福田恆存を勝手に体系化する。9
福田恆存とD・H・ロレンス
ロレンスとの関係性は、いろんな人が書いているし、ここまで書いてきたこととダブルのでスルーしようと考えていたが、そうもいかないようなので、いちおう書いておくことにする。それというのも、みなさんが書いているのと、私の考えとでは、いくぶん違うようなのである。
のみならず、どれもロレンスからの影響については解説されているのだけれども、どういうわけか、両者の相違についてはなにも語られてはいない。それでは、片手落ちというものだ。
福田恆存はロレンスからの影響を公言しているし、翻訳もし、チャタレイ裁判で最終弁論をつとめてもいる。
しかし「体系化」ということにおいては、なんといっても「黙示録論」が最重要テキストである。福田恆存自身が、自分の思想は、「この本によって形造られた」と言明している。
「黙示録論」において、まず第一にみておく項目は、ロレンス独自の二元論。かれは人間を二つの自我に分けて考える。「集団的自我」と、「個人的自我」とである。(参考)
人には、個人的な側面と集団的な側面があるとロレンスはいう。集団的自我は、人間のポリス的動物である側面をさし、力への意思をもつ。人は複数になれば、例外なく、どちらかが優位を占める。一人は行き先を決め、もう一人はそれにしたがう。必然的に上から下へという権力の流れが生じる。そしてその権力の流れと呼応するように、主体的には、その集団性は「他人を支配し、その存在を左右し、あるいは英雄をみとめてこれに讃仰をささげ臣従せんとする」衝動としてあらわれる。その関係性を空間的に広げていけば、家族、友人、社会、国家とのかかわりとなり、それぞれの段階で人はみずからを充足させる地位を築こうとはかる。そしてそれを時間的に拡大すれば、歴史となり、集団的自我は民族の歴史をその背景としている。
それに対して、個人的自我は、「諦念、瞑想、自己認識、純粋なる倫理」の場として想定される、孤立した側面である。そこでのみ人は超越性を観想しうる。
個人的自我と集団的自我――理想と現実、道徳と政治、愛とエゴイズム、精神と肉体、永遠と刹那、もっとありていにいえば、善と悪。そのように早とちりせられては困る。ここで表明されているのはそういう単純な二分割の形式論ではけっしてない。
二つの自我はまったく別次元のものとして、立体的に把握されている――パースペクティヴを構成する二つの次元として。
しかもおそらくだが、福田恆存の内部でロレンスの二元論は、「神のものは神へ、カイゼルのものはカイゼルへ」というイエスの言葉とぴったり照応したのである。つまり、「異端者」であるはずのロレンスが、皮肉にも福田恆存をキリスト教精神の中枢へと招き入れたのだ――キリスト教を弾劾する「黙示録論」によって。
ロレンスの遍歴は、キリスト教――とりわけ、ピューリタニズムへの反抗からはじまる。
かれは、はじめは、最愛の母親から授けられたピューリタニズムの倫理を誠実に遂行しようとはかった。みずからの権力意志と性の情動をおさえつけ、本能を押し殺すことが正しいありかただと教えられていたからだ。それ自体、壮絶な戦いだったのだが、その最中にかれは自分自身の内部に悲鳴を聞いたのである。
ロレンスはそれが、みずからの生命の根源から発される悲鳴であると直観した。キリスト教の愛の思想を実践しようとすればするほど、肝腎の愛が磨滅してゆく。
ロレンスによれば、人は近代以降、個人の自立、あるいはその純粋性の追求によって全体性を失い、断片と化した。それにもかかわらず個人が完全体であろうとつとめることで、「愛は抵抗とな」り、最後には消滅するのである。近代の個人主義は必然的に、自己満足、自己陶酔、自己欺瞞へと転落する。
現代人は断片にすぎぬ――と、ロレンスはいう。いや、断片であり、不完全であるからこそ、人間なのだ、と。
造花は枯れないが、ほんものの花は枯れ落ちる。同様に、人間は男であれ、女であれ、不完全な存在である。「性」は、「汚らわしい小さな秘密」として、ピューリタニズムに罪として貶められてきたが、そこでこそ人は他者とむすびあい、生命を燃焼しうるはずだ、不完全であるからこそ、性を糸口に永遠の鼓動を打ち続けるコスモスと接続しうる。ロレンスはみずからの苦しい経験から、そう結論づけたのである。
さらにここで見ておくべき、重要な問題がある。それは「無意識」に関するものである。フロイトから影響をうけたとはいえ、これもまたロレンス独特の詩的直観からもたらされたものである。じっさい、フロイトをはげしく批判してもいる。
無意識の領域にあるものを無理におさえつけてはならない。それを理解しようとしてもならない。科学的分析を適用して論理の対象とするのはもってのほかだ。そうした行為はすべて生命力の扼殺へとむかう――ロレンスは、そう考えている。意識下のものには手を触れず、ただ感じとるだけでいい。そうすることで斑模様の美しい蛇は沼地でくつろぎ、われわれの生命力は充実する。
こうした無意識についての独特な思想を、福田恆存も引き継いでいる。うそではない、連作評論「一度は考へておくべきこと」では、こうした「無意識」との付き合い方が裏テーマとなっている。
それだけではない――
春から夏へ、そして秋から冬へ、そしまた復活の春という四季の循環が、誕生から青年期、壮年から老いて死へとむかう人間のリズムと同調することで、人は生命の根源がきざむ鼓動と同期しうると、ロレンスはいっているのである。こうした世界観をとらえて福田恆存は、ロレンスは晩年にいたって、カソリシズムに接近したとのべ、ふかい共感をしめしている。
そういうわけで、ロレンスが福田恆存の思想形成において、決定的な役割りをはたしたことはまちがいない。しかし問題は、ここからである。
どこから二人は袂を分かつのか――
一見してわかることは、両者の個性のちがいである。
ロレンスはなにごとも自己の経験から詩的直観によって割り出した観念を一方的に主張する。原文をお読みになればよくわかるのだが、かれの文体は飛躍が多く、詩的な比喩にみち、翻訳においてすら、きわめて官能的であることが強烈に伝わってくる。「チャタレイ夫人の恋人」を読んだ検察官があわてて発禁処分にしたのも、わからなくはない。
いっぽう、福田恆存は散文的であり理知的である。私はかれの文体もまた「官能的」だとおもっているのだが、それはロレンスの官能性とはまたちがったものだ。かれのレトリックは対話的であり、ことさら論理を大切にする。
しかしそれにしては、ロレンスの否定面についてほとんどふれてはいない。おそらくそれは、たとえば芥川龍之介にたいするのと同じく、惚れこんだ相手を批評の対象にした場合の、福田恆存の流儀なのだとおもう。
そこで私は、T・S・エリオットを参照する。ロレンスとエリオットは、福田恆存において現代英文学の分野では、二つの軸をなしていることは衆目の一致するところである。ならば、ある程度のレベルまで、エリオットに福田恆存の代弁をねがうことも、あながち牽強付会とばかりはいえまい。
エリオットはロレンス批判をはじめるにあたって、「ハーディよりは偉大な芸術家ではないにしても、遥かに偉大な天才だ」と、かれらしからぬ大仰な讃辞を寄せている。「偉大な天才」であるからこそ、それだけ「指導者としては危険である」といいたいのである。
ロレンスは主観的であり客観性を欠くと、エリオットは批判しているのである。そののちに、「異端審問」を開始する。
かれはロレンスに三つの決定的な欠陥を指摘している。第一に、「教育が与へるべき判断能力」の欠如。第二に、異常に鋭い感受性と深い直観力をもつが、そこから「いつも誤つた結論を引き出す」こと。第三に、「性的に不健全」なこと。
おそらく福田恆存も、ロレンスの主観性と第一の問題点にはある程度まで同意するのではないかとおもう。ここから両者の道は分岐してゆく。第二・第三については、正統主義者である以上に「保守主義者」であるエリオットのパースペクティヴにのみ映じる問題点である。福田恆存は、当然、エリオットともロレンスともちがうスタンスに立っているはずだ。
ロレンスが客観性に乏しいのは事実であると、わたしもおもう。たとえばかれの小説を読んでいると、作者の文明批判がたびたび顔を出して、話の腰を折り、物語の進行を著しくとどこおらせる。「チャタレイ夫人の恋人」でも、ともすれば、近代的個人主義や物質文明を批判するために、メラーズはコニ―との愛の行為におよんでいるかのような頓珍漢な感じを抱かせる箇所がある。ロレンスは自己主張にいそがしくて、そういう読者の心理は目に入らないのだ。
こうした強度の主観性は、ロレンスの思想にも影響をおよぼさずにはおかない。かれは近代の個人主義や相対主義に激しい批判の矢を放ちながら、自分自身、個人主義と相対主義の罠へと陥っているところがある。エリオットはそこを衝いているのだ。
――しかしロレンスはそこで終わるほど凡俗ではない。「教育が与へるべき判断能力」よりも、みずからの直観と肉体をかたく信じていた。そこからかれはむしろ、相対主義を極限まで推し進めることで、個人を越え、生命の根源へと迫ろうとしているのである。花は枯れ、人間は死ぬ。それぞれコスモスの一断片にすぎぬ。それでいいではないか。人間の相対性を甘受し、断片であることをみとめ、個体としての自律性や完全性などめざさず、それぞれのあるべき位置で断片に徹しきることができれば、ふたたび全体性を獲得できる。そしてその大事な入口として、かれは性を考えている。
それにたいしてエリオットは、どこまでも絶対者を、それもキリスト教の神を正面に立てる。とはいえ、ピューリタニズムが要求する宗教的掟にかれは「罪」など見ていないようだ。「老政治家」や「カクテル・パーティ」を読むと、かれは絶対のうちに――あるいは全体性のうちに、現代の相対主義をそのまま取り込み、位置づけてしまおうと企図しているかにみえる。
まあしかし、ここはエリオットを論じる場ではない。なぜならばエリオットはヨーロッパの正統思想を体現する者であり、極端な話、かれでなければならないということではない。
その点、ロレンスとの関係性は、福田恆存において独特の位置を占める。キリスト教の愛の思想、あるいは近代の個人主義を相手にした、ロレンスの生涯をかけた徒手空拳の挑戦に、福田恆存はなみなみならぬ共感をいだいていたからである。
――福田恆存にとってロレンスは、まさにかけがえのない存在だった。誤解を承知でいえば、文学とは「真理」をみつけだすことではなく、まずもって、生き、そして行動することだからである。
どちらにしろ、福田恆存は、こうした二人の英国詩人の行き方を見据えながら、日本人としての、またべつの道を模索した。