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人新世の「資本論」

 前回を書き終わったところで、人からすすめられて、斉藤幸平『人新世の「資本論」』を読んだ。かれのいうには、君がいっていた現状分析がもっと詳細に「科学的」に分析されている、と。
 うかつにも、こういうベストセラーがあることを私は知らなかった。著者は気鋭のマルキストで、資本主義のもたらす気候変動と格差社会が人類最大の危機につながると訴えている。
 なるほど読んでみると、現状分析は同感だし、教えられる事も多い。後期マクルスの知見などは、ニュースクールならではのものだ。描かれている切迫した危機の構図もはなはだ説得力がある。著者の熱い想いも好ましい。こういうたぐいの本にありがちな、煽情的なアジテーションもない。

 たとえばかれは、資本は「稀少性」を付加することで、過剰な価値を創出していると、のべている。それは、私が前回あげた「壺」の件でいえば、宗教団体の、それはただの壺ではないという説明をうけて信者は高額の代金を支払うことにあらわれている。
 嗤ってはいけない、われわれだって、ブランドのロゴが入っているというだけで、綿のTシャツを何万円もだして買ったりするのだ。誰しも、こころあたりのあることではないだろうか。「限定」とか「稀少」とか「ブランド」という言葉に動かされる。マルクスのいう「使用価値」からみれば、ばかげたことなのだが。

 マルクスは、「商品」とは「超感性的で社会的なもの」であるといっている。「これを私は呪物崇拝と呼ぶ」
 労働者の産みだした生産物は、資本主義のシステムを通過することで「商品」となり、市場に流通して、はじめて消費者の手にわたる。つまり生産者の手から切り離され迂路を通ることで、人と物との関係は断ち切られ、物はそれ自体で社会的な価値を付与される。マルクスはそれを呪術にたとえているのである。かれは終生、人間の疎外という問題意識をもちつづけていたのだろう。

 斉藤氏の提示する「脱成長コミュニズム」という来たるべき世界像にも、その論旨には感心するものの、どこかもの足りない感じがする。
 というのも、地球にやさしい脱成長社会を実現するためには、「自己抑制」が必要であると何度も強調しているのだが、これほど人間にとって難しいことはないのだ。それにもかかわらず、それを人に強いる原理は示されない。環境・格差というだけでは、ちょうど医者が、血糖値が高いから甘いものはひかえなさい、といっているのと同じ論理だ。それだと、現実の不利益が目前にせまらなければ、なかなか「自己抑制」はできない。そして喉元すぎれば忘れる。
 この最後の一点において、斉藤氏の所論の実現可能性に疑問符がつく。

 私は幼いころ、父と大阪万博を見物した。いまでも憶えているのは、ソ連館で見た「レーニンの部屋」だ。たしか、日本語を勉強したノートが展示されていた。
 父は、レーニンについて、かんたんな紹介をしてれた。帰りの新幹線では、私のリクエストに答えて、共産主義についても教えてくれた。子ども心にも、それは理想社会におもえた。

――どうして、実現しなかったの?
――人間には欲望があり、エゴイズムがある。マルクスはそれを計算に入れてなかったんだ。

「価値」よりも「使用価値」を重視する社会への転換を、斉藤氏は提唱する。そのために「自己抑制」は求められる。
 かんたんにいえば、フェラーリに乗らずに、みんな同じ軽自動車で満足しようということだ。しかし、「人間には欲望があり、エゴイズムがある。斉藤氏はそれを計算に入れてない」のだ。ただ安全に目的地に着けばいいという「使用価値」では、人間は満足しない。それは、音さえ出ればストラディヴァリウスでなくていいというのと同じことで、人間の本性に反している。
 しかも、自分はフェラーリやストラディヴァリウスを所有しているという満足感には、エゴイズムが深い影をなげかけている。傍からいかに愚かしく見えようとも、こういうエゴイズムの満足は、当人にとってことのほか快楽をあたえる現実なのだ。

 斉藤氏の提案するフラットな協同組合的社会にも、かならず、そういうものがしのびこむ。集団的自我から発する情動は、権力の上下関係をつくりだし、対立と抗争を生む。かれは民主主義的に採決するというが、それでは「正義」はおこなわれない。「いじめ」は多数者の行為であるように。それは結局のところ、最大多数の最大幸福という功利主義におちこむことを意味している。少数派は分裂・再編にはしる。少なくとも、そうした想定される事態を「自己抑制」する方策は示されてない。
 最大多数が「民主主義」的にかれの提案を蹴ったとき、かれはどうするのか。言論で解決がつくというのは甘い考えだ。

 持続可能なエネルギー技術を開発する科学は、他方では核兵器や公害を生んできた。両者の源泉には、人間のよりよく生きようとする意欲がある。そしてそれはまた、欲望であり、エゴイズムでもあるのだ。
 結局、「最大多数の最大幸福」とは、「最大多数の最大エゴイズム」を意味している。

 核兵器廃絶にしても、誰もがそれをのぞんでいるにもかかわらず、実際にはしだいに拡散している。東北大震災後、原子力発電も廃棄の機運が世界的に高まったが、ウクライナ戦争が勃発して原油価格が上昇すると、再稼働の動きが加速し、反対者は少数派へと転落した。万事、人間とはそういうものだ。

 資本主義はそうした人間の本性に即して発達してきた強固なシステムである。
 ウェーバーは、近代の資本主義の精神を、「資本の増加を目的とすることが各人の義務であるとする思想」と位置づけている。つまり、それはたんに利潤追求だけをめざすものではなく、基礎的生活態度として現代社会に定着しているということだ。
 それならばなおのこと、いかに堕落しているとはいえ、それを転換させるためには、「自己抑制」を人に強制しうるべつの原理が必要である。危機を煽るだけでは、一過性のものとしかなりえぬ。

「団結せよ!万国の労働者」と宣言したマルクスにはそれがあるように見えたから、世界に大きなインパクトをあたえた。人びとに夢と希望を示したのだ。そこには疎外されている労働者たちを解放するという「理想」が熱く語られていた。(それでも、広まるのに二十年以上かかっている)

 マルクスの著作には、かれを突き動かしている情熱が脈打っている。人間を疎外する資本主義のシステムと、それを操るブルジョアジーへの激しい憤怒、虐げられた人びとへの真率な共感――それなくして、ただ理論だけで、これほどまでに長く広範な影響を及ぼし続けることはなかったろう。人びとはそこに、エゴイズムを超越する価値を見たのだ。
 いま「シン・マルクス主義」をあらたに提唱するならば、さらに何かを付加する必要がある。

 人間はエゴイズムで生きているわりに――いや、それだからこそ、エゴイズムを超越した理想の旗の下にあつまる。現実主義は、じつは現実的ではない。

 将来のために「自己抑制」しようというのは、身も蓋もない話、未来のエゴイズムのために現在のエゴイズムをひかえようという呼びかけである。それだと、いったい誰が自分の死後の世界のために、現在の自分を犠牲にしようとおもうだろうか。くりかえすが、そのためには、そうおもわせる「何か」がいる。
 それゆえ、そういうものを欠いた実在の共産主義政権は、「最大多数」のエゴイズムを抑えるために、例外なく、暴力革命を起こし全体主義的独裁政体を採用するしかなかったのだ。

 斉藤氏の描く未来像はのぞましいものかもしれない。しかしそれをかれのいうとおり、二・三十年のスパンでなしとげるのはきわめて難しい。暴力革命に訴えるにしても、地球全体という範囲を考えると、やはり短期日の達成はのぞめない。やはり百年単位の「長い行進」――漸進的改革がもとめられるだろう。

 なにも私は社会改革不要論を説いているのではない。私だって破局は避けたい。ただ、それを実現するには、その前に、確固たる世界観、人間観というものが必須であるとおもう。それは、現実的には、エゴイズムをどう考え、どう処理するかという課題に集約される。
 

 なくてならぬのは、政治や経済に先行する領域の思考である。それなくしては、画竜点睛を欠くことになる。漸進的な改革すらもできはしない。

 福田恆存は、エゴイズムの問題について考えぬいた。生涯にわたってそれと格闘したといっていい。エゴイズムは、人間存在のかかえる暗い闇の力を源泉とするものであり、人間の思考と行動のすべてに浸透しているからだ。

 斉藤氏の著作の批評から本論に入るつもりだったのだが、長くなりすぎたので、本日はここまでとしよう。

福田恆存さんや、そのほかの私が尊敬してやまない人たちについて書いています。とても万人うけする記事ではありませんが、精魂かたむけて書いております。