、「愛国者」とはなにかという問いである。あるいはその正当性を保証するものはなにかという問いといってもいい。
ポリュネイケスはたしかにテバイにとって叛逆者であろう。だがしかし、ひるがえってアルゴスにとってはどうか。軍人として国のために戦死した「愛国者」ではないのか。同様に、エテオクレスはテバイにとって愛国者ではあっても、アルゴス人からみれば憎き敵である。かれらがアルゴスで斃れたなら、野ざらしにさらされるのはエテオクレスの方であろう。
しかも、もともと事の発端は、かれがポリュネイケスと交わした国家的な約束を破ったことにある。かりに直接的な被害をこうむらなかったとすれば、あるいは戦争が勃発するまえにおいては、ポリュネイケスに同情し、悪人はエテオクレスのほうではないかと判断してもおかしくはない。
したがって、ポリュネイケスが叛逆者であるというのは、あくまでその時点・その場所でのクレオンの視点、あるいはテバイ人の視点に立ったときにのみ成立する属性なのである。
「良き者には悪しき者以上の名誉を与えねばならぬ」という場合の「良き」「悪しき」は倫理的なものではなく、まして絶対的価値基準によるものでもなく、その時その場所で、テバイという社会の利害だけをその根拠として判断された政治的評価にすぎない。
だからといって私はそれが虚偽であるといいたいのではない。それは虚像でも幻想でもなく、愛国と叛逆は実在する現実である。
ただそれは、一定の視点で見られることによってのみあらわれる実在なのだ。だから、拠って立つ視点が変更されれば――時間と空間を異にすれば、そこにたちあらわれる表象はすがたを変え、叛逆は愛国へと容易に逆転されうる。要するに、人間の集団的側面が表現する価値は、空間的にも時間的にも相対的なものであるということである。そこにはどちらかが絶対的に正しいという基準は存在しえない。
わすれてはならないのは、ギリシャ劇につきもののコーラスの存在である。「アンティゴネ」においてそれらは、あるときは神の口真似をして正義を語り、またあるときは王に追従してアンティゴネを非難し、かと思うとアンティゴネに同情しクレオンをそれとなく誹謗する。尊敬と軽蔑、讃仰と誹謗、信頼と懐疑、残酷と憐憫、畏怖と恫喝、卑屈と傲慢とが交錯する。コーラスは「世間でよくいわれていること」を語り、劇的状況に目には見えぬ圧力をたえずあたえることで、移ろいやすくどんなかたちにも姿を変える「世間」の表現として、もしくは白昼の世界の陰の支配者として、劇における重要な役割りをはたしている。それによってわれわれは、一つの「社会」へと導き入れられるのである。
いっぽう、アンティゴネはどうか。かの女は逡巡する妹・イスメネを突き放し、愛する許婚・ハイモンからも距離をおき、誰とも語らうことなく、ただひとりみずからの信ずる道を進む。兄を懇ろに葬ろうとするかの女の行為は、テバイだろうとアルゴスであろうと、いや古今東西かわらぬ正しいあるべきことではないだろうか。逆に、家族の死体を放置し顧みぬことは、どんな場合でも悪なのだ。
「世間でよくいわれていること」に耳をかさず、身内の泣き落としにも動ぜず、国家社会の圧力にも屈せず、処世術の誘惑にも打ち勝って、アンティゴネは集団に左右されない純粋な個人としての立場をまもり、そこからみられた「完全性」を志向し行動する。どのような視点に立とうとも、およそ人間であるかぎり、アンティゴネの行動と自己犠牲に立つ兄への愛は正しく美しい――すなわち、それは普遍的な価値へと通じている。それゆえ、時代を超え、国境を越え、個人性を超えて、現代のわれわれの心にも劇的感動を生起させることができる熱量を保持しているのである。
しかもアンティゴネは前述したように冷徹といえるほどの行動者として最初あらわれるのだが、しだいに追い詰められるにしたがって、人間らしさを見せるようになる。かの女は最初、みずからのうちの集団的要素を排除しようとはかるのだが、結局は、集団の一員たることをまぬかれぬ自己に打ちひしがれるのである。そうした人間の強さと脆さの表現は、根源的な人間的自由と意思の在りかを照らしだし、われわれの胸を打つ。古典とはなるほど凄いものだ。
さて、ここまで私が描写した、「アンティゴネ」における劇的対立の構図は、福田恆存の「アンティゴネ」論の根底にある基礎的成分の解説である。
――善き市民は、善き個人か?
福田恆存は、新潮文庫の後書で、「アンティゴネ」について、次のように語っている。
「善き市民」であるということは、福田恆存のいう「集団的自我」の問題である。国家の大義とか、社会正義、法の支配、社会秩序、イデオロギー、家庭の幸福など、あらゆる社会的な価値はここに属する。
「善き個人」であるということは、「個人的自我」に属する課題である。われわれはそこで、集団から離脱した孤立した存在として、理想を夢として希求する。利害得失をはなれて、自己がどうあるべきか、ということをみずから問う。
それらは、二つの次元の異なった秩序をあらわす区別である。
いまさら「二項対立」かとおもわれるむきもあろう。しかしポストモダンの哲学者たちの展開した批判は、ヘーゲルには当てはまるにしても、福田恆存の二元論には有効ではない。それは単調な二項対立という枠組みではとらええない人間の根本的現実――孤独と共生というパースペクティヴのうちの全く異なった二つの次元に由来する相違であり、対立であり、落差であるからだ。
アンティゴネは、クレオンの圧制に対する政治闘争をめざしているのではない。それでは体制の否定を当の体制の承認にもとめることになる。個人の政治的自由は国家によって保護され、それと同様の論理において、制限される。アンティゴネの自由の行使はそうした公的権力への挑戦ではないし、それゆえ政治的平面上でなされている「二項対立」ではない。
アンティゴネとクレオンの対立は、純粋個人的な善と政治的正義という、二つの異なった価値秩序の衝突なのだ。
アンティゴネの自由な個人の意思にもとづいた行動が、その衝突を引き起こす。そうした福田恆存の見方は、ヘーゲルの持ちだした二つの法体系の対立構造とはぜんぜん違ったものだ。
この場合の「神の掟」は、その根を、家族ではなく、孤立した個人にもつ。ここにすでに、ヘーゲルとの本質的な相違がある。作者・ソフォクレスが、アンティゴネの意志と行動から、注意深く、家族と恋人を引き離していることの意味を、われわれは見逃してはならない。
かりに、ヘーゲルのいうように、「神の掟」が家族を母胎とするものであるとするならば、これもまた、政治平面上の秩序ということとなって、その対立は、権力の強度の問題に還元されてしまう。それでは悲劇は成立しない。
「アンティゴネ」の相克は、どちらが正しいとか、どうすれば和解できるかとか、そういう安直な解決を拒否する、永遠に調和しない二つの要素のありかたから発するものなのだ。
「善き市民」という場合の「善き」は集団的・相対的なものである。「愛国者か謀反人かといふ尺度」は、状況に応じて、容易に逆転しうる。
「善き個人」という場合の「善き」は、個人も集団も超えた、絶対的・普遍的なもの、すくなくともそのようなものとして人間に希求されている「理想」である。状況を超越する不動の価値だ。
人間とは根源的に、この二つの秩序が並立しからみ合った存在者なのである。より正確にいえば、人間の現実をそうした二元論として、福田恆存は解釈し理解しているということになろう。
この、いわば「特殊二元論」が、福田恆存の思想の背骨である。
法を遵守し慣習にしたがう人は「善き市民」ではあるが、かならずしも「善き個人」ではない。
ふだんわれわれが「あの人はいい人だ」というとき、それは人畜無害な性格を示唆する、いくぶんかの侮蔑をふくんだ表現である。
当然だ、悪いことをしないからといって、ちっとも良いことをしないのであれば、悪しき人ではないにしても、かれは善き人ではない。しかし現代の倫理は、原理的に、そういうところにまで落ち込んでいるのではあるまいか。
個人で解決すべきことを法や制度の問題に置き換えて、個人はそこから逃避している。その結果、善は「人畜無害」にまで切り詰められてしまった。「善き個人」と「善き市民」との混濁から必然する帰結である。
「アンティゴネ」にことよせて、福田恆存はそこを問題視しているのだ。
「善き個人」はたしかに「夢」かもしれぬ。馬鹿げた妄想だと嗤うこともできよう。しかしその夢を完全に棄て去ってしまうことだけは、われわれ人間には何としてもできないのである。
戦後間もないころ起こった「政治と文学」論争において、文学の課題を政治的に――「善き個人」を「善き市民」の問題として、政治的地平で処理しようとする文学者たちを、福田恆存は激しく批判した。かれにしてみればその論争は、その中身以前に、問題の提出のしかた自体が過てるものだった。
つまり福田恆存は、ただ一人、この論争にまったく異なる角度から参入した。
名高い「一匹と九十九匹と」は、そのとき得られた収穫である。かれは「文学と政治の峻別」を説いたが、その二元論が異次元の価値秩序の関係性からなるものであることに、誰も気づく者はなかった。それゆえ、かれはどちらの陣営からも異分子として反感を買った。
だが、アンティゴネさながらに、福田恆存はみずからの意志においてあえて孤立の道を歩む。かれにとってはそれが批評であり、また「生きる」ということだったからである。
そうした福田恆存の「政治主義」批判は、その都度対象を変えながら、生涯にわたって継続されたのだが、かれの二元論の真の意味が十分に理解されているとは、いまなおいえないのである。(註)
「善き個人」という場合の善は、個人の人格ではなく、人間の自由と、そこにもとづく超越的な理想を志向する行動の過程に、時空を超えて宿る。福田恆存はそのようにいっているのだと、私はおもう。
それが悲劇の論理である。